に、「十四年前二隻の船が湖水を渡って立ち去りました時、宗介様と夏彦様とがこのようにあなた様とお約束なされ、お誓い遊ばしたではござりませぬか――いつの日いかなる時を問わず闇の夜赤き灯火《ともしび》を点じ湖水を漕《こ》ぎ来る船にしてもし三点鐘を打つ時は……」
「私の許婚《いいなずけ》の帰った証拠!」
「また二点鐘を打つ時は……」
「夏彦様が帰った合図!」
「その通りでござります。今夜のような不吉の晩にはその鐘が不意に湖上から鳴らないものでもござりませぬ。よくよくご用心遊ばしませ」
 足音を消して老人は廻廊の方へ出て行った。
 後は寂然《しん》と静かである。
 と、柵《しがらみ》は身顫《みぶる》いをし物におびえた[#「おびえた」に傍点]というように部屋の中を怖そうに見廻したが、ツト画像の前まで行き、夏彦の画像へ両手を投げ掛け譫言《うわごと》のように叫ぶのであった。
「夏彦様夏彦様、果たし合いにお勝ちくださりませ! そうしてどうぞ一刻も早くお城へお帰りくださりませ! 三点鐘の鳴らぬよう二点鐘の鳴りますように神様お加護くださりませ!」
 とたんに湖上から鐘の音が窓を通して聞こえて来た。赤い灯火のついている軍船で鳴らす鐘に相違ない。
 ボーンと、一つ鮮明《はっき》りと最初の鐘が鳴らされた。続いて二つ目の鐘の音が殷々《いんいん》として響いて来た。
「二点鐘!」と柵は聞き耳をたてながら呟いた。しかし間もなく三つ目の鐘が鮮かに尾を曳いて鳴り渡った。そしてそのまま絶えたのである。三点鐘が鳴ったのだ。恋しい夏彦は帰らずに、名ばかり許婚の宗介が果たし合いに勝って帰って来たのだ。
 柵の顔は蒼白となり眼ばかりギラギラと輝いたが、その眼で夏彦の画像を見詰め物狂わしくこう叫んだ。
「夏彦様夏彦様! あなたは永久にこのお城へはお帰りなさらないのでござりますね。十四年の間、恋と嘆《なげ》きに明かし暮らした妾《わたし》の胸へ二度とお帰りなさらないのだ」
 彼女はにわかに冷ややかな眼で宗介の画像に見入ったが、
「あなたがこのお城へ帰ったとて何が待っておりましょうぞ。お祈祷《いのり》をする尼様と、あなたにとっては敵の子と、そして冷たい許婚の屍《むくろ》ばかり……あなたの希望《のぞみ》はこれこのように消えてしまったのでござりますぞ」――云いながら龕《がん》の前へ行き点《とも》された灯火を吹き消した。
 それから彼女はそろそろと歩いて姫の寝間の前まで来た。
「可哀そうな久田姫や、お前の恋しがっているお父様は、もうこの世にはおいでなさらぬのだよ。お前はこれからは一生をちょうど陽蔭《ひかげ》の花のように寂《さび》しく咲かなければならないのだよ。おお可哀そうな久田姫や! そしてお前のお母様は……そしてお前のお母様は……」
 そこに立ててある几帳《きちょう》の蔭へ彼女は静かにはいって行った。と、一瞬間「あっ」という声が几帳の蔭から聞こえて来たが、ただ一声聞こえただけで後は寂然《しん》と静かになった。
 あわただしい足音を響かせて、島太夫が部屋へ飛び込んで来たのはそれから間もなくのことであった。
「お姫様《ひいさま》! 柵《しがらみ》様!」
 と彼は四辺《あたり》を見廻したが、
「お、これは灯が消えている。それにお休みなされたらしい。……お姫様! お姫様! お起き遊ばさねばなりませぬ! 三点鐘が鳴りました!」
 しかしどこからも返辞がない。几帳の蔭はひそやかである。

         四

「寝息も聞こえぬとはどうしたことだ。よくよくご熟睡遊ばしたと見える。がどうしてもお起こし申さねばならぬ」彼は几帳へ手を掛けたが、「ごめんくださりませお姫様……あっ! これは! 南無三宝《なむさんぼう》!」
 思わず膝をついた一刹那《いっせつな》、タッタッタッと階段を登る逞《たくま》しい足音が聞こえて来たが、闇にもそれと見分けのつく鎧冑《よろいかぶと》に身をよそった一個長身の武士《もののふ》が颯《さっ》と蝙蝠《こうもり》でも舞い込んだように老人の眼前へ現われた。
「誰だ!」と島太夫は声を掛ける。「何用あって参ったぞ! 身分を明かし名をなのれ!」
 すると不思議な侵入者は葬式に鳴らす太鼓のような深い不気味な濁った声で、
「命令するのだ! 灯火《ひ》をつけろ!」ツト一足進んだが、「……年頃闇には慣れておれど久々で見るこの部屋がこう暗くては面白くない。さあすぐに灯火《ひ》をつけろ!」
「そういうお声は? ……あなた様は?」
「俺はこの城の持ち主だ! 俺は橘宗介だ!」
「お殿様でござりましたか」
「何より先に灯《ひ》をつけろ。――そちはたしかこの城で物見の役をつとめていた島太夫と云った老人であろう。幽《かす》かに声に覚えがある。もしその島太夫であるならば忠義一図の男の筈《はず》だ。そちの主人が命ずるのだ、早く灯火《あかり》を点《つ》けるがよい」
 島太夫は恭《うやうや》しく一揖《いちゆう》したが、そろそろと龕《がん》まで歩いて行き燭台に仄《ほの》かに灯をともした。部屋の中が朦朧《もうろう》と明るんで来る。
 宗介は部屋の中を見廻したが、
「……これが昔の俺の城か。あの華美《はなやか》だった部屋だというのか。熊の毛皮を打ち掛けた黒檀《こくたん》の牀几《しょうぎ》はどこへ行った。夜昼絶えず燃えていた銀の香炉もないではないか。……や、ここに十字架《クルス》がある! 誰がここへ置いたのだ? 何んのためにマリヤを飾ったのだ! 俺は昔から天帝《ゼウス》に対して何んの尊敬も払っていなかった。ましてマリヤや基督《キリスト》に対しては頭を下げたことさえない。天帝《ゼウス》の教えを信じたのは俺ではなくて夏彦であった。……島太夫お前は覚えていような。十四年前のある晩に俺と夏彦とは部下を従え三隻の軍船に打ち乗って湖水を分け天竜川を下り一人の女の愛を得ようと阿修羅《あしゅら》のように戦ったことを! ああある時は二つの船は舷《ふなばた》と舷とを触れ合わせて白刃と白刃で切り合った。またある時は二つの船は互いに遠く乗り放し矢合わせをして戦った。闇の夜には篝《かがり》を焼《た》き、星明りには呼子《よびこ》を吹き、月の晩には白浪《しらなみ》を揚げ、天竜の流れ遠州《えんしゅう》の灘《なだ》を血にまみれながら漂《ただよ》った。永い間の戦いに夏彦の部下も俺の部下も一人残らず死に絶えた。俺の弓矢は朽《く》ちて折れ夏彦の弓矢も朽ちて折れた。しかも二人の怨みばかりは綿々《めんめん》として尽きぬのだ」
「その間中このお城にもいろいろの出来事がござりました」
 老いたる家来《けらい》島太夫は眼をしばたたき[#「しばたたき」に傍点]ながら云うのであった。
「お城に止どまった武士《もののふ》達がお殿様方と夏彦様方と明瞭《はっき》り二派に立ち別れ、切り合い攻め合い致しましたため次第次第に人は減り、やがて死に絶えてしまいました。その寂しさに堪えられず、お姫様の柵《しがらみ》様は天帝《ゼウス》の恩寵《おんちょう》にお縋《すが》りして安心を得ようとなされました。それをどうして知ったものか九州|天草《あまくさ》や南海の国々から天帝を信じる尼様達が忍び忍びにおいでなされ、お姫様と力を合わせ殺伐《さつばつ》であったこのお城を祈祷十字架《きとうクルス》聖灯の光で隈々隅々《くまぐますみずみ》まで輝いている教団と一変させました。つまりお城は十四年の間に亡びてしまったのでござります」
「城は亡びても武士は死んでも俺の許婚《いいなずけ》の柵は活きてここに住んでいような?」
「はい、ご無事でござります」
「俺はあの女を愛していた。あの女は俺の許婚だ。俺は死ぬほど愛していた。それだのに柵は俺のことを糸屑《いとくず》ほどにも愛していなかった。あの女の恋人は夏彦であった。俺の弟を愛していたのだ。世にも憎い奴輩《やつばら》め! 虹《にじ》のようなはかないそんな歓楽がいつまでつづくと思っていたのか!」小脇に抱えていた丸い包物《つつみ》を島太夫の前へ突き出したが、「島太夫、十字架《クルス》の前へ行け、この包物《つつみ》を開けて見ろ!」
「…………」――老人は無言で包物を受け取り龕の前まで歩み寄ったが、そろそろと包物をほどいて見た。男の生首が現われた。既《すで》に予期したことである。島太夫は驚きもしなかった。
「見たか。首を。夏彦の首級《くび》だ! ……あの晩は天竜の河の面《も》を燐の光が迷っていた。星さえ見えぬ大空を嵐ばかりが吹いていた。湧き立つ浪は鬣《たてがみ》を乱した白馬のように崩れかかり船を左右にもてあそんだ。俺と夏彦とは二人きりで船の船首《へさき》に突立ちあがり、互いに白刃を抜き合わせ思うままに戦った。天運我にあったと見え、颯《さっ》と突いた突きの一手に夏彦は胸の真ん中を刺され帆柱の下《もと》に倒れたが、そのまま呼吸《いき》は絶えてしまった。――十四年という永い年月互いに怨んだその怨みはこうしてとうとう晴らされたのだ。そうして俺は夏彦の首級を手に提《ひっさ》げて帰って来た。そして今ここに立っている。……ここにこうして立ちながら一人の女を待っているのだ。俺の許婚|柵《しがらみ》の現われて来るのを待っているのだ。さて、島太夫お前に命ずる。早く柵を連れて来い」
「…………」

         五

「何も恐れることはない。何も憚《はばか》ることはない。十四年ぶりで城の主《あるじ》が腰に血染めの剣を佩《は》き、手に敵の首級を持ちその首級を女に見せようと思って約束通り帰って来たのだ。さあ柵を連れて来い! 島太夫、柵にこう云ってくれ。……戦いに倦《あ》きた宗介《むねすけ》が生血《なまち》に倦きたこの俺が美しい許婚に邂逅《ゆきあ》って恋の甘酒《うまざけ》に酔いしれ[#「しれ」に傍点]たくそれで帰って来たのだとな。そしてまたこうも云ってくれ、そなたの恋人の夏彦を大事にかけて連れて来たとな、その夏彦は世にも穏《おとな》しく笑いもせず物も云わずただ悲しそうに無念気に黙っていると云ってくれ。早く行け島太夫! そうして柵《しがらみ》を連れて来い! 俺は女を見たいのだ。殺された恋人の首級《くび》を見てどんなに女が悶《もだ》え苦しむか俺はそれが見たいのだ。その悲しみとその悶えとを俺に見せまいと押し隠し空々《そらぞら》しい笑《え》みを顔に湛《たた》えて俺の方へ手を延ばすその柵を見たいのだ。早く柵を連れて来い!」
「お連れ致さずともお姫様《ひいさま》はすぐお殿様のお目の前においで遊ばすのでござります」島太夫は顫《ふる》えながら手を上げて几帳《きちょう》の蔭《かげ》を指差した。「静かな睡眠《ねむり》永遠の睡眠《ねむり》……お姫様は几帳の蔭で眠っておられるのでござります」
 聞くと一緒に宗介はつかつかと几帳の前まで行った。
「柵、柵、眼を醒《さ》ませ。そなたの許婚宗介が今こそここへ戻って来たのだ。さあ早くそこから出て俺《わし》の贈り物を見るがよい。やッ……」
 とにわかに仰天《ぎょうてん》し宗介は几帳を掻いやったがぐたり[#「ぐたり」に傍点]と膝を床に突いた。
 と、灯火の仄《ほの》かの光に淡くおぼろに照らし出されたのは血に染んだ柵の屍骸《なきがら》である。
 思わず宗介は両手を延ばし彼女の躯《からだ》を抱き起こしたとたんに、襖《ふすま》がサラリと開いて走り出た一人の乙女。
「お姉様!」
 と叫びながら柵の屍骸へ取り縋《すが》る。
「誰だ!」
 と宗介は眼を見張りその乙女を見詰めたが、何んに驚いたか抱えていた柵をはたと床へ取り落とした。
 と、島太夫は沈痛にむしろ厳《おごそ》かに云うのであった。
「お姫様でござります。柵様が十四年前にお産み遊ばしたお姫様の久田姫でござります」
「十四年前に産んだというか? ふうむ、確かに十四年前だな? ……これ娘顔を上げろ! おおいかにも酷似《そっく》りだ! 夏彦の容貌《かお》と酷似《そっく》りだ! 因果な娘よ不義の塊《かたまり》よ、立って十字架《クルス》の前へ行け! そこにある首級《くび》がお前の親父《おやじ》だ。そうしてここに自害している柵こそはお前の母親だ」
 
前へ 次へ
全37ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング