グルグルグルグル狼の群は、彼の周囲を駈け廻った。その輪をだんだん縮めて来た。
熊は三頭鼻面を揃えジリジリと前へ押し出して来た。
が、熊も狼も、容易に飛び付こうとはしなかった。
その時突然奇蹟が起こった。
まず一匹の大熊が、葉之助の前へゴロリと寝た。そうして葉之助の足を嘗《な》めた。さも親しそうに嘗めるのであった。つづいて二匹の熊が寝た。そうしてこれも親しそうに、葉之助の手をベロベロ嘗めた。と、狼が走るのを止めて、葉之助の周囲《まわり》へ集まって来た。そうして揃って後脚《あとあし》で坐り、前脚の間へ鼻面を突っ込み、上眼を使って葉之助を見た。それは親し気な様子であった。これはいったいどうしたのだろう? どういう魔術を使ったのだろう? 魔術ではない。奇蹟でもない。これには理由があるのであった。
葉之助自身は知らないのではあったが、彼は窩人《かじん》の血を受けていた。彼の母は山吹であった。山吹は杉右衛門の娘であった。杉右衛門は窩人の長《おさ》であった。里の商人《あきんど》多四郎と、窩人の娘の山吹とが八ヶ嶽山上|鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》で、恋の生活を営んでいるうちに、孕《みごも》り産んだのが葉之助であった。すなわち幼名猪太郎というのが、彼葉之助に他ならないのであった。
ところで窩人と山の獣とは、ほとんど友人《ともだち》の仲であった。決して両個は敵同士ではなかった。
そこでこういう奇蹟めいたことが、切羽《せっぱ》詰まったこんな場合に、両個の間に行われたのであった。
足を嘗められた葉之助は、ブルッと顫《ふる》えて眼を開いた。そうして奇怪な光景を見た。
もちろん彼には何んのために、獣達が親《した》しみを見せるのか、解《かい》することが出来なかった。しかしそれらの獣達に、害心のないことは見て取られた。彼は憤然と飛び上がった。瞬間に彼は自分自身に、神力のあることを直感した。奇蹟を行い得る偉大な威力! それがあることを直感した。で、彼は叫び出した。
「熊よ狼よ俺の味方だ! さああいつらをやっつけ[#「やっつけ」に傍点]てくれ! 俺が命ずる。やっつけ[#「やっつけ」に傍点]てしまえ!」
「ウオーッ」と熊は初めて吠えた。そうして門の方へ突進した。
「ウオーッ」と狼群も吠え声を上げた。そうして門の方へ突進した。
葉之助は猪の檻《おり》を開いた。猪は牙を噛んで突進した。
尚、いくつかの檻があった。土佐犬の檻、猛牛の檻、そうして、どうして手に入れたものか、一つの檻には豹《ひょう》がいた。しかも雌雄の二頭であった。葉之助はその檻を引きあけた。悲鳴が門の屋根から起こった。
熊が門を揺すぶった。狼が屋根へ飛び上がった。喚き声、叫び声、泣き声、怒声! 人獣争闘の大修羅場《おおしゅらば》がこうして、邸内に展開された。形勢は一変したのであった。
読者諸君よ、この争闘を、単に邪教の教会ばかりで演ぜられると思っては間違うであろう。江戸市中一円に向かって、恐ろしい騒動を引き起こしたのである。
いかに次回が血腥《ちなまぐさ》く、いかに素晴らしい大修羅場が次々に行われ演ぜられるか? いよいよ物語は佳境に入った。
一七
奇蹟を行う力があると、葉之助は自分を信ずることが出来た。
彼は猛獣をけしかけ[#「けしかけ」に傍点]た。
「さあ勇敢にあばれ廻れ! 永い間檻へ入れられて、苦しめられたお前達だ、苦しめた奴を苦しめてやれ! 復讐《ふくしゅう》だ! 念晴らしだ!」
猛獣は咆吼《ほうこう》した。
豹は門の屋根へ飛び上がった。
屋根の上から悲鳴が起こった。
人のなだれ[#「なだれ」に傍点]落ちる音がした。恐らく男女二人の教主も、なだれ落ちたに相違ない。
松明の火が瞬間に消えた。
どこにも人影が見られなかった。
もう一頭の豹が屋根を越した。
門の向こう側で悲鳴がした。喚声、罵声、叫声、ヒーッと泣き叫ぶ声がした。
逃げ迷う人々の足音がした。
ウオーッという豹の吠え声がした。
三頭の熊が門の柱を、その強い力で揺すぶった。グラグラと門が揺れ出した。と、屋根の瓦が落ち、扉が砕けて左右に開いた。
そこから熊が飛び出して行った。
十数頭の狼が、つづいて門から飛び出した。その後から駈け出したのが、巨大な五頭の猛牛であった。と、三十頭の土佐犬が、葉之助の周囲を囲みながら、後陣《しんがり》として駈け出した。
入り込んだ所は中庭であった、すなわち第一の中庭であった。
そこで格闘が行われていた。
それは人獣の格闘であった。
人間の死骸が転がっていた。
食い殺された人間であった。
半死半生の人間もいた、ある者は掌《て》を合わせ、ある者は跪《ひざまず》き、助けてくれと喚《わめ》いていた。
葉之助は用捨しなかった。
猛獣が用捨する筈がない。
ムラムラと土佐犬は走り掛けた。忽《たちま》ち格闘が行われた。人間は見る見る引き裂かれた。一匹の犬は腕をくわえ、一匹の犬は首をくわえ、一匹の犬は足をくわえ、嬉しそうに尻尾を振った。
向こうに一団、こっちに一団、取り組み合っている人影があった。熊と、豹と、狼と、取っ組み合っている人間であった。
みるみる死骸が増えて行った。
投げ捨てられた松明が、メラメラと焔《ほのお》を上げていた。
百人余りの一団が、建物の方へ走っていた。教主を守護した信者達が、そこに開いている戸口から、屋内へ逃げ込もうとしているのであった。
二頭の豹が飛び掛かって行った。数人の者が引き仆《たお》された。が、団体は崩れなかった。遮二無二《しゃにむに》戸口の方へ走って行った。三頭の熊が飛び掛かった。二頭の豹と力を合わせ、信者達を背中から引き仆した。
殺された者は動かなかった。負傷《ておい》の者は刎《は》ね起きた。そうして団体と一緒になった。
宗教的信仰の力強さが、そういうところでも窺《うかが》われた。教主を守れ! 教主を守れ! 食い付かれても仆されても、団体から離れようとはしなかった。
猛獣の群は襲い掛かった。
十頭の狼が飛びかかった。
瞬間に十人が食い仆された。しかしみんな[#「みんな」に傍点]飛び起きた。
教主を守れ! 教主を守れ! 教主を守った一団は、だんだん戸口へ近寄って行った。
猛獣の群れの襲撃は、益※[#二の字点、1−2−22]惨酷の度を加えた。十二、三人が死骸となった。
だがとうとう石段まで来た。
その時牛が走りかかった。
一団の只中へ角を入れた。
バラバラと信徒は崩れ立った。
しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。とまた牛が突き崩した。バラバラと信徒達は崩れ立った。しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。
教主を守れ! 教主を守れ!
狼はヒュー、ヒューと宙を飛んだ。豹は人間の頭を齧《かじ》った。猛犬は足へ喰い付いた。
教主を守れ! 教主を守れ!
一団は石段を上って行った。
とうとう彼らは戸口まで来た。
彼らは家の中へ崩《なだ》れ込んだ。
熊も豹も狼も、つづいて家の中へ飛び込んだ。土佐犬が続いて飛び込んだ。
つづいて葉之助も踊り込んだ。
こうして格闘は中庭から、家の中へ移された。
蜘蛛手《くもで》に造られてある廊下の諸所で、人獣争闘が行われた。
猛獣は部屋の中へ混み入った。
そこでも格闘が行われた。
鏡葉之助は切って廻った。
落ちていた刀を拾い取った。右手《めて》に刀|左手《ゆんで》に脇差し、彼は二刀で切り捲くった。彼の周囲には狼や犬が、いつも十数頭従っていた。
一八
「教主はどこだ、教主をやっつけろ」
葉之助は探し廻った。
急に廊下が左へ曲がった。
と、教主の一団が見えた。真っ黒に塊《かた》まって走っていた。
葉之助は追い詰めた。
手近の一人を切り仆した。ワーッという悲鳴が起こり、パッと血汐が左右に飛んだ。
彼らの中の数人が、にわかに健気《けなげ》にも取って返した。
葉之助は右剣を斜めに振った。バッタリ一人が床の上へ仆れた。そこへ一人が飛び込んで来た。と、葉之助は左剣で払った。一つの首が床の上へ落ち、ドンという気味の悪い音を立てた。
後の二人は逃げ出した。すぐに狼が飛びついた。そうして喉笛《のどぶえ》を噛み切った。虚空《こくう》を掴《つか》む指が見えた。
教主の一団は遠ざかった。
葉之助は後を追った。
狼と犬とが従った。
ふたたび彼らへ追いつこうとした。
にわかに彼らが立ち止まった。
彼らの顔は笑っていた。走って来る葉之助を凝視した。悪意を持った嘲笑であった。
つと[#「つと」に傍点]一人が前へ進み、廊下の壁へ手を触れた。とたんに廊下の板敷が外れ、葉之助は床下へ落ち込んだ。
彼らはドッと笑声を上げ、そのままドンドン走って行った。
と、数匹の狼が、ヒュウヒュウと床下へ飛び込んだ。間もなく次々に飛び出して来た。巨大な一匹の狼の背に、葉之助はしがみついていた。彼は左の手を挫《くじ》いていた。動かすことが出来なかった。劇《はげ》しい痛みに堪えられなかった。で、彼は転げ廻った。土佐犬が悲しそうに吠え立てた。
しかし狼は吠えなかった。葉之助の周囲へ集まって来た。挫いた左の腕の附け根を暖かい舌で嘗め廻した。
獣には獣の治療法があった。彼ら特色の治療法であった。彼らの唾液《だえき》は薬であった。暖かい舌で嘗め廻すことは、温湿布に当たっていた。鏡葉之助の体には、窩人の血汐が混っていた。
窩人と獣とは友達であった。
獣特色の治療法は、一面窩人の治療法でもあった。
葉之助の痛みは瞬間に止んだ。腕の運動も自由になった。
彼の勇気は恢復《かいふく》した。
彼は猛然と立ち上がった。
それから彼は追っかけた。
教主達の姿は見えなかった。どうやら廊下を曲がったらしい。葉之助と狼と土佐犬とは、廊下を真っ直ぐに走って行った。と、廊下は右へ曲がった。葉之助も右へ曲がった。彼らの姿は見えなかった。廊下をズンズン走って行った。すると廊下は突き当たった。頑固な石壁が立っていた。
「はてな?」
と葉之助は途方に暮れた。
「行き止まりだ。途《みち》がない。あいつらはどこへ行ったのだろう?」
突然一匹の土佐犬が、一声高く咆吼《ほうこう》した。壁に向かって飛び掛かった。
果然壁に穴が開いた。
そこに開き戸があったのであった。
犬はヒラリと飛び込んだ。
同時にギャッという悲鳴が聞こえた。
首を切られた犬の死骸が、ピョンと廊下へ刎ね返って来た。
向こう側に誰かいるらしい。待ち伏せをしているらしい。
犬達は喧騒《けんそう》した。つづけて二、三匹飛び込もうとした。
「叱《しっ》!」
と葉之助は手で止めた。
犬の死骸を抱き上げた。それを戸口から投げ込んだ。つづいて自分も飛び込んだ。
二人の武士が立っていた。
颯《さっ》と二人切り込んで来た。チャリンと葉之助は両刀で受けた。一人の刀をポンと刎ね、もう一人の刀を巻き落とした。寄り身になって横へ払った。ワッと一人が悲鳴を上げた。刀を落とされた武士であった。額から鼻まで切り下げられていた。
ドンと武士はぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。狼と犬とが群がりたかっ[#「たかっ」に傍点]た。見る間に寸々に引き裂いた。
「えい」と葉之助は声を掛けた。すぐワッという声がした。もう一人の武士が切り仆された。
犬と狼とが引き裂いた。
一九
葉之助は部屋を見廻した。
それはまさしく閨房《けいぼう》であった。垂《た》れ布《ぎぬ》で幾部屋かに仕切ってあった。どの部屋にも裸体像があった。いずれも男女の像であった。
多くの男女の信者達は、この部屋でお恵みを受けたのだろう。
あちこちに脱ぎ捨てた衣裳があった。
信者達は裸体で逃げ出したと見える。
部屋部屋には一個ずつ香炉《こうろ》があった。香炉から煙りが立っていた。催淫薬《さいいんやく》の匂いがした。
反対の側に戸口があった。
葉之助はそこから出た。
長い一筋の廊下があった。
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