るのであった。
旅籠へ帰って来た北山は、むさくるしい部屋にムズと坐り、何かじっと考え込んだ。
やおら立ち上がって襖《ふすま》を開けた。押し入れに薬棚《くすりだな》が作られてあった。非常な大きな薬棚で、無数の薬壺が置かれてあった。彼は薬壺を取り出した。
「いや、ともかくも明日にしよう」
思い返して寝ることにした。
で、薬壺を棚へ載せ、襖を立てて寝る用意をした。
翌朝早く眼を覚ました。
旅籠を出ると駕籠へ乗り、葉之助の屋敷へ急がせた。
玄関へ立って案内を乞うた。すぐに小侍が現われた。
「葉之助殿ご在宅かな」
「は、昨晩出かけましたきり、いまだにお帰りございません」
「ふうん」と云ったが北山は、小首を傾げざるを得なかった。
二五
旅籠へ帰って来た北山は考え込まざるを得なかった。
「葉之助殿はどうしたろう?」
何んとなく不安な気持ちがした。手を膝《ひざ》へ置いて考え込んだ。
「鶯谷で擦れ違った、昨夜の若い侍は、葉之助殿に相違ない。あれからきっと葉之助殿は、下屋敷警護に行かれたのだろう。さてそれから? さてそれから?」
――それからのことは解らなかった。
だが何んとなく下屋敷附近で、変事があったのではあるまいかと、気づかわれるような節《ふし》があった。
「まさかそんなこともあるまいが、帯刀様のお屋敷へでも誘拐《かどわか》されたのではあるまいか」
ふとこんなことも案じられた。
「絶対にないとは云われない。彼らの陰謀を偶然のことから、俺が目付けて邪魔をした。白粉を足で蹴散らした。と、その後へ葉之助殿が行った。陰謀組の連中が、どうして陰謀を破られたか。それを調べにやって来る。双方が広場で衝突する。ううむ、こいつはありそうなことだ」
北山はじっくりと考え込んだ。
「だが鏡葉之助殿は、武道にかけては一種の天才、大概《たいがい》の者には負けない筈だ。しかし多勢に無勢では……無勢も無勢一人では、ひどい[#「ひどい」に傍点]目に合われないものでもない」
彼は益※[#二の字点、1−2−22]不安になった。
「だがまさか[#「まさか」に傍点]に殺されはしまい」
とは云えそれとて絶対には、安心することは出来なかった。
「そうだ、これから出かけて行き、広場の様子を見てやろう! 格闘したものなら痕跡《あと》があろう。殺されたものなら血痕があろう」
で、彼は行くことにした。
しかしその前に仕事があった。
薬を調合しなければならない。
襖を開けると薬棚があった。いろいろの薬を取り出した。薬研《やげん》に入れて粉に砕いた。幾度も幾度も調合した。黄色い沢山の粉薬が出来た。棚から黄袋を取り出した。それへ薬を一杯に詰めた。五合余りも詰めたろう。それをさらに風呂敷に包んだ。それからそれを懐中した。
編笠を冠って旅籠《はたご》を出た。辻待ちの駕籠へポンと乗った。
「根岸まで急いでやってくれ」
「へい」と駕籠は駈け出した。
「よろしい」と云って駕籠を出た。
それからブラブラ歩いて行った。
内藤家のお下屋敷、それを廻って広場の方へ行った。広場の彼方に屋敷があった。帯刀様の屋敷であった。北山は地上へ眼を付けた。一筋引かれた白粉の痕は、もうどこにも見られなかった。その辺は綺麗に平《なら》されていた。格闘したらしい跡もなかった。血の零《こぼ》れたような跡もなかった。
「後片付《あとかたづ》けをしたそうな。これではたとえ格闘をしてもまた斬り合っても証拠は残らぬ……これはいよいよ心配だ」
北山は佇《たたず》んで考えた。
「思い切って森家へ乗り込もうか、乗り込んで乗り込めないこともない。とにかく一度ではあったけれど、帯刀様にお呼ばれして、おうかがいしたこともあるものだからな」
だが表向き乗り込んだのでは、葉之助の消息を訊ねることが、不可能のように思われた。
「では乗り込んでも仕方がない」
彼は思案に余ってしまった。
「この方はもう少し考えることにしよう……もう一つの方を探って見よう」
浅草の方へ足を向けた。
奥山は例によって賑わっていた。
「八ヶ嶽の山男」それを掛けている小屋掛けの前で、北山はピタリと足を止めた。
見れば看板が外されてあった。木戸にも人がいなかった。小屋の口は閉ざされていた、どうやら興行していないらしい。
と、一人の若者が、戸口を開けて現われた。元気のないような顔をして、ぼんやり外を眺めていた。小屋者であるということは、衣裳の様子ですぐ解った。
北山はそっちへ寄って行った。
「今日は興行はお休みかね?」何気ないように声を掛けた。
すると若者は北山を見たが、
「へえ、まあそんな[#「そんな」に傍点]恰好《かっこう》で」云うことが変に煮《に》え切らなかった。
「天気もよければ人も出ている。こんないい日にどうして休んだね?」北山は尚も何気なさそうに訊いた。
若者はちょっと眉をひそめた。いらざるお世話だと云いたげであった。でも、渋々とこんなことを云った。
「何もね、休みたかあなかったんで……太夫が一人もいないんでね……で、仕方なく休んだんでさあ」
二六
「ほほう、山男達はいないのかい」失望もし驚きもし、こう北山は大声で云った。「じゃあ山へ帰ったんだね」
「山へ帰ったか里へ行ったか、何んで私が知りますものか」
「で、いつからいないのかな?」
「昨夜《ゆうべ》からでさあ、火事のあった頃から」
「では無断で逃げたんだな」
「逃げたには相違ありませんがね。道具をみんな[#「みんな」に傍点]置いて行ったので、いずれ帰っては来ましょうよ」
「道具?」と北山は眼を光らせた。「で、動物はどうなっている」
「つまりそいつが道具なんで……熊や猿や狼などを、ほったらかし[#「ほったらかし」に傍点]たまま行っちまったんで」
「たしか蛇もいたようだが?」こう探るように北山は訊いた。
「ええおりますよ、幾通りもね」
北山は懐中へ手を入れた。紙入れを取り出し小粒を摘《つま》み、クルクルとそれを紙へ包んだ。
「少いけれど取ってお置き」
「これは旦那、済みませんねえ」
小屋者はヒョロヒョロ辞儀をした。
「ところでちょいと頼みがある。動物を見せてはくれまいか」
「へえへえお易いご用です」
若者は小屋の中へはいって行った。北山は後から従いて行った。
小屋の中は薄暗く、妙にジメジメと湿っていた。小屋を抜けて庭へ出た。そこに幾個《いくつ》かの檻《おり》があった。いろいろの動物が蠢《うごめ》いていた。
一つの小さな檻があった。
その中に五、六匹の小蛇がいた。卯の花のように白い肌へ、陽の光がチラチラとこぼれ[#「こぼれ」に傍点]ていた。一尺ほどの小蛇であった。みんな穏《おとな》しく眠っていた。
北山はその前で足を止めた。
それから蛇を観察した。
「ねえ、若衆、綺麗な蛇だね」
北山は若者へ話しかけた。
「綺麗な蛇でございますな。だが、大変な毒蛇だそうで」若者は恐《こわ》そうに檻を覗いた。
「何んという蛇だか知っているかね」
「山男達が云っていました。信州の国は八ヶ嶽、そこだけに住んでいる宗介蛇《むねすけへび》だってね」
「宗介蛇とは面白いな」北山はちょっと微笑した。
「蘭語でいうとエロキロスというのだ」
「へえ、エロキロス、変な名ですなあ」
「蛇は六匹いるようだね」
「昔は十匹おりましたが、今じゃあ六匹しかおりません。山男達の話によると、三匹がところ、盗まれたそうで」
「十匹で三匹盗まれりゃあ、後七匹いる筈だが、ここには六匹しかいないじゃあないか。後の一匹はどうしたね」
「ああ後の一匹ですか、さっき人が来て買って行きました」
「え?」
と北山は眼を見張った、「ふうむ、この蛇をな、買って行ったんだな」「へえさようでございますよ」「どんな様子の人間だったな?」「五十恰好の商人風、江戸の人じゃあありませんな。贅沢《ぜいたく》な様子をしていましたよ。田舎の物持ちと云った風で」
北山は黙って考え込んだ。腹の中で呟《つぶや》いた。
「今夜が危険だ。うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない」で彼は卒然と云った。「私《わし》にも蛇を売ってくれ」
「おやおやあなたもご入用なので」
「で、一匹幾らかな」
「さっきのお方は一匹一両で……」
「よし、私《わし》も一両で買おう」
北山は紙入れを取り出した。小判六枚を掌《てのひら》へ載せた。
「さあ六両、受け取ってくれ」
「へえ、六両? どうしたので?」
「六匹みんな買い取るのさ」
「そいつあどうも困りましたねえ」
若者は小判と北山の顔とをしばらくの間見比べていた。
「どうして困るな? 困る筈はあるまい」
しかし若者は頭をかいた。
「どうもね、旦那困りますので。だってそうじゃありませんか、この白蛇は山男の物で、私の物じゃあございません」
「では何故一匹売ったんだ?」北山は叱るように声を強めた。「一匹も六匹も同じじゃあないか」
「いいえ、そんな事はありません。一匹や二匹なら逃げたと云っても、云い訳が立つじゃあありませんか」
「六枚の小判が欲しくないそうな」北山は小判を掌の上で鳴らした。「……死んだと云えばいいじゃないか」
「でも死骸がなかったひには」尚若者は躊躇《ちゅうちょ》した。しかしその眼は貪慾《どんよく》らしく、小判の上に注がれた。
「いや死骸ならくれてやるよ」
北山は小判を突き付けた。「それなら文句はないだろう」
二七
若者は小判を手に受けた。
「どうしてご持参なさいます?」
「持って帰るには及ばないよ」
北山は懐中から黄袋を出した。「食い合いっ振りが見たいのさ」
黄袋の口を檻の上へ傾《かし》げた。粉薬をサラサラと檻の中へこぼし[#「こぼし」に傍点]た。だが全部《みんな》はこぼさ[#「こぼさ」に傍点]なかった。半分がところで止めてしまった。
粉薬が六匹の蛇へかかった。蛇は一斉に鎌首を上げた。プーッと頬を膨《ふく》らせた。全身をウネウネと蜒《うね》らせた。真っ直ぐに体を押っ立てた。長い蝋燭《ろうそく》が立ったようであった。俄然六匹は食い合いを始めた。
ゾッとするような光景であった。
まず一匹が咽喉《のど》を咬まれた。白い体が血にまみれ[#「まみれ」に傍点]た。と、グンニャリと倒れてしまった。長く延びて動かなくなった。死骸の上をのたくり[#「のたくり」に傍点]ながら、五匹の蛇は格闘をつづけた。また二匹目が食い殺された。つづいて三匹目が食い殺された。尚三匹は戦っていた。だが次々に死んで行った。最後の一匹も死んでしまった。
若者は拳を握りしめていた。
北山は気味悪く微笑した。
「まずこれで安心した……悪人の媒介《ばいかい》も根絶やしになった……そうして薬の利き目も解った……それじゃあご免よ。私は帰る」
黄袋を懐中《ふところ》へ押し入れて、北山は小屋から外へ出た。
やがてこの日の夜が来た。
鏡葉之助は眼を覚ました。
そこは真っ暗の部屋らしかった。
葉之助の全身は弛《だる》かった。ひどく頭が茫然《ぼんやり》していた。手足の節々が痛かった。
「いったいここはどこだろう? 確かに自分の家ではない。……いつから俺は眠ったんだろう? ……一年も眠ったような気持ちがする」
彼は四辺《あたり》を見廻した。灯火《ともしび》のない部屋の中には、人のいるらしい気勢《けはい》もなかった。彼はじっと考え込んだ。
「……それでも漸次《だんだん》思い出す……俺は最初に女を助けた。女を送って屋敷へ行った。大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷だった。それから毒を飲まされた。それから地下へ埋められた。それから地下の横穴を通った。それから水狐族の怪殿へ行った。それからウント奮闘した。それから町へ飛び出した。それから根岸へ警護に行った。地上に例の白粉があった。それから俺は広場で眠った。ではここは広場なのか?」
彼は掌《てのひら》で探って見た。地面の代りに畳が触れた。
「いややはり家の中だ……それにしてもいったい何者が、いつ俺をこんな家
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