彼はそれを向こうへ渡った。狼と犬とが従った。
と、独立した塔へ出た。
教主達はその内へ逃げ込んだらしい。ガヤガヤ騒ぐ声がした。
葉之助は入り込んだ。
階段が上へ通じていた。上の方から人声がした。
で、葉之助は駈け上がった。犬と狼とが従った。
上り切った所に部屋があった。が、誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
その結果は同じであった。上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。そこで葉之助は勇を鼓《こ》し、それを上へのぼることにした。
だがその結果は同じであった。上り切った所に部屋があり、部屋には誰もいなかった。
階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上ることにした。
上り切った所に部屋があった。やはり誰もいなかった。階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。
で、またも葉之助は上へ上らなければならなかった。
上り切った所に部屋があった。そこが頂上の部屋らしかった。上へ通じる階段がなく、頭の上には天井裏があった。
しかし彼らはいなかった。
ではどこから逃げたのだろう?
裏口へ下りる階段口があった。表と裏とに階段が、二条《ふたすじ》設けられていたものらしい。表の階段から逃げ上がり、裏の階段から逃げ下りたらしい。
「莫迦《ばか》な話だ。何んということだ。無駄に体を疲労《つか》れさせたばっかりだ」
呟きながら葉之助は、裏の階段口へ行って見た。
彼は思わず「あっ」と云った。肝心の階段が取り外《はず》されていた。
表の階段口へ行ってみた。またも彼は「あっ」と叫んだ。たった今上って来た階段が、いつの間にか取り外されていた。
「ううむ、さては計られたか!」
切歯《せっし》せざるを得なかった。
飛び下りることは出来なかった。階段口は一直線に土台下から最上層まで、真っ直ぐに垂直に穿《うが》たれてあった。で、もし彼が飛び下りたなら、最上層から土台下まで、一気に落ちなければならないだろう。どんなに体が頑丈でも、ひと[#「ひと」に傍点]たまりもなく粉砕されよう。
彼はゾッと悪寒を感じた。
急いで窓を開けて見た。
地は闇にとざされていた。下へ下りるべき手がかりはなかった。
「計られた! 計られた! 計られた!」
彼は思わず地団駄を踏んだ。
まさしく彼は計られたのであった。上へ上へと誘《おび》き上げられ、最上層まで上ったところで、彼は一切の階段を、ひっ外されてしまったのであった。
これは恐るべき運命であった。
いったいどうしたらよいだろう?
犬と狼とは騒ぎ出した。彼らは葉之助の後を追い、一緒にここまで上って来た。彼らも恐ろしい運命を、動物特有の直感で、早くも察したものらしい。
階段口を覗いたり、葉之助の顔を見上げたりした。
やがて憐れみを乞うように、悲しそうな声で唸り出した。
葉之助は狼狽した。
その時一層恐ろしいことが、彼と獣達とを脅《おびや》かした。
と云うのは階段口から、黒い煙りが濛々《もうもう》と、渦巻き上って来たのであった。
二〇
焼き打ち! 焼き打ち! 焼き打ちなのであった!
邪教徒が塔へ火を掛けたのだ。
遁がれることは出来なかった。
「残念!」と葉之助は呻《うめ》くように云った。
窓から外を覗いて見た。カッと外は赤かった。火は四辺《あたり》を照らしていた。今まで夜闇《よやみ》に閉ざされていた真っ黒の大地が明るんで見えた。
無数の人間の姿が見えた。
塔の上を振り仰ぎ、指を差して喚《わめ》いていた。踊り廻っている人姿もあった。
「残念!」と葉之助はまた呻いた。
煙りがドンドン上って来た。物の仆れる音がした。メリメリという音がした。火の粉がパラパラと降って来た。
塔は土台から焼けているのであった。
間もなく塔は仆れるだろう。
そうなったら万事休《おしまい》であった。
と、その時、狼達が、不思議な所作《しょさ》をやり出した。
次々に窓際へ飛んで行き、窓から外へ鼻面を出し、「ウオー、ウオー、ウオー、ウオー」と長く引っ張って吠え出した。
これぞ狼の友呼び声で、深山幽谷で聞く時は、身の毛のよだつ[#「よだつ」に傍点]声であった。
「これは不思議」と葉之助は、窓から下を見下ろした。
奇怪な事が行われた。いや、それが当然なのかもしれない。
友呼びの声に誘われたように、あっちからもこっちからも狼が――いや、熊も土佐犬も、そうして豹までも走り出して来た。
パッと人の群は八方へ散った。
猛獣の群は塔を見上げ、ウオーッ、ウオーッと咆吼《ほうこう》した。
そうして体を寄せ合った。
突然一匹の狼が、葉之助の横顔を斜めに掠《かす》め、窓からヒラリと飛び下りた。
葉之助はハッとした。
「可哀そうに粉微塵《こなみじん》だ」
いや、粉微塵にはならなかった。体を寄せ合った獣の上へ、狼の体が落下した。蒲団の上へでも落ちたように、狼の体は安全であった。
すぐに狼は飛び起きた。そうして仲間の狼へ、自分の体をピッタリと付けた。そうして塔上の侶《とも》を呼んだ。ウオーッ、ウオーッと侶を呼んだ。
と、葉之助の横顔を掠め、次々に狼が窓から飛んだ。
みんな彼らは安全であった。
飛び下りるとすぐに起き直り、仲間の体へくっ付いた。そうして誘うようにウオーッと吠えた。
塔内の狼は一匹残らず、窓から地上へ飛び下りた。
葉之助とそうして土佐犬ばかりが、塔の中へ残された。
「よし」
と葉之助は頷いた。
一匹の土佐犬を抱き抱《かか》え、窓から下へ投げ下ろした。中途で一つもんどり[#「もんどり」に傍点]打ち、キャンと一声叫んだが、犬は微傷さえしなかった。群がり集まっている仲間の上へ安全に落ちて起き上がった。
次々に犬を投げ下ろした。
彼らはみんな安全であった。
とうとう葉之助一人となった。
煙りは塔を立ちこめた。
ユサユサ塔が揺れ出した。
すぐにも塔は崩れるだろう。
獣達は彼を呼んだ。飛び下りろ飛び下りろと彼を呼んだ。
葉之助は決心した。窓縁へ足をかけ、両刀を高く頭上へ上げ、キッと下を見下ろした。
「ヤッ」と彼は一声叫び、窓から外へ身を躍らせた。
熊の背中が彼を受けた。彼はピョンと飛び上がった。綿の上へでも落ちたようであった。
とたんに塔が傾いた。火の粉がパラパラと八方へ散った。幾軒かの建物へ飛び火した。あちこちから火の手が上がった。
大門の開く音がした。
人の走り出る音がした。
町の火の見で半鐘《はんしょう》が鳴った。
四方《あたり》は昼のように明るかった。男女の信者が火の中で、右往左往に逃げ廻った。
猛獣がそれを追っかけた。
ふたたび人獣争闘が、焔の中で行われた。
葉之助は両刀を縦横に揮《ふる》い、当たるを幸い切り捲くった。
猛獣が彼を警護した。
彼は大門の前まで来た。門の外は往来であった。それは大江戸の町であった。
一団の人影が走って行った。教主の一団と想像された。
「それ!」
と葉之助は声をかけた。猛獣の群が追っかけた。葉之助は直走《ひたはし》った。
火消しの群が走って来た。町々の人達が駈け付けて来た。
ワーッ、ワーッと鬨《とき》の声を上げた。
猛獣の群が走るからであった。
返り血を浴びた葉之助が、血刀を提げて走るからであった。
獣の群は狂奔《きょうほん》した。
おりから空は嵐であった。火が隣家へ燃え移った。
二一
教主の一団が走って行った。その後を猛獣が追っかけた。そうしてその後から葉之助が走った。
深夜の江戸は湧き立った。邪教の道場は燃え落ちた。火が八方へ燃え移った。町火消し、弥次馬、役人達が、四方八方から駈けつけて来た。
悲鳴、叫喚、怒号、呪詛。……ここ芝《しば》の一帯は、修羅の巷《ちまた》と一変した。
その同じ夜のことであった。
遠く離れた浅草は、立ち騒ぐ人も少かった。しかしもちろん人々は、二階や屋根へ駈け上がり、遥かに見える芝の火事を、不安そうに噂した。
「芝と浅草では離れ過ぎていらあ。対岸の火事っていう奴さ。江戸中丸焼けにならねえ限りは、まず安泰というものさ。風邪でも引いちゃあ詰まらねえ、戸締りでもして寝るがいい」
こんなことを云って引っ込む者もあった。神経質の連中ばかりが、いつまでも芝の方を眺めていた。
観音堂の裏手の丘から、囁く声が聞こえて来た。
「おい、芝が火事だそうだ」
「江戸中みんな焼けるがいい」
「そうして浮世の人間どもが、一人残らず焼け死ぬがいい」
「そうして俺ら窩人ばかりが、この浮世に生き残るといい」
夜の闇が四辺《あたり》を領していた。窩人達の姿は朦朧《もうろう》としていた。立っている者、坐っている者、歩いている者、木へ上っている者、ただ黒々と影のように見えた。
遥か彼方《あなた》の境内《けいだい》の外れに、菰《こも》張りの掛け小屋が立っていた。興行物《こうぎょうもの》の掛け小屋であった。窩人達の出演《で》ている掛け小屋であった。その掛け小屋の入り口の辺に、豆のような灯火《ともしび》がポッツリと浮かんだ。それが走るように近寄って来た。火の玉が闇を縫うようであった。窩人達の側まで来た。それは龕灯《がんどう》の火であった。龕灯の持ち主は老人であった。窩人の長《おさ》の杉右衛門で、杉右衛門の背後に岩太郎がいた。
「時は来た!」と杉右衛門が云った。「水狐族めと戦う時が!」
窩人達は一斉に立ち上がり、杉右衛門の周囲を取り巻いた。「おい岩太郎話してやれ」杉右衛門が岩太郎にこう云った。
つと岩太郎は前へ出た。
「みんな聞きな、こういう訳だ。火事だと聞いて見に行った。烏森《からすもり》の辻まで行った時だ、真ん丸に塊まった一団の人数が、むこうからこっちへ走って来た。誰かに追われているようだった。武士《さむらい》もいれば町人もいた。男もいれば女もいた。その時俺は変な物を見た。若い女と若い男だ。人の背中に背負われていた。衣裳の胸に刺繍《ぬいとり》があった。それを見て俺は仰天《ぎょうてん》した。青糸で渦巻きが刺繍《ぬいと》られていたんだ。白糸で白狐が刺繍られていたんだ。水狐族めの紋章ではないか。そいつら二人は孫だったのだ。水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》のな! さあ立ち上がれ! やっつけてしまえ! 間もなくこっちへやって来るだろう。敵の人数は二百人はあろう。だが、味方も五十人はいる。負けるものか! やっつけてしまえ! ……俺は急いで取って返した。一人で切り込むのはわけ[#「わけ」に傍点]がなかったが、だがそいつはよくないことだ! あいつらは種族の共同の敵だ! だから皆んなしてやっつけなけりゃあならねえ。掛け小屋へ帰って武器を取れ! そうして一緒に押し出そう」
窩人達はバラバラと小屋の方へ走った。
現われた時には武器を持っていた。
長の杉右衛門を真ん中に包み、副将岩太郎を先頭に立て、一団となって走り出した。
彼らは声を立てなかった。足音をさえ立てまいとした。妨害されるのを恐れたからであった。
境内を出ると馬道であった。それを突っ切って仲町へ出た。田原町の方へ突進した。清島町、稲荷町、車坂を抜けて山下へ出、黒門町から広小路、こうして神田の大通りへ出た。
神田辺りはやや騒がしく、町人達は門へ出て、芝の大火を眺めていた。
その前を逞《たくま》しい男ばかりの、五十人の大勢が、丸く塊まって通り抜けた。刀や槍を持っていた。
町の人達は仰天した。だが遮《さえぎ》ろうとはしなかった。その威勢に恐れたからであった。
芝の火事は大きくなったと見え、火の手が町の屋根越しに、天を焼いて真っ赤に見えた。
窩人の一団は走って行った。室町を経て日本橋を通って京橋へ出
前へ
次へ
全37ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング