める。変わった味だってあるだろう。当座の弄《なぐさ》みにゃ持って来いだ。お前だってそう思うだろう」
「ところで味はよかったかな」
「俺にとっちゃ初物だった。第一体がよかったよ。色の白さと柔かさとに羽二重《はぶたえ》というより真綿だね。それに情愛の劇《はげ》しさと来たら、ヒヒヒヒ、何んと云おうかな」
「畜生!」
と権九郎は叫びながらヒューと鞭《むち》を空に振り一匹の犬を撲《なぐ》りつけたが、「へ、うまくやりやがったな。人里離れた山奥の木小屋の中で二人っきりでよ、何をしたか知れたものじゃねえ、飽きるほどふざけたに違えねえ」
「当たらずといえども遠からずさ」
「それだけの女を振りすてて何んでまたお前は逃げるんだい。こいつが俺にゃ解らねえ」
「そいつあ今も云った筈だ。たかが窩人の娘じゃねえか。まさか一生|添《そ》うことも出来めえ」
「ふん、それじゃ飽きたんだな」
「正直のところまずそこだね」
「それにしては智恵がねえな」権九郎は嘲笑《あざわら》った。
「智恵がねえ? この俺がな?」
多四郎はにわかに眼を丸くする。
「捨ててしまうとは勿体《もったい》ねえ話だ。瞞《だま》して城下へ連れて来てよ、女衒《ぜげん》へ掛けて売ったらどうだ」
「へん、なんだ、そんな事か、孔明の智恵も凄《すさま》じいや。そんなことなら迅《と》くより承知よ」
「ナニ承知? ……何故しねえ」
「つまり玉なり[#「なり」に傍点]が異《ちが》うからさ」
「聞きてえものだ、どう異うね?」
「里の女ならそれもよかろう。思い込んだが最後之助、どんな事でもやり通そうという窩人の娘にゃ向かねえね」
「ふん、どうして向かねえんだい?」
「そんな気振りでも見せようものなら、こっちが寝首を掻かれるくらいよ」
「へえ、そんなに凄いんかい」
「何しろ向こうは夢中だからな」
「こら、畜生! 道草を食うな」
権九郎は自棄《やけ》に怒鳴りながら横へ逸《そ》れる犬を引き締めた。「雪の降ってる冬の夜中だ。道草食うにも草はあるめえ、トットットットッ。走れ走れ!」
権九郎はむやみと鞭を振る。
一八
雪で蔽《おお》われた森や林が蒼い月光に照らされて幽霊のように立っている。橇が走るに従ってだんだんそれが近寄って来る。やがて橇が行き過ぎるとそれもだんだん後《あと》の方へ小さく小さく消えて行く。白無垢《しろむく》を着た険しい山や巨大《おおき》な獣の口のようにワングリと開いた谿《たに》なども橇が進むに従って次第次第に近寄って来、橇が行き過ぎるに従って後へ後へと飛び去って行く。そうして空の朧月《おぼろづき》は、橇が進もうが走ろうがそんなことには頓着せず、高い所から茫々《ぼうぼう》と橇と人とを照らしている。
橇の上の人間は――五味多四郎と権九郎とは、少しの間黙っていた。権九郎は手綱を弛《ゆる》められるだけ弛め、犬を自由に走らせながら、早く城下へ帰って行き暖かい居酒屋で酒をあおりながら素晴らしい獲物の分け前を取れるだけ沢山取ってやろうと、こんな事を腹の中で考えていた。それに反して多四郎は、この素的《すてき》もない黄金を自分一人でせしめ[#「せしめ」に傍点]たいものだと魂胆《こんたん》を巡らしているのであった。多四郎は四方を見廻したがグイと懐中《ふところ》へ手を入れた。
「しかし待てよ」と呟くとそっとその手を抜き出した。「急《せ》いては事を仕損ずる。あぶねえあぶねえ」
と腕を拱《く》み、権九郎の様子をじっ[#「じっ」に傍点]と窺う。
権九郎は多四郎へ背を向けたまま無心に手綱を操っていた。隙だらけの姿勢である。多四郎は四方を見廻した。戦いには地の利が肝心だ。……こう思ったからでもあろう。この時橇は山と谿との狭い岨道《そばみち》を走っている。
いつの間にか空が曇り、一旦止んでいた牡丹雪が風に連れて降って来た。見る見る月影は薄れて行きやがて全く消えてしまった。
雪明りで仄々《ほのぼの》とわずかに明るい。
この時、多四郎は右の手をまた懐中《ふところ》へ差し込んだが何か確《しっか》りと握ったらしい。と、じっ[#「じっ」に傍点]と眼を据えて権九郎の背中を睨んだものである。
岨道《そばみち》を曲がると眼の前へ広漠たる氷原が現われた。吹雪は次第に勢いを加え吠えるようにぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来る。犬が苦しそうに喘《あえ》ぎ出した。そうして度々逃げようとして繋《つな》ぎの紐《ひも》へ喰い付いた。とそのつど権九郎の鞭がしたたか[#「したたか」に傍点]背中を打つのであった。
「さあ今だ! さあ今だ!」
多四郎は自分で自分の胸へこう口の中で云い聞かせながらジリジリと前へ寄って行った。その時、岩にでも乗り上げたものか不意に橇が傾いた。とたんに多四郎は懐中からヌッと腕を引き抜いたが、その手が空へ上がったかと思うとキラリと何か閃《ひら》めいた。と権九郎は「あッ」と叫びバラリ手綱を放したが次の瞬間にはゴロリとばかり雪の中へ転げ落ちた。
「多四郎! わりゃ、俺を斬ったな」
血に塗《まみ》れた肩先を片手で確《しっか》り抑えながら、権九郎は体をもがいたものである。
多四郎は短刀を逆手に握り悠然と橇から下り立ったが、冷ややかに権九郎を睨み付け、
「どうだ権九、苦しいか」
「仲間を斬ってどうする気だ! さては手前血迷ったな。あ、苦しい。息が詰まる」
「何んで俺が血迷うものか。ずんとずんと正気の沙汰だ」
「なに正気? むうそうか。それじゃ汝《われ》アあの獲物を……」
「今やっと気が付いたか。……一人占めにする気だわえ」
「そうはいかねえ!」
と云いながら権九郎はヒョロヒョロ立ち上がったが、肩の傷手《いたで》に堪えかねたものか、そのままドシンと尻餅《しりもち》をついた。
「そっちがその気ならこっちもこうだ、さあ小僧覚悟しろ!」
これも呑んでいた匕首《あいくち》を抜くと、逆手に握って構えながら、立て膝をして詰め寄った。
馭者《ぎょしゃ》を失った犬どもがこの時烈しく吠え出した。三頭ながら空を仰ぎ降りしきる雪に身を顫《ふる》わせさも悲しそうに吠えるのである。
最初の傷手で権九郎は次第次第に弱って来た。肩からタラタラ滴《したた》る血は雪を紅《くれない》に染めるのであったが夜のこととて黒く見える。立とう立とうと焦心《あせ》っては見たがどうしても足が云うことを聞かない。膝でキリキリ廻りながらわずかに多四郎を防ぐのであった。
「それ行くぞ」
と多四郎は嘲けりながら飛び廻った。彼は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》たるもので、右から襲い左から飛びかかりグルリと廻って背後から襲う。鼠《ねずみ》を捕えた猫のように最初に致命的の一撃を加え、弱って次第に死ぬのを待ち最後に止《とど》めを差そうとするのだ。
多四郎は莫迦《ばか》にお喋舌《しゃべ》りになった。
「おい権九、いやさ権九郎、何んと俺様は智恵者であろうがな。産まれながら蒲柳《ほりゅう》の質《たち》で力業には向き兼ねる。そこでお前を利用してよ、途方もねえ獲物を盗み出したところで、相棒のお前を殺してしまえば濡れ手で粟の掴み取り、一粒だって他へはやらねえ。……そのまた獲物が予想にも増し小判に直して四万両いや五万両は確かにあろう。へ、こう見えても多四郎様は、今日から大したお金持よ、贅沢《ぜいたく》のし放題。綺麗な女に旨《うま》い酒に不自由はねえというものさ」
一九
「……おお苦しいか苦しいか。さぞ痛かろう痛かろう。肩からドクドク血が出ているなア。その苦しみもほんの一時、後は往生観念仏、楽になろうというものだ」
「む、むううう」
と権九郎は口を利くことさえ出来なくなった。それでもいわゆる最後の一念、全身の力を足にこめ俄然《がぜん》スックと立ち上がった。間髪を入れず斬り下ろした匕首。油断していた多四郎の腕へ切っ先鋭くはいったが冬の事で着物が厚く裏掻《うらか》くことはなかったものの、多四郎の周章《あわ》てたことは云うまでもない。「あっ」と叫んで後ろ様にパタパタと五、六歩逃げたほどである。
手の匕首をまず落とし、それから枯木が倒れるように権九郎は雪の上へ仰向《あおむ》けに仆《たお》れた。そしてそのまま長くなりもう動こうとはしなかった。彼は全く息絶えたのである。雪はさんさんと降っている。憐れな権九郎の死骸《しがい》の上へも雪は用捨なく積もるのである。黒く見えていたその死骸は見ているうちに白くなった。やがてすっかり見えなくなった。雪の墓場へ埋められたのだ。
多四郎はヒラリと橇へ乗った。
一言も云わず見返りもせず彼は橇を走らせた。間もなく彼と橇の影とは吹雪に紛《まぎ》れて見えなくなった。森然《しん》と後は静かである。
ウォーとその時森の方から狼《おおかみ》の声が聞こえて来た。それに答えてどこからともなくウォーウォーと狼の声が二声三声聞こえて来た。と、純白の雪の高原へ一点二点、三、四点、黒い形が浮かび出たがだんだんこっちへ近寄って来る。すなわち数匹の狼である。
四方に散っていた狼がさっ[#「さっ」に傍点]と集まって一団となるや、その一団の狼は鼻面を低く地へ垂れて人間の血を恋うようにこっちへノシノシと走って来たが、死骸の埋ずまっている場所まで来るとグルグルグルグル廻り出した。廻りながらパッパッと雪を掻く。掻かれた雪は嵐《あらし》に煽《あお》られ濛々《もうもう》と空へ立ち昇る。その下から現われたのは無慙《むざん》な権九郎の死骸である。颯《さっ》と狼は飛びかかった。
死骸は狼に喰い裂かれ、後へ残ったのは襤褸《ぼろ》ばかりであった。しかしそれさえ雪に蔽われ瞬間《またたくま》に消えて行った。
小屋の中は暖かった。焚火《たきび》が元気よく燃えている。
山吹はじっ[#「じっ」に傍点]と坐っていた。
その眼は焚火を見詰めていたが心は別のことを考えていた。良人《おっと》の帰りを待っているのだ。多四郎の帰るのを待っているのだ。
多四郎は容易に帰って来ない。――帰らないのが当然《あたりまえ》である。彼は彼女を振りすてて城下へ帰って行ったのだから。
しかし彼女はそんなこととは夢にも考えはしなかった。で、熱心に待っていた。
戸外《そと》では吹雪が荒れていると見えて、枝の折れる荒々しい音が風音に雑《まじ》って聞こえて来た。
不意に彼女は顔を上げ窓の方へ眼をやった。
コトンコトンと音がする。
彼女は物憂《ものう》そうに立ち上がり窓の戸を引き開けた。口の尖った、眼の優しい熊の顔が現われた。窓から覗いているのである。
山吹は寂しそうに笑ったが、
「おおおお今日も大雪で山には食物《くいもの》がないと見える」
こう云いながら鍋を取り上げ食べ残りの雑炊《ぞうすい》を投げてやった。と、熊の顔はすぐ引っ込みやがて雑炊を食べるらしい舌打ちの音が聞こえて来た。それが止むと同じ顔がまた窓へ現われた。
「もうないよ。あっちへお行き」
こう云いながら手を振ると、熊は二、三度|頷《うなず》いたが、スッと窓から消えてしまった。
そこで山吹は窓を閉じ元の場所へ帰って来た。じっと焚火を見詰めながら、また物思いにふけるのである。
夜は次第に更けて行った。
彼女はいつまでも待っていた。身動きさえしないのである。
その時足音が聞こえて来た。しかし人の足音ではない。シトシトシトシトと小屋の周囲《まわり》をその足音は廻り出した。しかも多勢の足音である。それはどうやら犬らしい。甘えるような泣き声がクーン、クーンと聞こえて来た。
「おや来たんだよ、お爺さん達が」
呟きながら山吹はまただるそう[#「だるそう」に傍点]に立ち上がると入口の戸を開けてやった。その戸口からはいって来たのは五匹の凄じい狼であった。全身、雪で白かったが鼻面ばかりは赤かった。生血《なまち》に塗《まみ》れているのである。
権九郎の死骸を食い荒らしたその五匹の狼達であった。
しかも一匹の狼は肉の着いた骨をくわえていた。それは権九郎の骨なのである。しかしもちろん山吹はそんなことは夢にも知らない。で、彼女はこう云
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