た。
こうして一団は銀座へ出た。
と、行手から真っ黒に塊まり、大勢の人影が走って来た。
それは水狐族と信者とであった。
こうして二種族は衝突した。
初めて鬨《とき》の声が上げられた。
二二
鏡葉之助はどうしたろう?
この時鏡葉之助は、裏町伝いに根岸に向かい、皆川町の辺を走っていた。
彼はたった[#「たった」に傍点]一人であった。獣達の姿は見えなかった。豹も狼も土佐犬も、道々火消しや役人や、町の人達に退治られた。たまたま死からまぬかれ[#「まぬかれ」に傍点]た獣は、山を慕って逃げてしまった。
だがどうして葉之助は、水狐族の群に追い縋り、討って取ろうとはしないのだろう?
彼は途中で思い出したのであった。
「殿の根岸の下屋敷を警戒するのが役目だった筈《はず》だ」
で彼は道を変え、根岸を指して走っていた。雉子《きじ》町を通り、淡路《あわじ》町を通り、駿河台へ出て御茶ノ水本郷を抜けて上野へ出、鶯谷《うぐいすだに》へ差しかかった。
左右から木立が蔽《おお》いかかり、この時代の鶯谷は、深山《みやま》の態《さま》を呈していた。
と行手から来る者があった。ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。
闇の中で二人は擦れ違った。
「はてな、何んとなく知った人のようだ」
葉之助は背後《うしろ》を振り返って見た。
すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。
が、その人も急いでいれば、葉之助も心が急《せ》いていた。そのまま二人は別れてしまった。
葉之助は根岸へ来た。
殿の下屋敷の裏手へ行った。
「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。
「しまった!」と彼はまた云った。
しかし間もなくその筋が、一所《ひとところ》足で蹴散らされ、白粉《はくふん》が四散しているのを見ると、初めて胸を撫で下ろした。
それと同時に不思議にも思った。
「いったい誰の所業《しわざ》だろう?」
首を傾げざるを得なかった。
「この白粉の重大な意味は、俺と北山《ほくざん》先生とだけしか知っている者はない筈だ。俺は蹴散らした覚えはない。では北山先生が、今夜ここへやって来て、蹴散らしたのではあるまいか。……おっ、そう云えば鶯谷で、知ったような人と擦れ違ったが、そうだそうだ北山先生だ」
ようやく葉之助は思い中《あた》った。
「危険が去ったとは云われない。今夜はここで夜明かしをしよう」
葉之助は決心した。
体が綿のように疲労《つか》れていた。彼は草の上へ横になった。引き込まれるように眠くなった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
こう思いながらもウトウトと、眠りに入ってしまいそうであった。
夜風が空を渡っていた。木立に中って習々《しゅうしゅう》と鳴った。それが彼には子守唄に聞こえた。
彼はとうとう眠ってしまった。
鶯谷の暗闇で、葉之助と擦れ違った人物は、谷中の方へ走って行った。
芝の方にあたって火の手が見えた。
「や、これは大きな火事だ」吃驚《びっく》りしたように呟《つぶや》いた。
それは天野北山であった。
「殿のお屋敷は大丈夫かな?」
走り走りこんなことを思った。
「葉之助殿はどうしたろう? 殿の下屋敷を警戒するよう、あれほどしっかり[#「しっかり」に傍点]頼んでおいたのに、今夜のような危険な時に、その姿を見せないとは、甚《はなは》だもってけしからぬ[#「けしからぬ」に傍点]次第だ。だがあるいは病気かもしれない。……
だんだん火事は大きくなるな。行って様子を見たいものだ。だが俺の出府した事は、殿にも家中にも知らせてない。顔を出すのも変な物だ」
谷中から下谷へ出た。
「さてこれからどうしたものだ。葉之助殿には至急会いたい。窩人の血統だということを教えてやる必要があるようだ」
火事は漸次《だんだん》大きくなった。下谷辺は騒がしかった。人々は門に立って眺めていた。
「とにかくこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠《かご》へでも乗り、葉之助殿の屋敷を訪ねてみよう。頼みたいこともあるのだからな」
駕籠屋が一軒起きていた。
「おい、芝までやってくれ」
「へい、よろしゅうございます」
威勢のいい若者が駕籠を出した。で北山はポンと乗った。
駕籠は宙を飛んで走り出した。
銀座手前まで来た時であった。前方にあたって鬨の声が聞こえた。大きな喧嘩《けんか》でも起こったようであった。
「旦那旦那大喧嘩です」
駕籠|舁《か》きはこう云って駕籠を止めた。
「裏通りからやるがいい」
駕籠の中から北山が云った。
そこで駕籠は木挽町《こびきちょう》へ逸《そ》れた。
二三
火元はどうやら愛宕下らしい。木挽町あたりも騒がしかった。かてて大喧嘩というところから、人心はまさに兢々としていた。
「火消し同士の喧嘩だそうだ」「いや浅草の芸人と、武士との喧嘩だということだ」「いや賭場が割れたんだそうだ」「いや謀反人だと云うことだ」「いや、一方は芸人で、一方は神様だということだ」「神様が喧嘩をするものか」
往来に集まった人々は、口々にこんなことを云っていた。
駕籠はズンズン走って行った。芝口へ出、露月町《ろげつちょう》を通り、宇田川町、金杉橋、やがて駿河守の屋敷前へ来た。
この辺もかなり騒がしかった。
「ここで下ろせ」
と北山は云った。
駕籠から下りた北山は、葉之助の屋敷の玄関へ立った。
案内を乞うと声に応じ、取り次ぎの小侍が現われた。
「これはこれは北山先生で」
「葉之助殿ご在宅かな」
「いえ、お留守でございます」気の毒そうに小侍は云った。
「ふうむ、お留守か、どこへ行かれたな」
「はいこの頃は毎晩のように、どこかへお出かけでございます」
「ははあさようか、毎晩のようにな」
――それではやはり葉之助は、下屋敷へ警戒に行くものと見える。今夜も行ったに相違ない。きっと駈け違って逢わなかったのだろう。
天野北山はこう思った。
「葉之助殿お帰りになったら、俺《わし》が来たとお伝えくだされ。改めて明朝お訪ね致す」
「大火の様子、ご注意なされ」
で北山は往来へ出た。
そうして新しく駕籠を雇い、神田の旅籠屋《はたごや》へ引っ返した。
葉之助は草の上に眠りこけていた。決して不覚とせめる[#「せめる」に傍点]ことは出来ない、彼は実際一晩のうちに、余りに体を使い過ぎた。これが尋常の人間なら、とうに死んでいただろう。
だが眠ったということは、彼にとっては不幸であった。
黒々と空に聳えている森帯刀家の裏門が、この時音もなくスーと開いた。
忍び出た二つの人影があった。一人は立派な侍で、一人はどうやら町人らしかった。
地上に引かれた筋に添い、葉之助の方へ近寄って来た。
間もなく葉之助の側まで来た。
二人は暗中《あんちゅう》で顔を見合わせた。
「紋兵衛、これで秘密が解った」こう云ったのは武士であった。「ここに眠っているこの侍が、俺《わし》達の計画の邪魔をしたのだ」
「はい、どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ようで」
「ここで白粉が蹴散らされている」
「以前にも一度ありました」
「こいつの所業に相違ない」
「莫迦《ばか》な奴だ、眠っております」
「いったいこいつ何者であろう?」
そこで町人は覗き込んだ。
「おっ、これは葉之助殿だ!」
「何、葉之助? 鏡葉之助か?」
「はい、帯刀様、さようでございます」
「そうか」
と武士は腕を組んだ。
「鏡葉之助とあってみれば斬ってすてることも出来ないな」
「とんでもないことで。それは出来ません」
「と云って捨てては置かれない」
「私に妙案がございます」
町人は武士の耳の辺で、何かヒソヒソと囁《ささや》いた。
「うむ、こいつは妙案だ」
「では」と云うと町人は、懐中《ふところ》へスッと手を入れた。取り出したのは白布であった。それを葉之助の顔へ掛けた。
しばらく二人は見詰めていた。
「もうよろしゅうございましょう」
町人はこう云うと白布を取った。それから葉之助を抱き上げた。葉之助は死んだように他愛がなかった。
武士が葉之助の頭を抱え、町人が葉之助の足を持った。
森帯刀の屋敷の方へ、二人はソロソロと歩いて行った。上野の山に遮《さえぎ》られて、火事の光も見えなかった。根岸一帯は寝静まっていた。
葉之助を抱えた二人の姿は、文字通り誰にも見られずに、森帯刀家の裏門から、屋敷の中へ消えてしまった。
闇ばかりが拡がっていた。習々《しゅうしゅう》と夜風が吹いていた。
二四
この頃江戸の真ん中では、窩人と水狐族との闘争《たたかい》が、凄《すさま》じい勢いで行われていた。
種族と種族との争いであった。宗教と宗教との争いであった。先祖から遺伝された憎悪と憎悪とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合った争いであった。
火事の光はここまでも届き、空が猩々緋《しょうじょうひ》を呈していた。家々の屋根が輝いて見えた。
幾群《いくむれ》かに別れて切り合った。槍、竹槍、刀、棒、いろいろの討ち物が閃めいた。悲鳴や怒号が反響した。
一群がパタパタと逃げ出した。他の群がそれを追っかけた。逃げた群は路地へ隠れた。他の群はそれを追い詰めた。逃げた群が盛り返して来た。路地で格闘が行われた。
数人が人家へ逃げ込もうとした。その家では戸を立てた。家人は内からその戸を抑えた。数人がそこへ追っかけて来た。そこでも切り合いが始まった。
人家の屋根へ上がる者があった。その屋根の上に敵がいた。取っ組んだまま転がり落ちた。
一人の武士《さむらい》が竹槍で突かれた。それは迷信者の一人であった。他の武士が突進した。竹槍を持った窩人の一人が、武士のために手を落とされた。
石が雨のように降って来た。額を割られて呻く者があった。
二、三人パタパタと地へ斃れた。窩人だか水狐族だか解らなかった。死骸を乗り越えて進む者があった。
岩太郎の武者振りは壮観《みもの》であった。
藤巻柄の五尺もある刀を、棒でも振るように振り廻した。またたく間に数人を切り斃した。一人の敵が飛びかかって来た。横撲りに叩き伏せた。ムラムラと四、五人が掛かって来た。大廻しに刀を振り廻した。四、五人が後へ逃げ出した。彼は突然振り返った。一人の敵が狙っていた。
「畜生!」と叫ぶと肩を切った。プーッと霧のように血が吹いた。
杉右衛門は窩人に守られていた。往来の真ん中へ突っ立っていた。声を嗄《か》らして彼は叫んだ。
「大将を討ち取れ! 大将を討ち取れ!」
彼の顔は光っていた。火事の光が照らしたからであった。彼は槍を提《ひっさ》げていた。その穂先から血が落ちていた。
水狐族の男女の教主達も、信者に守られて立っていた。二人ながら大声で叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
「一人も遁《の》がすな! 一人も遁がすな」
窩人の群は教主を目掛け、大波のように寄せて行った。しかし途中で遮《さえぎ》られた。
水狐族の群が杉右衛門を目掛け、あべこべにドッと押し寄せて行った。これも途中で遮られた。
火事は容易に消えなかった。空は益※[#二の字点、1−2−22]赤くなった。
火事を眺める群集と、格闘を眺める群集とで、往来は人で一杯になった。
死骸がゴロゴロ転がった。流された血で道が辷《すべ》った。その血へ火の光が反射した。
ワーッ、ワーッ、という鬨《とき》の声!
その時見物が叫び出した。
「それお役人のご出張だ!」
御用提灯《ごようぢょうちん》が幾十となく、京橋の方から飛んで来た。八丁堀の同心衆が、岡っ引や下っ引を連れて、この時走って来たのであった。
瞬間に格闘は終りを告げた。
窩人も水狐族も死骸を担ぎ、八方に姿を隠してしまった。
しかし二種族の憎悪と復讐心は、決して終りを告げたのではなかった。明治大正の今日に至っても尚二種族は田舎に都会に、あらゆる複雑の組織の下に、復讐し合ってい
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