、
「悪戯者の牛丸とは私のことでございます」
と、さも丁寧《ていねい》に云ったものである。
「ハッハッハッ。悪戯者とは面白いね。自分から云うのは正直でよい。――ところでたった[#「たった」に傍点]今ここから出て坂の方へ逃げた者がある。あれはどういう人間だね?」
「若い男じゃございませんか? もしそうなら多四郎の奴です」
一〇
「なに多四郎?」
と、それを聞くと岩太郎は颯《さっ》と顔色を変えたが、妙な人のために制せられた。
「私《わし》もそうだと思いました」妙な人は威厳をこめ、「あの男はよくない人間ですぞ。あの人間はある目的をもって天狗の宮の絶壁の下に木小屋を造って住んでいます。そうして城下へ下りて行っては色々の物を買って来ます。それを持って行商に来るのです。城下から山へ来るのではなく自分は木小屋に住んでいて絶えず部落の動静をうかがい乗ずべき隙を狙《ねら》っているのです。……」
「へえ、さようでございますか。悪い奴でございますなあ」岩太郎はひどく驚いたが、「それにしてもどうしてあなた様はそれをご存知なのでございましょう?」
「ああそれは何んでもない。私は寸刻の隙さえ惜しんでこの山中を見廻っている者じゃ。で、私はある日の事、その木小屋を見付けたのじゃ。……おや、誰か戸口にいるな。私の話を盗み聞きしている」
なるほど、そう云った瞬間に山吹が戸口からはいって来た。さすがに頬を赤く染め呼吸《いき》をはげしく吐いているのは恋人多四郎を追っかけて行って追いつくことが出来なかったからであろう。
「ああ姉さん」
「おお山吹!」
二つの声が同時に呼んだ。山吹と呼んだのは岩太郎である。
岩太郎はツト進み出たが、
「山吹、俺《わし》は何んにも云わぬ。俺は偉い人をお連れした。どうぞこのお方に礼を云っておくれ」
云われて山吹は眼をあげてその妙な人を眺めたが、にわかにその眼は光を増した。敬虔《けいけん》の情が起こったのである。で、彼女は無言ながら恭《うやうや》しく頭を下げたのである。
妙な人は神々しい顔に穏《おだや》かな微笑を湛《たた》えたが、
「あああなたが山吹さんで? お目にかかれたのを喜んでおります」
「妾《わたし》も嬉しく存じます」
「山吹!」と岩太郎は情熱をこめ、「山吹、俺は安心している。ここにおられるこのお方がきっと俺達二人の者を和睦《わぼく》させてくださるに相違ない。――さっき俺達は喧嘩したねえ。そしてもう俺は逢わぬと云ってお前の所から飛び出して行った。……しかし俺はまた来たよ。それは他の理由《わけ》でもない。このお方をお前に紹介《ひきあわ》せたいためだ。山吹! このお方はお偉い方だ!」
頸垂《うなだ》れていた顔を上げ山吹はまたその人を見た。とその人はまた微笑し、さも謙遜《けんそん》に堪《た》えないように、
「いやいや私《わし》は偉い人でも勝《すぐ》れた人間でもありませんよ。俺《わし》は平凡な人間です。しかし俺は真実《ほんと》を語りそして真実《ほんと》を行っています。あるいはこの点が普通の人物《ひと》と違っている点かもしれませんな。……それはとにかく今日|先刻《いましがた》俺はこの方と逢いました。そうです向こうの林の中で岩太郎さんと逢ったのです。そうして俺はこの方と暫時《しばらく》無駄話をしましたっけ」
「そうです」
と岩太郎は感謝の眼《まなこ》を上げ、
「……恋を失った口惜しさに俺《わたし》は頭の毛を掻《か》き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りながら林の中を走っていました。その時ヒョッコリあなた様にお目にかかることが出来ました。俺《わたし》は一眼あなた様を見た時すぐに懐かしく存じました。それで俺は何も彼も――山吹との恋のことや、その恋が今日破れたことまでお話ししたのでございます」
「そうそうあの時のあなたというものはまるで狂人のようでしたね」
妙な人は打ち案じながら、
「けれど暫時《しばらく》俺《わし》を相手に無駄話をしておられるうちに次第に心が和《なご》みましたな。……さて、話は変わりますが、ひとつ俺《わし》は山吹さんに物語を聞かせてあげようと思う。それは決してあなたにとって損の話ではありません。いかがです、お聞きなさいますか?」
「どうぞおきかせくださいますよう」
柔順《すなお》に山吹は云ったものである。
「……第一番に云って置きたいことは俺《わし》が旅行家だということです。――俺は肥前の長崎にもおりまた大坂にもおりました。また京師《けいし》にも名古屋にもあらゆる所におりました。もちろん江戸にもおりました。――さて、そこで山吹さん、どこの話をしましょうかな?」
「はい」と山吹は活気づき、
「それではどうぞ江戸の話をお聞かせなされてくださいまし」
「よろしゅうござる、江戸の話をそれではお聞かせ致すとしましょう」
妙な人は瞑目《めいもく》し何かじっと[#「じっと」に傍点]考えていたが、
「江戸は悪魔の巣でござるよ!」
一句鋭く喝破《かっぱ》した。
「いえ違います違います!」
と嘲《あざ》けるように叫び出したのは充分多四郎の甘言によって江戸の華美《はなやか》さを植え付けられた彼女山吹に他ならなかった。
「いいえ江戸は美しい人達の華美《はなやか》に遊びくらしている極楽だということでござります!」
「聞け!」と再び鋭い声が妙な人の口から迸《ほとばし》ったが、一座その声に威圧され一度にしん[#「しん」に傍点]と静かになった。
さて、そもそも妙な人は何を語ろうとするのであろう? しかし少なくも妙な人は、虚栄虚飾に憧憬《あこが》れている山の乙女山吹の心をその本来の質朴の心へ返そうとしているのは確からしいが、はたして山吹は彼の言を聞き元の乙女に立ち返るか、それとも多四郎に誘惑されるか? これこそ作者が次において語らんとする眼目である。
一一
岩太郎と山吹とを前に据えて白衣《びゃくえ》長髪の妙な人は江戸の話を話し出した。
「……江戸は将軍家おわす所、それはそれはこの上もなく派手な賑やかな所です。上は大名旗本から下は職人商人まで身分不相応に綺羅《きら》を張り、春は花見秋は観楓《かんぷう》、昼は音曲夜は酒宴……競って遊楽《あそび》に耽《ふけ》っております。山海の珍味、錦繍《きんしゅう》の衣裳、望むがままに買うことも出来、黄金《こがね》の簪《かんざし》※[#「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1−88−16]瑁《たいまい》の櫛《くし》、小判さえ積めば自分の物となる。そうです。実に小判さえ出せば万事万端|己《おの》が自由《まま》――これが江戸の習俗《ならわし》です。したがってそこには『静粛《せいしゅく》』もなければ『謙遜』というような美徳もなく、あるものは『虚偽』と『偽善』ばかりです。……実際そこには小鳥も啼かず緑の美しい林もなく穀物の匂いも流れて来ず、嫉妬《しっと》、猜疑《さいぎ》、朋党異伐、金銭《かね》に対する狂人《きちがい》のような執着、そのために起こる殺人兇行――あるものと云えばこんなものばかりです。しかも、そのくせ表面《うわべ》はと云えば、いかにも美しくいかにも華麗《はなやか》に、質朴で正直な田舎の人を誘惑するように出来ております。……それに反してこの笹の平は何んという結構な所でしょう」
云いながら静かに身を廻《めぐ》らし戸外《そと》の景色を指差したが、
「畑を耕す男、車を押す女。楽しそうに叫んでいる子供や犬。……何んと長閑《のどか》ではありませんか。……真昼の光に照らされて紅葉の林が燃え立っております。雑草に雑《まじ》った野菊の花。風に揺れなびく葛《くず》の花。花から花へ蜜をあさる白い蝶《ちょう》や黄色い蝶、峰から丘、丘から谷、谷から麓《ふもと》へ群を作《な》して渡って行く渡り鳥。……何んと平和ではありませんか。――谷川の音は自然の鼓、松吹く風は天籟《てんらい》の琴、この美妙の天地のなかに胚胎《はぐく》まれた恋の蕾《つぼみ》に虫を附かせてはなりません。――幸福というものは破れ易くまた二度とは来ないものです」
こう云いながら妙な人は二人の方へ手を延ばした。と、山吹も岩太郎も思わずその手へ縋《すが》り付く。その二人の手を繋《つな》ぎ合わせ、妙な人は云うのであった。
「美しい衣服《きもの》は裁縫師《さいほうし》が製し位《くらい》や爵《しゃく》は式部寮が造る。要するにみんなつまらない物です。尊いものは人の愛だ! いつまでもいつまでも愛し愛さなければなりません。二人のうちの誰か一人がもしこの愛を破ったならその人は恐らく底の知れない不幸の淵へ沈むでしょう」
「はい」
と岩太郎は涙を流し、つつましく丁寧《ていねい》に頭を下げたが、
「たとえ殺すと云われましても今日のお教えに背《そむ》くようなことは必ず私は致しませぬ。……山吹! お前はどうする気だな?」
「岩さん、妾《わたし》が悪かった。もうどこへも行く気はないから悪く思わずに堪忍《かんにん》しておくれ」
「おおそうか、有難てえなア。何んの許すも許さぬもねえ。俺《わし》の方から礼を云うよ」
二人はひしと抱き合った、すすりなきの声が聞こえて来る、岩太郎の胸へ顔を埋めたそれは山吹の泣き声である。すなわち甘い誘惑のために危うく足を踏みはずそうとして、わずかに助けられた悲喜の情が泣き声となってほとばしったのである。
誰もじっと黙っている。
秋の真昼は静かである。
さっきから門口に佇《たたず》んで様子を見ていた牛丸は、この時つかつか[#「つかつか」に傍点]とはいって来たがさもさも感嘆したように妙な人へ話しかけた。
「あなたは偉い方ですねえ、あなたはどういう方なんです?」
すると白衣の妙な人は穏かな微笑を頬に湛《たた》えながら牛丸の方へ進み寄り軽く頭を撫《さす》った。
「私《わし》かね、私は坊さんだよ。……総《すべ》ての人よ愛し合えよ! こういう宗旨を拡めようとこの部落へ来た坊さんだよ」
「坊さん? ううん、坊さんじゃないよ。だって頭に髪があるじゃないか」
「だから私は有髪《うはつ》の僧じゃ。したがって私の説教は普通の坊さんとは少し違う」
「あなたの名は何んて云うの?」
「私には本来名はないのじゃ。……私は白衣を纏《まと》っている。だから部落の人達は、白法師と呼んでいる」
「えっ」
と牛丸は驚いたが、驚いたのは牛丸ばかりではなく山吹も岩太郎も仰天して、妙な人をつくづくと見た。
「何も驚くことはない」
白法師は悠然《ゆうぜん》と説き出した。
「部落の人達が憎み嫌う白法師とは私のことじゃ。しかし私は悪魔ではない。私はかえって天使の筈《はず》じゃ……この部落はよい部落じゃ。ここの人達はよい人達じゃが、一つだけ悪いことがある。窩人《かじん》以外の下界の人達を忌《い》み嫌うということはどう考えてもよいことではない。私はそういう思想《かんがえ》を打ち破るために来た者じゃ」
白法師の眼はこう云った時|焔《ほのお》のように輝いた。法師はやがて一揖《いちゆう》すると敷居を跨《また》いで戸外《そと》へ出た。林の中へはいって行く。間もなく姿は木に隠れたが、その神々しい白衣姿は、三人の眼に残っていた。そうして「愛の宗教」を説いた慈愛の言葉も三人の耳に、尚|明瞭《はっき》りと残っていた。
二人の恋人は抱き合ったまま白法師の後を見送っている。
一二
こういうことがあってから一月ほどの日が経《た》った。万山を飾って燃えていた紅葉《もみじ》の錦は凋落《ちょうらく》し笹の平は雪に埋《う》ずもれた。冬|籠《ごも》りの季節が来たのである。
冬という季節は窩人達にとっては狩猟《しゅりょう》と享楽《きょうらく》との季節であった。彼らは弓矢を携《たずさ》えては熊や猪を狩りに行く。捕えて来た獲物を下物《さかな》としては男女打ち雑《まじ》っての酒宴を開く。恋の季節肉欲の季節また平和の季節でもあった。そしてまた怠惰《たいだ》の季節でもあった。
雪は毎日降りに降る。
火を焚《た》いて暖を取りみんな集まって無
前へ
次へ
全37ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング