宗介は腰の太刀を抜き、躍《おど》り上がり躍り上がり打ち振ったが、
「栄えに栄えた城は亡び仇も恋人も等《ひと》しく死んだ! 俺は彼らに裏切られた。俺の怨恨《うらみ》は永劫《えいごう》に尽きまい。俺は一切を失った。俺には何一つ希望《のぞみ》はない! 俺はいったいどうしたらいいのだ※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ああ俺は恋を呪《のろ》う! 俺はあらゆる幸福を呪う! 俺は人間を呪ってやる! 俺は生きながら悪魔になろう! 山へ山へ八ヶ嶽へ行こう! 水の上の生活《くらし》には俺は飽きた。俺は山の上の魔神になり下界の人間を呪ってやろう!」
 叫び狂い罵《ののし》る声は窓を通し湖水を渡り、闇の大空に聳《そび》えている八つの峰を持った八ヶ嶽の高い高い頂上《いただき》まで響いて行くように思われた。

 ここまで語って来た杉右衛門は岩の上に突っ立ったまま静かに四辺《あたり》を見廻した。
 文政《ぶんせい》元年秋の事でここ八ヶ嶽の中腹の笹の平と呼ばれている陽当りのよい大谿谷には真昼の光が赭々《あかあか》と今一杯に射《さ》し込んでいる。既に八つの峰々には薄白く初雪が見えているが、ここまでそれが下りて来るには一月余りの余裕があろうか。見渡す限りの山々谷々には黄に紅に色を染めた幾億万葉の紅葉《もみじば》が錦を織って燃え上がっている。眼の下|遥《はる》かの下界に当たって、碧々《あおあお》と湛《たた》えられた大湖水、すなわち諏訪《すわ》の湖水であって、彼方《かなた》の岸に壁白く石垣高く聳《そび》えているのは三万石は諏訪|因幡守《いなばのかみ》の高島城の天主である。
 天《てん》晴れ気澄み鳥啼きしきり長閑《のどか》の秋の日和《ひより》である。
「さて」と杉右衛門は語りつづけた。「我らのご先祖|宗介《むねすけ》様が正親町《おおぎまち》天皇|天正《てんしょう》年間に生きながら魔界の天狗となりこの八ヶ嶽へ上られてからは総《あらゆ》る下界の人間に対して災難をお下しなされたのだ。そしてご自分の生活方《くらしかた》も下界の人間とは差別を立てられ家には住まず窩《あな》に住まわれた。そのうち四方から宗介様を慕って多くの人間が登山して参ったが、それらはいずれも人界《ひとのよ》において妻を奪われ子を殺され財宝を盗まれた不幸の者どもで、下界の人間|総《すべ》てに対して怨恨《うらみ》を持っている人間どもであった。こうして魔神宗介様は多数の眷族《けんぞく》を従えられ、いよいよ益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》人間に向かって惨害をお下しなされるうち、世はやや治《おさ》まって信長《のぶなが》時代となりさらに豊臣《とよとみ》時代となりとうとう徳川時代となった。宗介様の肉体はとうにこの世を辞したけれど、魂|尚《なお》神となってこの谿谷《たに》に残っておられる筈だ。そうして我々眷族の子孫は窩に住むため窩人《かじん》と呼ばれ人界の者どもに恐れられ、今日までここに住んで来た。ところが……」
 と窩人の長《おさ》の、杉右衛門は屹《きっ》と眼を瞋《いか》らせ、彼の前にずらりと並んでいる五百に余る窩人の群を隅から隅まで睨み廻したが、
「ところがこの頃どこから来たものか白法師と自分から名を宣《なの》る奇怪な法師がこの山へ来て、『敵を愛せよ』というようなことを熱心に説法し出した。そうだ、これとて不届き千万ではあるが、それにも増して許し難いのは窩人の身分でありながら、その白法師めの説法を窃《ひそ》かに信じる者があり、宗介天狗を勧請《かんじょう》した天狗の宮の境内《けいだい》で毎夜毎夜|集会《つどい》をなし、その白法師を呼び迎え説法を聞く者があるということじゃ。これは我々の宗教《おしえ》から見て許し難い罪悪じゃ! 見出《みいだ》してこの山から追い出さねばならぬ。何んとそうではあるまいかな?」
「そうだそうだ!」
 と叫ぶ声が集まった窩人の口々から雷のように轟《とどろ》いた。
「さて」と一段声を高め杉右衛門はさらに云い出そうとしたが、にわかに棒のように立ちすくみ山の峰の方を見詰め出した。群がった窩人達は怪しみながら彼の眼を追って峰の方を見た。と同音に「わっ!」と叫び大事な評定《ひょうじょう》も忘れたかのように四方に向かって逃げ出した。
 峰は今や山火事なのである。
 涸《か》れ乾いた木の葉に火が点《つ》いたのである。濛々《もうもう》たる黒煙のその中から焔《ほのお》の舌が閃《ひらめ》いて見え嵐に煽《あお》られて次第次第に火勢は麓《ふもと》の方へ流れて来る。
 窩人の部落は今やまさに焼き払われようとしているのである。

         六

 窩人の頭領杉右衛門の娘の今年十九の山吹《やまぶき》は家の一間で泣いていた。
 父は寄り合いに出かけて行き弟の牛丸もどこへ行ったものか家の内にはいなかった。
 彼女は泣き喋舌《しゃべ》っているのであった。
「あの人|憤《おこ》って行ってしまったわ。どうしよう、どうしよう、どうしよう! よくまだ妾《わたし》が云わないうちにあの人憤って行ってしまったんだもの。そりゃ妾だって悪かったけれどあの人だってあんまりだわ。……でも妾ほんとにあんな事を何故あの人に云ったんだろう。――妾が都会《みやこ》へ行って見たいと云ったら、あの人にわかに妙な顔をして『何故行きたい』って訊《き》くものだから、『妾もうこんな山の上の部落なんかには飽き飽きした』って、ついうっかり云ってしまうと、あの人恐ろしい顔をして、『山吹、お前は、山の中に住むこの俺の顔にも飽きたろうな。弁解《いいわけ》したって通らねえよ。聞けば高島の城下(今の上諏訪町)から、多四郎とかいう生《なま》っ白《ちろ》い男が、お前を張りに来るそうだが、これ、気を付けねえといけねえぞ。かりにも窩人部落の女で、下界の人間と契《ちぎ》ったが最後天狗の宮の岩の上から深い谷底へ投げ下ろされ必ず生命《いのち》を失うのだからな』と声の調子まで恐ろしく変えて、こうあの人が云ったかと思うと自分の頭の毛を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り、『ああ俺はお前に騙《だま》された。俺は意気地《いくじ》のねえ人間だ。俺はお前に見捨てられた! もう俺はこれっきりお前とは逢わねえ! その多四郎とかいう下界の奴と手に手を取って部落を出るがいい。そうして下界の真人間となってうんと[#「うんと」に傍点]出世をするがいいや! だがな、山吹、よく覚えていろよ。お前が下界で出世している時俺はやっぱり窩人部落の八ヶ嶽の中腹の笹の平で、お前の事を恋い焦《こが》れながら猪《しし》熊猿を相手にして憐れに暮らしているってことをな!』……こういうと妾を振り切ってズンズン行ってしまったんだよ。誰があの人を騙《だま》したって云うの。妾《わたし》騙しなんかしやしないわ」
 彼女の前に誰かいて、その人に訴えてでもいるかのように彼女はいつまでも泣き喋舌《しゃべ》っている。
 秋の真昼のことであって黄味の勝った陽の光が家の内まで射し込んでいる。家造作《やづくり》は窩人の風俗通り大岩を掘り抜き柱を立てたいわゆる古代穴居族の普通の家造作と同じであったが、杉右衛門は一族の頭領だったので、したがってその住居は特別に広く半分《なかば》以上は岩窟から外へ喰《は》み出して造られているのであった。
 山吹は窩人族の乙女としてはほとんど類なく美しかった。やはり頭領の一人娘だけに衣裳などでも他の娘などより立派な物を着ているので自然引っ立ちもするのであろうが、下界高島の城下における立派な武士の令嬢と云っても充分通る容姿《ようす》であった。
 その美しい山吹が秋陽に半顔を照らしながらシクシク泣いているのであるから、ちょっと形容出来がたいほど可愛《かわい》らしく見えるのであった。
 その時、手近かの林の中から雉笛《きじぶえ》の音が聞こえて来たが、のっそり[#「のっそり」に傍点]草を分けて出て来たのは彼女の弟の牛丸であったが年はおおかた十四ぐらいでもあろうか、ひょいと[#「ひょいと」に傍点]家の前まで来ると、姉の様子を覗《のぞ》き込んだ。
「うわア、姉さん泣いてらあ。こいつアほんとに面白いや」
 林の中で捕ったのでもあろう雉を一羽|提《さ》げていたが、それを土間の方へ抛《ほう》り出すと縁側へどん[#「どん」に傍点]と腰を掛け、
「今ね、姉さん、多四郎さんがね、姉さんを訪ねてここへ来るよ」
「え、まあ本当! 多四郎さんが?」
「林の中から坂路の方を見たら素晴らしく洒落《しゃれ》込んだ多四郎さんがね、こっちへ上って来るじゃないか。で俺《おい》ら急いで走って行って色々あの人と話したがね……」
「まあそれじゃ本当なんだね」
 山吹は思わず手を上げて髪の乱れを掻き上げた。
 牛丸はそれを見るとニヤニヤして、
「ふうんこいつア妙だなあ、多四郎さんのこととなると姉さん変にソワソワするんだもの」
「そんな事云うもんじゃありませんよ。お前さんはまだ子供じゃないの。……それで多四郎さんは何んと云って?」
「ああ尋《たず》ねたよ姉さんの事を。『あなたの姉さんお幾歳《いくつ》?』てね。厭《いや》に気取った云い方でね」
「そうしてお前さんは何んて答えて?」心配そうに訊くのであった。
 牛丸はまたもニヤニヤしながら、「二十二だって云ってやったよ。つまり三つ懸け値をしてね」
「まあ」と呆《あき》れて山吹は思わず両手を打ち合わせたが、
「どうしようどうしよう悪戯《いたずら》っ子《こ》! 妾あの方に自分の年を十八だって云って置いたのよ!」
 二人の姉弟《きょうだい》は腹を抱え面白そうに笑ったが、その心地よい笑い声は森や林へ反響し二人の耳へ返って来た。

         七

 牛丸は部屋の中を見廻したが盆に高く積まれてある秋栗の山を見付けると、
「姉さん誰かお客さんがあったの?」
「ああ、あったよ岩太郎さんがね……」
「ああそう、あの人はいい人だねえ。俺《おい》らあの人大好き。多四郎さんのようにお洒落《しゃれ》でなく、それに部落の人だからね。……何故《なぜ》早く岩さん帰ったんだろう?」
「憤《おこ》って帰って行ったんだよ」
 二人はちょっと眼を見合わせたがそのまましばらく黙っていた。
 林から林へ移って行く小鳥の群が幾度となく二人の前を過ぎて行った。風もないのにホロホロホロホロと紅葉《もみじ》が庭へ降って来る。草叢《くさむら》からピョンと飛び出して峰の方へ颯《さっ》と走って行ったのは栗色をした兎《うさぎ》である。ケーンケーンと森の奥から雉の啼き声が聞こえて来る。時々|雹《ひょう》でも降るかのように林の中から聞こえて来るのははぜ[#「はぜ」に傍点]た大栗が転がり落ちるのである。
 事のない時の部落の光景はまことに平和なものである。
「や、来たらしい。足の音がするよ。多四郎さんが来たんだよ」
 牛丸はこう云って坂の方を首をのばして見やったが、
「下界の奴なんか意気地なしさね、あんな坂を上るのに大息を吐いているんだからな。――俺らはそれでは林へ行って今度は山鳥でも捕ってやろう」
 牛丸はそのまま走り出したが、やがて林に隠れてしまった。同時にひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]坂の登り口へ形のよい姿を現わしたのは問題の主の多四郎であった。
 彼は年の頃二十四、五、都風《みやこふう》に髪を結《ゆ》い当世風の扮装《みなり》をし色白面長の顔をした女好きのする男であったが、眼に何んとなく剣があり、唇が余りに紅いのは油断の出来ない淫蕩者《いんとうもの》らしい。肩に振り分けにして掛けているのは麓の城下から持って来るところの色々の珍らしい器具《うつわ》や食物《たべもの》で、つまり彼は山と城下とを往来している行商人なのであった。
「お、これは山吹様、あなたお一人でございますかな? お父様はどこへ参られましたかな? え、寄り合いにおいでなされたと?」
 多四郎は愛想よく笑いながら山吹の側《そば》へやって来たが上がり框《がまち》へ腰を下ろした。
 山吹は何んとなく狼狽して思わず顔を赤らめたりしたが、
「はい、お父様は寄り合いで天狗の宮まで参りました。白
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