、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」
「おやまたかい。また惚気《のろけ》かい」
「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」
「変な野郎だ。どう考えても変だ」
観世銀之丞と丑松とはこんな塩梅《あんばい》に親しくなった。
「銀之丞さま、銀之丞さま!」
お品が往来で呼んでいた。
「オイ何んだい、お品さん」
「出てごらんなさいよ、通りますよ」
そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。
お品や、お品の両親や、近所の人達が道側《みちばた》に立って、南の方を眺めていた。
とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今|移転《ひっこ》して来たのであろう。
「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お生憎様《あいにくさま》、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には主人《ぬし》って者がなかったんだからね」「ところが主人《ぬし》が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな辺鄙《へんぴ》な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」
そこへ行列がやって来た。
すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。
そそられた銀之丞の心
銀之丞は何気なくそっちを見た。
女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、幽《かす》かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。
と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。
はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。
「悪くはないな、笑ってくれたんだ! だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら? そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な別嬪《べっぴん》だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる? あり得べからざる事でもない」
その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々《ういうい》しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧《ささ》げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。
「お茶をお上がりなさいませ」
「ああお茶かね、これは有難い。旨《うま》そうなお茶受けがありますな」
「土地の名物でございますの」
「ふうむ、なるほど、海苔煎餅《のりせんべい》」
お品はいそいそと茶を注いだ。
豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯|活花《いけばな》の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。
お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]であった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。
そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶《かな》っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。
それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌《いわお》にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。
そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。
彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。で
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