八ヶ嶽の魔神
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お姉様|灯火《あかり》

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(例)※[#「女+予」、第3水準1−15−77]
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   邪宗縁起

         一

 十四の乙女《おとめ》久田姫は古い物語を読んでいる。
(……そは許婚《いいなずけ》ある若き女子《おなご》のいとも恐ろしき罪なりけり……)
「姫やどうぞ読まないでおくれ。妾《わたし》聞きたくはないのだよ」
「いいえお姉様お聞き遊ばせよ。これからが面白いのでございますもの。――許婚のある佐久良姫《さくらひめ》がその許婚を恐ろしいとも思わず恋しい恋しい情男《おとこ》のもとへ忍んで行くところでございますもの」
「姫やどうぞ読まないでおくれ。妾は聞きたくはないのだよ」
「お姉様それでは止めましょうね。……」
 姫は静かに書《ふみ》を伏せた。
「ああ、もう今日も日が暮れる。お部屋が大変暗くなった……お姉様|灯火《あかり》を点《つ》けましょうか」
「妾はこのような夕暮れが一番気に入っているのだよ……もう少しこのままにしておいておくれ……お前はそうでもなかったねえ」
「お姉様|妾《わたし》は嫌いですの。妾の好きなのはお日様ですの」
「幼《ちいさ》い時からそうだったよ。明るい華やかの事ばかりをお前は好いておりましたよ。夏彦様のご気象のようにねえ」
「陰気な事は嫌いですの。このお部屋も嫌いですの。いつも陰気でございますもの。お姉様灯火を点けましょうか」
 姉の柵《しがらみ》は返辞をしない。で室《へや》の中は静かであった。柵は三十を過ごしていた。とはいえ艶冶《えんや》たる風貌《ふうぼう》は二十四、五にしか見えなかった。大変|窶《やつ》れていたけれど美しい人の窶れたのは芙蓉《ふよう》に雨が懸《か》かったようなものでその美しさを二倍にする。几帳《きちょう》の蔭につつましく坐り開け放された窓を通して黄昏《たそがれ》の微芒《びぼう》の射し込んで来る中に頸垂《うなだ》れているその姿は、「芙蓉モ及バズ美人ノ粧《ヨソホ》ヒ、水殿風来タッテ珠翠|香《カンバ》シ」と王昌齢が詠《うた》ったところの西宮《せいきゅう》の睫※[#「女+予」、第3水準1−15−77]《はんにょ》を想わせる。
 幼い妹の久田姫がこのお部屋も嫌いですのと姉に訴えたのはもっともであった。館造《やかたづく》りの古城の一室、昔は華やかでもあったろう。今は凄《すさま》じく荒れ果てて器具も調度も頽然《たいぜん》と古び御簾《みす》も襖《ふすま》も引きちぎれ部屋に不似合いの塗りごめの龕《がん》に二体立たせ給う基督《キリスト》とマリヤが呼吸《いきづ》く気勢に折々光り、それと向かい合った床の間に武士を描いた二幅の画像が活けるがように掛けてあるのが装飾《かざり》といえば装飾である。
 久田姫は立ち上がった。静かに画像の前へ行き二人の武士を見比べたが、
「ねえお姉様、何故このお二人は、こうも恐ろしいお顔をして向かい合っているのでございましょう。お互いの眼から毒でも吹き出しお互いの眼を潰《つぶ》し合おうとして睨《にら》み合っているようではございませぬか。そうかと思うとお互いの口は古い城趾《しろあと》にたった二つだけ取り残された門のように固く鎖《と》ざされておりますのねえ。……深い秘密を持っていながらそれを誰にも明かすまいとして苦しんでいるように見えますこと」
 柵《しがらみ》は几帳《きちょう》を押しやってふと[#「ふと」に傍点]立ち上がる気勢を見せたが、
「ほんとにお前の云う通りその画像のお二人は不思議なお顔をしているのねえ」
「お姉様」と云いながら久田姫はつと[#「つと」に傍点]近寄り柵の膝《ひざ》へ手を置いたが、「この画像のお二人のうちどちらか一人|妾《わたし》のお父様に似ておいでになるのではございますまいか?」
「それこそ妄想というものですよ」柵はこうは云ったものの、その声は際立って顫《ふる》えている。
「お前はいつぞや[#「いつぞや」に傍点]も画像を見て同じような事を云ったのねえ。……ああお前のその妄想がどんなに妾を苦しめるでしょう……いいえお前のお父様はどちらにも似てはおいでなさらないのですよ」妹の顔をつくづく見守り重い溜息《ためいき》をそっと吐いたが、「……お前がこの世に産まれた時――もう十四年の昔になる――お前のお父様とお母様とはこのお城からお出ましになり諏訪《すわ》の湖水の波を分け行衛《ゆくえ》知れずにおなりなされたのだよ」
「いいえ妾には信じられませぬ」久田姫は遮《さえぎ》った。「信じられないのでございますわ。何故《なぜ》と申しますにそうおっしゃる時いつもお姉様のお眼の中に涙が溜《た》まるではございませぬか。偽りの証拠でございますわ」
 こう云うと久田姫は眼を抑えた。指と指との隙を洩れて涙が一筋流れ出た。彼女は泣いているのである。
 窓を透して射し込んでいた幽《かす》かな夕暮れの光さえ今は全く消えてしまって室内はようやく闇《やみ》となった。その闇の中で聞こえるものは妹の泣き声ばかりである。
 その時静かに襖が開いて尼《あま》が一人はいって来た。黒い法衣に白い被衣《かつぎ》。キリスト様とマリヤ様に仕えるそれは年寄りの尼であった。
「まあこのお部屋の暗いことは。灯火《あかり》を点《つ》けないのでござりますね。……お祈りの時刻が参りました。灯火をお点けなさりませ」

         二

「はい」
 と久田姫は立ち上がった。そろそろと龕《がん》の前まで行きカチカチと切り火の音をさせ火皿へつつましく火を移した。黄金の十字架は燦然《さんぜん》と輝きキリストのお顔もマリヤのお顔も光を受けて笑《え》ましげに見える。
 年寄りの尼を真ん中にして久田姫と柵《しがらみ》とは龕の前にひざまずいた。
 尼は恭《うやうや》しくお祈りを上げる――「悩み嘆く魂のために安らけき時を与え給え。犯せる罪を浄《きよ》めるために浄罪の時を与え給え。――神の怒りは火となりて我らの五体を焼き給うとも我らは永劫《えいごう》に悔いざらん。アーメン」
「アーメン」
「アーメン」
 と二人の姉妹もそれに続いてさも恭しくこう云った。
「お祈りはもう済みました。お休みなさりませ、お休みなさりませ」
 尼は云い捨てて立ち去った。室内は再び静かになった。と、遠くから祈祷《きとう》の声が讃歌《うた》のように響いて来る。尼達が合唱しているのであろう。
 久田姫は立ち上がり何気なく窓へ近寄って行ったが、
「……おお湖は真っ暗だ。どうやら嵐が出たらしい。濤《なみ》の音が高く聞こえる……ああ湖の上に灯が見える。あそこに船がいるのかも知れない。だんだんこっちへ動いて来る。路案内の灯でもあろう。……」
 姉の柵《しがらみ》は龕の前に尚《なお》つつましくひざまずいていた。熱心にお祈りをしているのであった。すすりなきの声がふと洩れる。
「お姉様」
 と云いながら久田姫は窓を離れ姉の後ろへ寄り添った。
「何をお泣きなされます。妾《わたし》がくどく[#「くどく」に傍点]あのような事をお尋ねしたからでございますか? ……もう妾はお父様のことは何んにもお尋ね致しませぬ。どうぞお許しくださいまし」
 隣りの部屋へ歩きながら、
「妾はこれからはただ一人で考えることに致しましょう。お休みなさりませお姉様。夜はまだ早いのではございますが、妾は悲しくなりましたゆえ、いつものように夜の床の上でご本を読むことに致します。お休みなさりませお姉様」
 彼女の立ち去ったその後は遠くから聞こえる祈祷の声ばかりが寂《さび》しい部屋をいよいよ寂しくいよいよ味気なく領《りょう》している。
 ふと[#「ふと」に傍点]柵は顔を上げたがその眼には涙が溢れている。
「可哀そうな久田姫や、お前は何一つこの妾《わたし》に詫びることはないのだよ。妾こそお前に詫びねばならぬ。可哀そうなお前の身の上は妾の淫《みだ》らな穢《けが》れた血で醜《みにく》く彩《いろど》られているのだからねえ」
 彼女はよろよろと立ち上がり画像の前まで行ったかと思うと二幅の画像を交互《かわるがわる》に眺め、
「ほんとに姫が云ったように何んとマアこの二人の人は悲しそうな顔をしているのであろう。云えば恥となり云わねば怨《うら》みとなる。そう云ったような深い秘密をじっと噛みしめているようだ。けれど妾にはその秘密がどのようなものだか解っている。それが解っているために妾の声はお祈祷《いのり》に顫《ふる》え妾の眼は涙に濡れ……そうして妾の生涯は……」
 その時一人の老人が影のように部屋の中へはいって来た。乱れた白髪|穢《よご》れた布衣《ほい》、永い辛苦《しんく》を想わせるような深い皺《しわ》と弱々しい眼、歩き方さえ力がない。
「お姫様《ひいさま》」と老人は声を掛けた。深みのある濁った声である。
「おお、お前は島太夫……何か妾にご用なの?」
「もうお休みでござりますか?」
「お祈祷《いのり》も済んだし懺悔《ざんげ》もしたし今日のお勤行《つとめ》はつとめてしまったからそろそろ妾は寝ようかと思うよ」
「それがよろしゅうござります。不吉の晩はなるだけ早くお休み遊ばすに限ります」
「え、不吉の晩というのは?」
 老人は窓を指さしたが、
「ご覧あそばせ闇の湖に一つ点《とも》された赤い灯を……」
 云われて柵《しがらみ》はスルスルと窓の方へ寄って行った。後から老人もつづきながら、
「十四年前のある晩のこと、ちょうどあのような赤い灯が湖水を越えて行きましたが、よもや[#「よもや」に傍点]お忘れではござりますまいな? その時あなた様は今夜のようにやはりその窓でそのように湖水を眺めておられました。……お顔の色もお体も今夜のように蒼褪《あおざ》めて顫《ふる》え、そしてお眼からも今夜のように涙が流れておられました。ただ今夜と違っておられます事は尼様達のお祈祷《いのり》の代りに猛《たけ》りに猛る武士《もののふ》のひしめきあらぶ[#「あらぶ」に傍点]声々《こえごえ》が聞こえていたことでござります」
 柵《しがらみ》は物にでも襲われたように両手で顔を抑えたが、「何も彼《か》も妾《わたし》は覚えている。あああの晩の恐ろしかったことは……」
「……その夜お城から乗り出した軍装《いくさよそお》いした二隻の船には互いに剣《つるぎ》を抜きそばめ互いに相手を睨み合った若い二人の武士《もののふ》が乗っておられた筈でござりますな。……それこそ他ならぬあのお二方。画像のお方達でござります」
「それも妾は覚えている。一人は橘宗介《たちばなむねすけ》様! おお妾の許婚《いいなずけ》!」
「はい、そうしてそのお方様こそこの城の主《あるじ》でござりました。そうしてもう一人のお方様は宗介様のおん弟夏彦様でござりました」
「夏彦様! 夏彦様!」

         三

 突然思慕に堪《た》えないようにこう柵《しがらみ》は叫んだが、そのままぐるりと窓の方へ向いた。そうして両手を差し出して遥《はる》か湖水の彼方《かなた》の方にその恋人が立っているのを招くかのように打ち振った。
「不吉の夜でござります」――老いたる従者はまた云った。「何故と申しますに、十四年前の古い思い出が甦《よみがえ》り蝮《まむし》に噛《か》まれた昔の傷がちょうどズキズキ痛むように痛んで参ったからでござります。――ご覧遊ばせ、赤い船の灯が次第次第にこのお城へ近寄って参るではござりませぬか。……次第次第にこのお城から遠ざかって行った十四年前の二隻の軍船とは反対に。……お休みなさりませお姫様。不吉の晩でござりますから」
 影のように現われた老人は、影のようにこの部屋から去ろうとしたが、ふと戸口で振り返った。
「思い出したことがござります。と申するは他《ほか》でもござりませぬ。三点鐘《さんてんしょう》のことでござります」老人は回想にふけるよう
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