の中へ、俺に知らせずに担ぎ込んだのだろう? ……人に担がれても知らないほど、眠っていたとは呆れ返るな……とにかく屋敷の様子を見よう」
葉之助は立ち上がった。
まず正面へ歩いて行った。そこには正しく床の間があった。ズッと右手へ歩いて行った。と、手先に襖がさわった。それをソロソロと引き開けた。出た所に廊下があった。その廊下を左手へ進んだ。幾個かの部屋が並んでいた。と、丁字形の廊下となった。網を掛けた雪洞《ぼんぼり》があった。
「大名か旗本の下屋敷だな」
葉之助は直覚した。
廊下の行き詰まりに庭があった。で、庭へ下りて行った。植え込みが隙間なく植えてあった。それを潜って忍びやかに歩いた。
深夜と見えて人気がなかった。時々|鼾《いびき》の声がした。
黒板塀がかかっていた。その根もとに蹲《うずく》まり、二人の人間が囁き合っていた。
葉之助は素早く身を隠した。二人の話を聞こうとした。
間が遠くて聞こえなかった。で、植え込みの間を潜り、ソロソロと二人へ近寄った。月が二人の真上にあった。二人の姿は朦朧《もうろう》と見えた。二人ながら覆面《ふくめん》をし、目立たない衣裳を纏《まと》っていた。一人は大小を差していた。しかし一人は丸腰であった。
断片的に話し声が聞こえた。
「……恐らく今夜は邪魔はあるまい」
武士の方がこう云った。
「……今夜は大丈夫でございましょう」
町人の方がこう答えた。
「……ではソロソロ放そうか」
「それがよろしゅうございましょう」
「……薬は確かに撒いたろうな」
「その辺如才はありません」
ここでしばらく話が絶えた。
町人が棒を取り上げた。側に置いてあった棒であった。どうやら太い竹筒らしい。
武士は二、三歩後へ退がった。町人は注意深く及び腰をした。
町人はソロソロと手を延ばし、竹筒の先の臍《ほぞ》を取った。素早く竹筒を地上へ置いた。そうしてサッと後へ退がった。
二人の前から白粉が、一筋塀裾へ引かれていた。塀の一所に穴があった。穴を通って白粉が、戸外《そと》の方まで引かれていた。
と、微妙な音がした。口笛でも吹くような音であった。竹筒の中からスルスルと、一筋の白い紐が出た。白粉の上を一散に、塀の外へ走り出した。
「あっ」
と葉之助は声を上げた。植え込みから飛び出した。そうして町人へ組み付いた。
二八
「あっ」
と今度は町人が叫んだ。
「誰だ?」
と武士が叱咤《しった》した。
町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は頸首《えりくび》を捉え、ギューッと地面へ押し付けた。
突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退いた。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。
「しまった!」と武士は刀を引いた。
その時笛の音が帰って来た。塀の口から白い蛇が、荒れ狂って飛び込んで来た。手近の武士へ飛びかかった。
「ワッ」
と武士は悲鳴を上げた。ヨロヨロと塀へもたれかか[#「もたれかか」に傍点]った。白蛇も精力が尽きたと見え、体を延ばして動かなくなった。
ガックリ武士は首を垂れた。前のめり[#「のめり」に傍点]に地に斃れた。
町人と武士、そうして白蛇、三つの死骸を月が照らした。
不意に女の笑い声がした。
「多四郎! 多四郎! 思い知ったか! 妾《わたし》の怨みだ! 妾の怨みだ!」
葉之助は四辺を見廻した。女の姿は見えなかった。だが声は繰り返した。
「猪太郎! 猪太郎! よくおやりだ! お礼を云うよ、お母さんからね」
声はそのまま止んでしまった。
気が附いて葉之助は腕を捲くった。二の腕に出来ていた二十枚の歯形――人面疽《にんめんそ》が消えていた。
屋敷の中が騒がしくなった。人の走って来る気勢《けはい》がした。
葉之助は塀へ手を掛けた。身を翻《ひるがえ》すと塀を越した。
広場を横切って町の方へ走った。
と、誰かと衝突した。
「これは失礼」「これは失礼」
云い合い顔を隙《す》かして見た。
「や、これは北山先生!」
「おお、これは葉之助殿!」
「先生には今時分こんな所に?」
「万事は後で……ともかく一緒に……」
二人は町の方へ走って行った。
その翌日のことであった。神田の旅籠屋《はたごや》北山の部屋で、北山と葉之助とが話していた。
「……窩人《かじん》に云わせると宗介蛇、蘭語で云うとエロキロス、これは珍らしい毒蛇で、これに噛まれると、一瞬間に死んでしまう。しかも少しも痕跡《あと》を残さない。この毒蛇の特徴として、茴香剤《ういきょうざい》をひどく[#「ひどく」に傍点]好む。そいつを嗅《か》ぐと興奮する。で、例の白粉だが、云うまでもなく茴香剤なのさ、大槻玄卿が製したものだ。
ところが一昨日《おとつい》の晩のことだ。浅草観音の境内へ行き、偶然窩人達の話を聞いた。毒蛇を盗まれたと云っていた。はてな[#「はてな」に傍点]と俺は考えた。考えながら根岸へ行った。と、白粉が引かれてあった。口笛のような音がして、紐《ひも》のようなものが走って来た。そこで初めて感附いたものさ……エロキロスは、茴香剤を嗅がされると、喜びの余り音を立てる、一種歓喜の声なのだ……つまり三人の悪党どもは、森家から内藤家の寝所まで、茴香剤の線を引き、その上をエロキロスを走らせて、若殿を咬ませたのさ……ところで毒蛇エロキロスは、一度|丹砂剤《たんしゃざい》を嗅がされると、発狂をして死んでしまう。それを私《わし》は利用した。で昨夜根岸へ行った。すると白粉が引いてあった。そこで俺はその一所《ひとところ》へ、丹砂剤をうんと振り撒いたものさ。案の定エロキロスは走って来たが、そこまで来ると発狂し、元来た方へ引き返して行った」
「いかにもさようでございました。馳せ返って来た毒蛇は、帯刀様へ食い付きました」葉之助は頷いた。
「帯刀様の刃《やいば》で、紋兵衛も殺されたということだな」
「まずさようでございます。だが本来帯刀様は、私を切ろうとなすったので。それを私が素早く紋兵衛を盾に取ったので、いわば私が殺したようなもので」
「それはそうと葉之助殿、貴殿の幼名は猪太郎という、どうやら窩人の血統を受け継いでいるように思われる。母は、窩人の長《おさ》の杉右衛門の娘、山吹であったということだ。父は里の者で、多四郎という若者だそうだ……そのうち窩人と逢うこともあろう、よく聞き訊《ただ》してご覧なされ。これも一昨夜浅草で、山男、すなわち窩人どもから、偶然聞いた話でござるよ」
「母は山吹、父は多四郎、そうして私の幼名が、猪太郎というのでございますな? そうして八ヶ嶽の窩人の血統? ううむ」と葉之助は腕を組んだ。
二九
翌日鏡葉之助は、蘭医大槻玄卿の、悪逆非道の振る舞いにつき、ひそかに有司《ゆうし》へ具陳《ぐちん》した。
その結果町奉行の手入れとなり、玄卿邸の茴香畑は、人足の手によって掘り返された。はたして幾人かの男女の死骸が、土の下から現われた。で玄卿は召し捕られ、間もなく磔刑《はりつけ》に処せられた。
だが邪教水狐族の、秘密の道場へつづいていた、地下の長い横穴については、事実大槻玄卿も、知っていなかったということである。では恐らくその穴は、ずっと昔の穴居時代などに、作られたところの穴かも知れない。
だがマアそれはどうでもよかろう。
さて鏡葉之助は、それからどんな生活をしたか?
「いつまでも年を取らないだろう。……永久安穏はあるまいぞよ」
水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》が、末期に臨んで呪った言葉――この通りの生活が、葉之助の身には繰り返された。
彼はいつまでも若かった。心がいつも不安であった。
今日の言葉で説明すれば、強迫観念とでも云うのであろう。絶えず何者かに駈り立てられていた。
そうしてかつて高遠城下で、夜な夜な辻斬りをしたように、またもや彼は江戸の市中を、血刀を提げて毎夜毎夜、彷徨《さまよ》わなければならないようになった。
八山下《やつやました》の夜が更《ふ》けて、品川の海の浪も静まり、高輪《たかなわ》一帯の大名屋敷に、灯火一つまばたいてもいず、遠くで吠える犬の声や、手近で鳴らす拍子木の音が、夜の深さを思わせる頃、急ぎの用の旅人でもあろう、小田原提灯《おだわらぢょうちん》で道を照らし、二人連れでスタスタと、東海道の方へ歩いて行った。
と、木陰から人影が出た。
無紋の黒の着流しに、お誂《あつら》い通りの覆面頭巾、何か物でも考えているのか、俯向《うつむ》きかげんに肩を落とし、シトシトとこっちへ歩いて来た。
と、双方行き違おうとした。
不意に武士は顔を上げた。
つづいて右手《めて》が刀の柄へ、……ピカリと光ったのは抜いたのであろう。「キャッ」という悲鳴。「ワーッ」と叫ぶ声。つづいて再び「キャッ」という悲鳴。……地に転がった提灯が、ボッと燃え上がって明るい中に、斃れているのは二つの死骸。……斬り手の武士は数間の彼方《あなた》を、影のようにションボリと歩いていた。
他ならぬ鏡葉之助であった。
浅草の観世音、その境内の早朝《あさまだき》、茶店の表戸は鎖《と》ざされていたが、人の歩く足音はした。朝詣《あさまい》りをする信者でもあろう。
一本の公孫樹《いちょう》の太い幹に、背をもたせ[#「もたせ」に傍点]かけて立っているのは、編笠姿《あみがさすがた》の武士であった。
一人の女がその前を、御堂《みどう》の方へ小走って行った。
武士がヒョロヒョロと前へ出た。居合い腰になった一瞬間、日の出ない灰色の空を切り、紫立って光る物があった。とたんに「キャッ」という女の悲鳴。首のない女の死骸が一つ、前のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血! 深紅の水溜りが地面へ出来た。
だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、賽銭《さいせん》の音、何んの変ったこともない。
両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。
笠森の茶店の牀几《しょうぎ》の上で、脇腹を突かれた女房があった。
千住の遊廓《くるわ》では嫖客《ひょうかく》が、日本橋の往来では商家の手代が、下谷池之端《したやいけのはた》では老人の易者が、深川木場では荷揚げ人足が、本所|回向院《えこういん》では僧が殺された。
江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。
南北町奉行が大いに周章《あわ》てて、与力同心岡っ引が、クルクル江戸中を廻り出した。
どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば狂人《きちがい》の刃傷、……こんなように思われるこの事件は、有司にとっては苦手であった。
で容易に目付からなかった。
まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。
だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。
内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。
だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が供揃《ともぞろ》いの中から、にわかに姿を眩《くら》ましただけであった。
鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。
八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。
三〇
彼はいったいどうしたのだろう? いったいどこへ行ったのだろう?
彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。
彼は母山吹の故郷《さと》! 彼《か》の血統窩人の部落! 信州八ヶ嶽笹の平へ、夢遊病者のそれのように、フラフラと歩いて行ったのであった。
塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を故意《わざ》と避け、山伝いに湖東村を通り、北山村から玉川村、本郷村から阿弥陀ヶ嶽、もうこの辺は八ヶ嶽で、裾野《すその》がずっと開けていた。
三日を費やして辿《たど》り着いた所は、笹の平の盆地であった。
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