法師様を縛《から》め取るための相談なのでございましょうよ」
「あっちへ行っても白法師こっちへ来ても白法師。どうやらお山は白法師のために荒らされているようでございますなあ」
諂《へつら》うように微笑したが、
「私のためには結句《けっく》幸い。何んとそうではございませぬかな」彼はそろそろと手を延ばして山吹の方へ近寄って行く。
「それはまた何故でございますの」
「だってそうではございませんか。こうしてたった二人きりで差し向かっていることの出来ますのもその白法師様のお蔭ですからな」
云いながら素早く山吹の手をギュッと握ったが、そこは初心《うぶ》の娘である。「あれ!」と仰山《ぎょうさん》な金切り声を上げ握られた手を振り解《ほど》いた。
「エヘヘヘヘ」
と笑ったものの多四郎は少なからずテレたものか、テレ隠しに盆の上の栗を摘《つま》んだ。
「ほほう大きな栗ですなあ」わざとらしく眼を見張る。
「よかったらお食《あが》りなさりませ」笑止らしく山吹はこう云った。「余り物ではございますけれど」
「へ、余り物とおっしゃると?」
「あの、お客がありましたのよ」
「あなた一人の所へね?」もう嫉妬《しっと》からの詮索《せんさく》をする。
「ええ心やすい人ですもの。岩さんという方ですわ」
彼女は無邪気《むじゃき》に云うのであった。
「妾《わたし》の従姉兄《いとこ》に当たりますの」
「それじゃ部落の人ですね」さも嘲《あざ》けった様子をして、
「へ、熊猪《くまじし》のお仲間か! ところで先日の話の続きを今日はお話ししましょうかな」
「どうぞ」
と山吹は乗り出して来たがもうその眼は恍惚《うっと》りとなり胸をワクワクさせているらしい。
「それジワジワとおいでなすったぞ。この大江戸の話ばかりが資金《もとで》いらずの資金というものさ。田舎《いなか》の女を誑《たら》すにはこれに上越《うえこ》すものはないて」
――多四郎はこんなことを思いながら上唇をペロリとなめ、
「……何が美しいと云ったところで江戸の祭礼《まつり》に敵《かな》うものはまず他にはありませんな。揃いの衣裳。山車《だし》屋台。芸妓《げいしゃ》の手古舞《てこま》い。笛太鼓。ワイショワイショワイショワイショと樽《たる》天神を担《かつ》ぎ廻ります。それはたいした[#「たいした」に傍点]景気でさあね。……大名行列もふんだん[#「ふんだん」に傍点]に見られ、河開《かわびら》きにはポンポンと幾千の花火が揚がるんですよ。それより何より面白いのは歌舞伎《かぶき》狂言|物真似《ものまね》でしてね。女役《おやま》、実悪《じつあく》、半道《はんどう》なんて、各自《めいめい》役所《やくどこ》が決まっておりましてな、泣かせたり笑わせたり致しやす。――春の花見! これがまた大変だ!」
八
「え、大変とおっしゃると?」
山吹は顔を上気させ眼をうるませて聞き惚れていたが吃驚《びっくり》したようにこう云った。
「何、大変と申したところで悪い意味じゃありませんよ。つまり素晴らしいと云ったまで。――そりゃア素晴らしゅうござんすよ。この辺に咲く山桜、あんなものじゃあありませんね。桃色大輪の吉野桜、それが千本となく万本となく、隅田《すみだ》の堤《どて》、上野の丘に白雲のように咲き満ちています。花見|衣《ごろも》に赤|手拭《てぬぐ》い、幾千という江戸の男女が毎日花見に明かし暮らします。酒を飲む者。踊りを踊る人。伽羅《きゃら》を焚いて嗅《か》ぐものもある。……」
「まあ」――と山吹は感嘆の声を思わず口から洩らしたが、「そういう江戸には美しいお方が沢山《たくさん》おいででございましょうねえ」
「それは沢山おりますとも。それに扮装《みなり》が贅沢《ぜいたく》ですよ。衣裳はお召し。帯は西陣。長襦袢《ながじゅばん》は京の友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》。ご婦人方はお化粧をします。白粉《おしろい》に紅《べに》に匂いのある油……」
「まあ」
とまたも感嘆して山吹は溜息《ためいき》を洩らしたが、
「ああ妾《わたし》行って見たい。ああ妾行って見たい!」と夢見るような声で云った。若い娘の好奇心と若い娘の虚栄心とから迸《ほとばし》り出た声である。
「しめた!」と多四郎は思ったがそういう様子は※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》にも出さず至極《しごく》真面目の顔付きで、
「江戸へ行きたいとおっしゃるので? おいでなさりませご案内しましょう。ですから私はお逢いするたびに申しておるではありませんか。あなたのような美しい方が何んでこのような山の中の、しかも窩人《かじん》の部落などにいつまでもおいでなさるかとね」
「でも……」と山吹は云いよどんだ。「何んにも知らない田舎者がそのような繁華の土地へ出てあちこち[#「あちこち」に傍点]で恥を掻くよりもいっそやっぱりここにいて兎や猿と暮らした方が身のためになりはしますまいか」
「その心配はご無用です。この多四郎が付いておりやす」彼はポンと胸を叩いたがこういう気障《きざ》なやり口も浮世を知らぬ山の娘にはかえって頼《たの》もしく思われるらしい。で、彼女は莞爾《にっこ》りした。
「あの、そうしてあなたのお家も、お江戸にあるのでございましょうねえ?」
「お江戸? そうそう江戸にあります」
こう多四郎は云ったものの心中ギクリとしたのであった。彼は城下の人間で江戸などに邸はないからである。
「広いお家でございましょうねえ?」
山吹はまたも恍惚《うっと》りと訊く。
「え、私の家ですかな? ……ええまあ随分広うごすなあ」――その実多四郎は家ときたら一間《ひとま》しかない裏店《うらだな》なのである。
「ご家内も随分多いんでしょうねえ?」
「家内ええと、二、二十人」――彼は思わず額《ひたい》を拭いた。汗が滲《にじ》んで来たからである。その筈である。彼の家族は彼と母親との二人きりなのだから。
「ああ、駄目だわ! 妾なんか!」
突然絶望の声を上げ、山吹が両眼を抑《おさ》えたので多四郎はギョッとして腰を浮かせたが、何が駄目なのか解らない。
「ああ、妾なんか及ばないわ!」
再び彼女は叫んだものである。
「及ばない? 何が? どうしてですな?」
云いながら好機|逸《いっ》すべからずと彼は山吹の手をとった。それからそっと腰をかける。
山吹も今度はとられた手を振り放そうとはしなかった。じっとそのままとらせている。
「でもやっぱり行きたいわ。……」
囈語《うわごと》のようにこう云って彼女は多四郎の顔を見たが、
「あなたはどういうご身分のお方? お侍《さむらい》さんではありませんわねえ」
「違いますとも。そうではありませんとも」
「では、お百姓? ああ商人ね! 大きな大きな商人ね! でもどうしてそんなお方が行商などをなさいますの?」
「さあ、そこです。……」
と、多四郎は、また額を磨《こす》ったが、
「つまり、見習いをしているので。……」
「ああそう、それで解りました」
山吹はそこで押し黙って何か空想にふけり出した。と、多四郎は彼女の手を自分の口まで持って来てつと[#「つと」に傍点]唇を着けようとする。その手を山吹はちょっと引いたがそれは無心でしたことであった。そんな事より今や彼女は自分が江戸へ出て行って立身出世をした時の事を空想に浮かべているのであった。
で、多四郎は懲《こ》りずにまた山吹の手をとったがやはり彼女はそのままでいた。
と、山吹は囈語《うわごと》のようにまたもこんなことを叫んだのであった。
「ああ妾《わたし》厭だ! 山の中は!」
「では参ろうじゃありませんか。花の大江戸の真ん中へね」
多四郎は山吹の手を引いた。彼女は彼に引かるるままに彼の胸の上に顔を埋ずめた。
「連れて行ってください! 連れて行ってください! 妾どうしたって江戸へ行きます!」
九
凄《すさま》じい微笑が一刹那《いっせつな》多四郎の頬に浮かんだが、山吹の顔をジリジリと上の方へ向けようとする。二人の顔が合った時多四郎は突然自分の顔を山吹の顔へ落としかけた。
とたんに笑い声が聞こえて来た。ハッとして二人が顔を上げると牛丸が門口に立っている。
「ヤーイ、何をベチャクチャしてるのだい! 岩さんに云い付けるぞ!」憎悪《ぞうお》の光を眼に湛《たた》え、「オイ岩さんがやって来るぞ! 妙な人と一緒にな!」
「馬鹿! 悪戯《いたずら》っ児《こ》! 厭な餓鬼《がき》!」
そこは部落の女である。猛烈の感情を一時に出して山吹は弟を罵《ののし》った。
「岩さんが何んだ! 岩太郎が何んだよ! 来たら追い出してやるばかりさ!」
「ふん」と牛丸も喧嘩腰《けんかごし》になり、「多四郎の奴が来ないうちは岩さんで大騒ぎをしたくせに!」グルリと森の方へ向きを変えたが、「やあもうそこまでやって来た。……妙な人が従《つ》いて来るよ……」
山吹も多四郎もそれを聞くと首を差し出して森の方を見た。
「あら、ほんとに岩さんが来る」山吹は周章《あわ》てて叫んだが、「来たら返してやるばかりだね」
「ははあ、不格好なあの男がそれじゃ岩という男ですな」多四郎は鼻を鳴らしながら、「私の家の庭男にも当たらぬ」
牛丸はさもさも[#「さもさも」に傍点]嬉しそうに、「俺《おい》ら岩さんを迎いに出てやろう」彼はそとまで走って行った。
「おや」
とにわかに多四郎は不安の様子を現わした。
「何んて恐ろしい顔付きだろう。あの妙な人の顔付きは!」
彼は両掛けを取り上げた。そうして横手の潜《くぐ》り戸《ど》から坂の方へパタパタと逃げ出した。
「あら、多四郎さんどうなすったの※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
山吹は驚いて叫んだが、「妾《わたし》も、妾も、妾も一緒に!」
――周章《あわ》てて潜り戸から飛び出した。
後には、部屋の中には誰もいない。黄色い秋陽がしらしら[#「しらしら」に傍点]と敷物の上を照らしている。小鳥が一羽戸惑いしてツト部屋の中へ飛び込んで来たが、すぐ驚いたように飛び出して行った。しん[#「しん」に傍点]と四辺《あたり》は静かである。
と、戸外《いえのそと》で話し声がする。
「牛丸さん、今日は」
「ああ、岩さん、今日は」
「姉さん家においでかね?」
「ええいますよ家の中に」
「どなたかお客さんでもありますか?」
「…………」
「とにかくはいって見ましょうかね」
すぐと土間へはいって来たのは、牛丸と岩太郎と白衣《びゃくえ》を着たすなわち「妙な人」とであった。
岩太郎は多四郎と同年輩であった。人柄はまるで反対であった。真面目で熱烈で堅実でいかにも部落の若者らしい。縞《しま》の筒袖《つつそで》に山袴《やまばかま》を穿《は》き獣皮の帯を締めている。
白衣の人物はそれとは異なり真に神のように神々《こうごう》しい。抜けるほど白い皮膚の色。髪を肩まで切り下げているのがかえって一種の尊厳を添える。白衣を長く裳《すそ》まで垂れ足の先を隠しているが、その足には何んにも穿《は》いていない。秀《ひい》でた額、高い鼻。形のよい口には微笑が湛《たた》えられ一見|赤児《あかご》さえ懐《なつ》きそうである。彼の眼は全く不思議なものである。つまり威厳の象徴であって、ある時は玲瓏《れいろう》珠の如くに見え、ある時は猛獣をも尻ごみさせるほどの恐ろしい眼にも見えるのであった。しかもそれが一瞬の休みもなく自由自在に変化するのであった。
岩太郎は四辺を見廻したが、
「おや誰も家にはいないじゃないか」
「やあ姉さんはどこへ行ったんだろう」牛丸は部屋部屋を探し歩いたが、
「いないいないどこにもいない。ああそれじゃ逃げたんだな。岩さんと逢うのが恥ずかしくて。ようし俺ら探して来よう」
飛び出そうとするのを抑えたのは白衣の妙な人であった。
「探さずともそのうち帰って来よう。巣のある鳥は巣へ帰るものじゃ。……で、お前さんが牛丸さんかね?」
親しそうに妙な人は尋ねたが、その声はちょうど岩を走る清水のように清らかであった。
悪戯者《いたずらもの》の牛丸もにわかに態度を改めたが
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