った。
「おおおお、お前達も寒かろう。さあさあ遠慮なく火にあたるがいいよ」
二〇
五匹の狼は尾を振りながら彼女の体へじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ついた。すぐに突き飛ばされ意気地《いくじ》なくよろめいたが、一緒に小屋の片隅へ集まりそこへ穏《おとな》しく跪座《つくば》った。そうしてそこから焚火越しに山吹の顔を見守った。一人の女と五匹の狼。――それが一つの部屋にいる。……何んと恐ろしいことではないか。ところがちっとも恐ろしくない。それは山吹が窩人《かじん》だからで、窩人と獣とは親類なのである。
熊も狼も狐狸も山吹にとっては友達であった。窩人部落にいた頃から彼女と獣達とは仲がよかったが、この木小屋へ来てからは一層両者は仲良くなり、多四郎の留守を窺《うかが》っては彼らは遊びに来るのであった。
その夜一晩待ったけれど多四郎は帰って来なかった。
翌る朝、彼女は小屋を出てそれとなくあっちこっち探してみたが恋しい良人《おっと》の姿は見えない。声を上げて呼んでも見たが答えるものは嵐ばかりだ。やがて夜がやって来た。夜中彼女は待ってみたがやはり帰って来なかった。また味気ない夜が明ける。朝の日光《ひかり》が射して来た。で、彼女は小屋を出て雪の高原を彷徨《さまよ》いながら狂人《きちがい》のように探してみたが結果は昨日と同じであった。で、また寂しい夜となる。……
夜が日に次ぎ日が夜につづき、恐怖、不安、疑惑、憤怒、嫉妬の月日が経って行った。
春がおとずれ初夏が来た。山の雪はおおかた消え欝々《うつうつ》たる緑が峰に谷に陽に輝きながら萌えるようになった。辛夷《こぶし》、卯の花が木《こ》の間《ま》に見え山桜の花が咲くようになった。鶯《うぐいす》の声、駒鳥《こまどり》の声が藪《やぶ》の中から聞こえて来る。
山吹はこの頃|懐妊《みごも》っていた。多四郎の種を宿していたのだ。
彼女はようやくこの頃になって、自分が多四郎に捨てられたことをはっきり[#「はっきり」に傍点]心に悟るようになった。
「復讐!」――と彼女は心に誓った。あたかも執着《しゅうじゃく》そのもののような窩人の娘の復讐がいかに物凄いかということを薄情な男に思い知らせてやろう! こう決心したのであった。
「でも子供には罪はない、何も彼も子供が産まれてからだ」
で、彼女は小屋の中で産み落とす日を待っていた。
やがて真夏がおとずれて来た。
笹の平の窩人達は祭りの用意に忙しかった。
宗介天狗《むねすけてんぐ》の祭礼《まつり》なのである。
これは毎年の慣例《しきたり》で七月十五日の早朝《あさまだき》にご神体の幕屋《まくや》がひらかれるのである。そうして黄金の甲冑《かっちゅう》で体を鎧《よろ》った宗介様を一同謹んで拝するのであった。
窩人達は元気よく各自《めいめい》の仕事にいそしんでいた。旗を作る者、幟《のぼり》を修繕《なお》す者、提灯《ちょうちん》を張る者、幕を拵《こしら》える者――笑い声、話し声、唄う声が部落中から聞こえていた。
やがて祭りの当日が来た。
天狗の宮の境内は旗や幟で飾られた。盛装を凝らした窩人達は夜のうちから詰めかけて来て、暁《あけ》の明星の消えた頃には境内は人で埋ずもれた。その時一群の行列が粛々《しゅくしゅく》と境内へ練り込んで来た。神事を執行《とりおこな》う人達で、先頭には杉右衛門が立っている。跣足《はだし》、乱髪、白の行衣《ぎょうえ》、手に三方《さんぼう》を捧げている。後につづいたは副頭領で岩太郎の父の桐五郎であった。手に松明《たいまつ》を持っている。
騒がしかった境内が一時に森然《しん》と静かになった。群集は左右に身を開いてその行列を迎え入れた。行列は粛々と歩いて行く。神殿の前で立ち止まる。ギーと神殿の戸が開く。と、杉右衛門と桐五郎とがシズシズと階段《きざはし》を上って行く。
桐五郎の持っている松明が、内陣の奥でチラチラと火花を散らして燃えているのが神秘めいて厳かである。
ギーとまたも軋《きし》り音《ね》がした。
群集はにわかに緊張した。神聖の幕屋がひらかれたからだ。群集の眼は一斉に内陣の奥へ注がれた。突然《いきなり》叫び声が響いて来た。内陣の奥から響いたのである。ザワザワと群集はざわめき[#「ざわめき」に傍点]出した。
その群集の眼前へ杉右衛門と桐五郎とが飛び出して来た。
「恐ろしい事じゃ! 勿体《もったい》ない事じゃ!」
杉右衛門が、嗄声《しゃがれごえ》で叫んだものである。
「宗介天狗は裸身《はだかみ》でござる!」
桐五郎が続いて叫んだ。二人ながらガタガタ顫《ふる》えている。そしてその顔は蒼白《まっさお》である。
群集は一刹那《いっせつな》静かであった。思いもよらない出来事のために物を云うことさえ出来なかったのだ。
が、次の瞬間には恐ろしい混乱が勃発《ぼっぱつ》した。彼らは口々に叫び出した。
二一
ある者はこれを神罰だと云った。
「我らの不忠実を怒らせられ神が奇蹟《ふしぎ》を下されたのだ」
またある者はこうも叫んだ。「泥棒が盗んだに相違ない。黄金《こがね》で作られた鎧冑《よろいかぶと》には莫大《ばくだい》な値打ちがあるからな。――城下の泥棒が盗んだのだ」
またある者は次のように云った。
「白法師の所業《しわざ》に相違ない。我々の部落、我々の信仰を日頃から彼奴《きゃつ》は譏《そし》っていた。我々の神聖な神を穢《けが》し、我々の霊場を踏み躙《にじ》った者は彼奴《きゃつ》以外にある筈《はず》がない!」
「そうだそうだ」
と群集は挙《こぞ》ってこの言葉に雷同した。
「白法師をひっ[#「ひっ」に傍点]とらえろ!」――「草を分けても探し出せ!」――「白法師を狩れ白法師を狩れ!」
群集は興奮して境内を出た。祭りは一変して白法師狩りとなった。
この日の真昼頃白法師は大岩の上に坐っていた。白衣、長髪、裸の足――昔に変わらぬ優しい微笑。
彼の前には岩太郎がいた。彼は仲間の隙を窺い、危急を白法師へ告げに来たのだ。
「悪いことは申しませぬ。早くお逃げ遊ばすよう。白法師狩りの者どもが間もなくやって参りましょう。どうぞどうぞ、一時も早く山をお立ち去り遊ばすよう」
云っているうちも気遣わしそうに岩太郎は四辺を見廻した。
「いや」
と白法師は静かに云った。「私《わし》は何者をも恐れない。私は決して逃げはしない」
「危険でございます白法師様!」
「いや」とまたもしずかに云った。「いや私には危険はない。私には深い自信がある。……これまでも彼らは幾度となくこの私を捉《とら》えようとした。しかしいつも失敗であった」
「はいさようでございます。仰《おお》せの通りでございます。しかし今度は、今度ばかりは安閑としてはおられませぬ」
「それも私には解っておる。彼らは彼らの守り本尊を私に穢されたと思っているらしい。がそれは間違っている。……黄金の甲冑《かっちゅう》を盗んだものは私ではなくて他にある」
「おっしゃるまでもござりませぬ」
岩太郎は頭を下げた。「尊い尊いあなた様がなんでさようなことをなされましょう。とは云え部落の者達は甲冑を盗んだはあなた様だと思い詰めておるのでござります。草を分け枝を切っても今度こそは逃がしはせぬと、部落の男女子供まで一人残らず馳せ集まり、人数おおよそ五百人余り山を囲んでさっきから探しておるのでござります」
「なるほど」
と法師は眼をとじてしばらくじっと考えていたが、「断じて私《わし》は逃げはせぬ。――しかし山は去ることにしよう」
「それが安全でござります。何より安全でござります」
「いや、私には危険はない。このままこの山におるとしても、私には神の恩寵《おんちょう》がある。窩人達にも捕われもしまい。一度《ひとたび》私が手を上げたなら忽然《こつぜん》と山火事が起こるであろう。もしまた足を上げたなら雪崩《なだれ》が落ちても来よう。……以前《まえかた》私は山火事を起こし彼らの集会《あつまり》を妨《さまた》げたことがある。もっとも真実《まこと》の山火事ではない。ただそう思わせたばかりであっていわば幻覚《まぼろし》に過ぎなかったが彼らは恐れて逃げてしまった。……私は彼らを恐れてはいない。私の恐れるのは自分自身だ。……私はこの山へ一年前に来た。最初は数十人の信者があった。しかし今はただ一人――ただ一人お前が残ったばかりだ。なんとはかない私の力であろう! 人を説くにはまだ早い、人を教えるのは僭越《せんえつ》である。それで山を去ろうというのだ。去ってそうして尚一層自分自身を磨《みが》こうというのだ」
この時ドッと鬨《とき》の声が眼の下の林から湧き起こった。得物を引っさげた窩人の群が雪を蹴立てて駈け上って来る。
しまった! と岩太郎は心で叫び、
「もう遅いかも知れませぬが、いそいでお隠れなさいまし! 一刻も早く、白法師様!」
しかし岩太郎がこう云った時にはもうそこにはいなかった。と見ると遥かの山の峰に何やら動くものがある。そうしてそこから風に伝わってこういう声が聞こえて来た。
「おさらばじゃ岩太郎! またお前達とも逢うだろう。それまではおさらばじゃ」
「ああ、あれが白法師様だ」
岩太郎は呟《つぶや》いて岩の上から幾度も頭を下げたものである。
二二
宗介天狗のご神体が無慙《むざん》に傷つけられ穢《けが》されたことは、笹の平の窩人達にとっては正に青天の霹靂《へきれき》であり形容も出来ない恐怖であった。白法師さえ取り逃がしたので、彼らはすっかり絶望した。絶望に次いで混乱が来た。平和であった窩人部落は一朝にして土崩瓦壊《どほうがかい》した。
十人二十人組を組んで笹の平を去る者が出来た。「黄金の甲冑を取り戻すまでは俺達はここへは帰って来まい」――「黄金の甲冑を探しに行こう。日本の国の隅々《すみずみ》隈々《くまぐま》を、幾年かかろうと関《かま》わない。探して探して探して廻ろう」
こう云って彼らは出て行くのであった。
一月二月と経つうちに笹の平の窩人の数はわずか二百人となってしまった。こうして秋が去り冬が来た頃には、笹の平は無人境となった。最後に残った二百人を杉右衛門自ら引卒《ひきつ》れて放浪の旅へ登ったからである。
天狗の宮には祀《まつ》る者がなく窩人の住家《すみか》には住む者がなく、従来《いままで》賑やかであっただけにこうなった今はかえって寂しく蕭殺《しょうさつ》の気さえ漂うのであった。
ある日、一匹の野狐が恐らく猟師にでも追われたのであろう、天狗の宮の拝殿へ一目散に駈け込んで来たが、幾日経っても出て行かなかった。そこを住家としたのである。次第に眷属《けんぞく》が集まって来て、荘厳を極めた天狗の宮は、獣の糞や足跡で見る蔭もなく汚されてしまい、窩人達の家々には狸《たぬき》や狢《むじな》が群をなして住み子を産んだり育てたりした。
こうして再び春となった。
野生えの梅が花を点じ小鳥が楽しそうに鳴くようになった。
この時、崖下の小屋の中で逞《たくま》しい赤児《あかご》の泣き声がした。山吹が子供を産み落としたのである。産まれた子供は男であった。で、猪太郎《ししたろう》と名付けられた。産婦の山吹は小屋の中で藁《わら》に埋まって横になっていた。介抱《かいほう》する者は誰もいない。ただ一匹の小さい猿がキョトンとしたような顔をして寝かせてある赤児の枕もとに行儀よくチョコンと坐っているのがせめてもの[#「せめてもの」に傍点]山吹の心やりであった。
宇宙のあらゆる動物のうち人間と名付くる生物が一番順応性を持っている。
こんなに苦しい境遇にあっても山吹は不思議に肥立《ひだ》って行った。わずかに残っている米と味噌、大事にかけて貯《たくわ》えておいた去年の秋のいろいろの果実《このみ》、食物《たべもの》と云えばこれだけであったが乳も出れば立って歩くことも出来た。赤児も元気よく育って行った。
こうして幾月か月が経ちまた幾年か年が経った。
五年の歳月が飛び去ったのである。
五年
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