一人の信徒が叫び声を上げた。が、すぐにその信徒は、虚空を掴んでぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れた。肩から大袈裟に斬られたのであった。
 尚二、三本松明は、大広間を茫《ぼう》と照らしていた。
 その一本がバサリと落ちた、松明の持ち主が「ムー」と呻き、床へ倒れてのたうっ[#「のたうっ」に傍点]た。見れば片手を斬り落とされていた。
 と、もう一本の松明が消えた。つづいてもう一本の松明が消えた。
 部屋の中は闇となった。その暗々たる闇の中で、信徒達は揉み合った。
 互いに相手を疑ぐった。手にさわる者と掴み合った。
 そうしてドッと先を争い、戸口から外へ逃げ出した。
 その中に葉之助も交じっていた。部屋の外は広い廊下で、左右にズラリと部屋があった。その部屋の中へ信徒達は、蝗《いなご》のように飛び込んだ。

         一四

 葉之助は廊下を真っ直ぐに走った。
 廊下が尽きて階段となり、階段の下に中庭があった。
 そこへ下り立った葉之助は、ベッタリ地の上に坐ってしまった。そうして丹田《たんでん》へ力をこめ、しばらくの間|呼吸《いき》を止めた。それから徐々に呼吸をした。と、シーンと神気が澄み、体に精力が甦《よみがえ》って来た。一刀流の養生《ようじょう》法、陣中に用いる「阿珂術《あかじゅつ》」であった。
 もしもこの時葉之助が、バッタリ地の上に倒れるか、ないしは胡座《こざ》して大息を吐いたら、そのまま気絶したに相違ない。彼は十分働き過ぎていた。気息も筋肉も疲労《つか》れ切っていた。一点の弛《ゆる》みは全身の弛みで、一時に疲労《つかれ》が迸《ほとばし》り出て、そのまま斃れてしまったろう。
 今日|流行《はや》っている静座法なども、その濫觴《らんしょう》は「阿珂術」なので、伊藤一刀斎景久は、そういう意味からも偉大だと云える。
 気力全身に満ちた時、彼は刀を持ちかえようとした。さすがに腕にはシコリが来て、指を開くことが出来なかった。で、左手《ゆんで》で右手《めて》の指を、一本一本|解《と》いて行った。と、切っ先から柄頭《つかがしら》まで、ベッタリ血汐で濡れていた。
「息の音を止めたは八人でもあろうか。傷《て》を負わせたは二十人はあろう」
 彼は刃こぼれ[#「こぼれ」に傍点]を見ようとした。グイと切っ先を眼前《めのまえ》へ引き寄せ、一寸一寸送り込み、じいいっ[#「じいいっ」に傍点]と刃並みを覗いて見た。空には星も月もなく、中庭を囲繞《いにょう》した建物からは、灯火《ともしび》一筋洩れていない。で、四方《あたり》は真の闇であった。それにも関らず白々と、刀気が心眼に窺われた。
「うむ、有難い、刃こぼれはない」
 これは刃こぼれはない筈であった。それほど人は切っていたが、チャリンと刀を合わせたのは、二、三合しかないからであった。
「よし」と云うと左の袖を、柄へキリキリと巻きつけた。それからキューッと血を拭った。
 耳を澄ましたが物音がしない。そこでユラリと立ち上がった。
「どのみち[#「どのみち」に傍点]地理を調べなければならない」
 で、そろそろと歩いて行った。
 一つの建物の壁に添い、東の方へ進んで行った。
 行手《ゆくて》にポッツリ人影が射した。で、足早に寄って行った。
 その人影は家の角を廻った。
「ははあ角口に隠れていて、居待《いま》ち討ちにしようというのだな」
 葉之助は用心した。足音を忍んで角まで行った。じっと物音を聞き澄ました。
 コトンと窓の開く音がした。ハッと彼は飛び退《すさ》った。同時に何物か頭上から、恐ろしい勢いで落ちて来た。それは巨大な鉄槌《てっつい》であった。上の窓から投げた物であった。一歩|退《の》き方が遅かったなら、彼は粉砕されたかもしれない。
 彼はキッと窓を見上げた。しかしもう窓は閉ざされていた。そこで彼は角を曲がった。どこにも人影は見られなかった。そうして行手は石垣であった。
 そこで彼は引き返した。
 で、以前《まえ》の場所へ帰って来た。いつか戸口は閉ざされていた。石段を上って戸に触れてみた。閂《かんぬき》が下ろされているらしい。引いても押しても動かない。で、彼はあきらめ[#「あきらめ」に傍点]た。
 同じ建物の壁に添い、西の方へ歩いて行った。やがて建物の角へ来た。サッと刀を突き出してみた。向こう側に誰もいないらしい。で、遠廻りに弛く廻った。
 すぐ眼の前に亭《ちん》があった。亭の縁先に腰をかけ、葉之助の方へ背中を向け、二人の男女が寄り添っていた。一基の雪洞《ぼんぼり》が灯されていた。二人の姿はよく見えた。恋がたりでもしているらしい、淫祠邪教徒の本性をあらわし、淫《みだ》らのことをしているらしい。
「斬りいい形だ。叩っ斬ってやろう」
 葉之助は忍び寄った。掛け声なしの横撲り、男の肩へ斬り付けた。と思った一刹那、女がクルリとこっちを向き、ヒューッと何か投げつけた。危うく避けたその間に、二人の姿は掻き消えた。投げられた物は紐であった。紐が彼へ飛び掛かって来た。それは一匹の毒蛇であった。
 で、三つに斬り払った。
 行手は厳重の石垣であった。越して逃げることは出来なかった。
 でまた彼は引き返した、こうして以前の場所へ来た。
 反対の側にも建物があった。地面から五、六階の石段があり、それを上ると戸口であった。もちろんその戸は閉ざされていた。そこで彼は石段を上がり、その戸をグイと引っ張って見た。と、意外にも戸があいた。とたんに彼は転がり落ちた。転がったのが天佑《てんゆう》であった。戸が開くと同時に恐ろしい物が、彼を目掛けて襲いかかって来た。それを正面《まとも》に受けたが最後、彼は微塵《みじん》にされただろう。

         一五

 円錐形の巨大な石が――今日で云えば地均轆轤《じならしろくろ》が、素晴らしい勢いで落下したのであった。
 ドーンと戸口は締められた。後は寂然《しん》と音もしない。しかし無数の邪教徒が、四方八方から彼を取りこめ、討ち取ろう討ち取ろうとしていることは、ほとんど疑う余地はなかった。
 人声のないということは、その凄さを二倍にした。立ち騒がないということは、その恐ろしさを二倍にした。
 今は葉之助は途方に暮れた。
「どうしたものだ。どうしてくれよう。どこから、逃げよう。どうしたらいいのだ」
 混乱せざるを得なかった。
 とまれじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。その建物を東の方へ廻った。と、建物の角へ来た。
 曲がった眼前に大入道が、雲突くばかりに立っていた。
「えい!」一声斬りつけた。カーンという金の音がした。そうして刀が鍔《つば》もとから折れた。
 大入道は邪神像であった。
「しまった!」と彼は思わず叫び、怨《うら》めしそうに刀を見た。折れた刀は用に立たない。で彼は投げ棄てた。そうして脇差しを引き抜いた。
 こうしてまたも葉之助は、後へ帰らざるを得なかった。さて元の場所へ帰っては来たが、新たにとるべき手段はない。茫然《ぼんやり》佇《たたず》むばかりであった。勇気も次第に衰えて来た。だがこのまま佇んでいたのでは、遁がれる道は一層なかった。
 そこで無駄とは知りながら、西の方へ廻って行った。例によって角へ来た。用心しながらゆるゆる曲がった。と行手に石垣があり、立派な門が建っていた。
「ははあ門があるからには、門の向こう側は往来だろう。よしよしあの門を乗り越してやれ」
 門の柱へ手を掛けた。ひらり[#「ひらり」に傍点]と屋根へ飛び上がった。そうして向こう側を隙《す》かして見た。
 思わず彼は「あっ」と云った。そこに大勢の人影が夜目にも解る弓姿勢で、タラタラと並んでいたからであった。弓を引き絞り狙《ねら》っているのだ。
 彼は背後《うしろ》を振り返って見た。そこでまた彼は「あっ」と叫んだ。十数人の人影が、鉄砲の筒口を向けていた。
 彼はすっかり[#「すっかり」に傍点]計られたのであった。腹背敵を受けてしまった。もう助かる術《すべ》はない。飛び道具には敵すべくもない。
 が、しかし彼の頭を、その時一筋の光明が、ピカリと光って通り過ぎた。
「ここは江戸だ。しかも深夜だ、よもや鉄砲を撃つことは出来まい。撃ったが最後世間へ知れ、有司《ゆうし》の疑いを招くだろう。邪教徒の教会はすぐに露見だ。一網打尽に捕縛《ほばく》されよう。……断じて鉄砲を撃つ筈はない……弓手《ゆみて》の方さえ注意したら、まず大丈夫というものだ」
 で、彼は屋根棟へ寝た。
 一筋の矢が飛んで来た。パッと刀で切り払った。つづいて二本飛んで来た。幸いにそれは的を外れた。
 寝たまま葉之助は考えた。
「高所に上って矢を受ける。まるで殺されるのを待つようなものだ。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。弓手の真ん中へ飛び下りてやろう」
 四本目の矢が飛んで来た。それを二つに切り折ると共に、ヤッとばかりに飛び下りた。
 計略たしか図にあたり、弓手は八方へ逃げ散った。しかし葉之助の思惑は他の方面で破られた。そこは決して往来ではなかった。いっそう広い中庭であった。
 隙《す》かして見れば所々に、幾個《いくつ》か檻《おり》が立っていた。「はてな?」と葉之助は不思議に思った。
 一つの檻へ近寄って見た。三匹の熊が闇の中で爛々とその眼を怒らせていた。
 これには葉之助もゾッとした。もう一つの檻へ行って見た。十数頭の狼が、グルグルグルグル檻に添ってさもいらいら[#「いらいら」に傍点]と走っていた。ここでも葉之助はゾッとした。さてもう一つの檻の前へ行った。一匹の猪が牙《きば》を剥き、何かの骨を噛み砕いていた。と、その時一点の火光が、門の屋根棟へ現われた。それは松明《たいまつ》の火であった。つづいて一点また一点、松明の火が現われた。
 大勢の人が屋根の上に、一列に並んで立っていた。
 そうしてその中には教主もいた。男女二人の教主がいた。
 何かが始まろうとしているらしい。何かを始めようとしているらしい。
 何をしようとするのだろう? と、ガチンと音がした。「ウオーッ」と唸る熊の声がした。檻を誰かが開けたらしい。三頭の熊がしずしずと檻から外へ現われ出た。それが松明の火で見えた。続いてガチンと音がした。
 無数の狼が先を争い、檻の中から走り出た。

         一六

 教徒達の意図は証明された。彼らは葉之助を惨酷《ざんこく》にも、猛獣に食わせようとするのであった。
 邪教徒らしいやり方であった。敢《あえ》て葉之助ばかりでなく、これまで幾人かの人間が、猛獣の餌食《えじき》にされたのであった。裏切り者と目星を付けるや、彼らは用捨なくその者を捕えて、人知れず檻の中へ入れたものであった。猪の食っていた何かの骨! それは人間の骨なのであった。ただし葉之助は手強《てごわ》かった。捕えることが出来なかった。そこで猛獣の檻をひらき、四方を囲んだ広い空地で、食い殺させようとしたのであった。
 そうして教主をはじめとし、大勢の教徒達が屋根の上から、それを見ようとしているのであった。
 羅馬《ローマ》にあったという演武場! 西班牙《スペイン》に今もある闘牛場! それが大江戸にあろうとは!
 信じられない事であった。信じられない事であった。
 が、厳たる事実であった。現に猛獣がいるではないか。ジリジリ逼《せま》って来るではないか。
 そうだ猛獣は逼って来た。
 狼群は円い輪を作り、葉之助の周囲《まわり》を廻り出した。しかし決して吠えなかった。訓練されているからであった。吠えたら世間に知られるだろう。世間に知られたら露見の基であった……で、かすかに唸るばかりであった。
 もちろん熊も吠えなかった。ただ「ウオーッ」と唸るだけであった。
 さすがの鏡葉之助も、頭髪逆立つ思いがした。
「もう駄目だ、もういけない」
 彼は悲惨にも観念した。人間同士の闘いなら、まだまだ遁がれる道はあった。相手は群狼と熊とであった。遁がれることは出来なかった。葉之助は脇差しを投げ出した。それから大地へ端座した。眼を瞑《つ》むり腕を組んだ。猛獣の襲うに任せたのであった。
 
前へ 次へ
全37ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング