、とりわけ触れようとひしめいた。
 男の教主の怪しき得物《えもの》と、女の教主の檜扇とは、そういう信者の一人一人へ、一々軽く触れて行った。
 こうして行列は静々と、広い部屋を迂廻した。
 そうして葉之助へ近付いて来た。
 葉之助は茫然《ぼんやり》と立っていた。
 どうしてよいか解らなかった。もちろん彼は邪教徒ではなかった。で、教主を拝することは、良心に咎《とが》めて出来なかった。と云って茫然《ぼんやり》立っていたら、咎められるに相違なかった。そうなったら事件が起こるだろう。信者でもない赤の他人が、道場へ入り込んでいたとすれば、教団にとっては打撃でなければならない。きっと憤慨するだろう。恐らく乱暴をするかもしれない。道場にいる全部の信徒が、刃向かって来ないとも限らない。
「いったいどうしたらいいだろう?」
 焦心せざるを得なかった、狼狽《ろうばい》せざるを得なかった。
 その間も行列は進んで来た。
 しかしてやがて葉之助の前へ二人の教主は立ち止まった。
 葉之助は絶体絶命となった。で、昂然《こうぜん》と顔を上げ、教主の顔を睨み付けた。
 二人の教主の胸の辺に、不思議な刺繍《ぬいとり》が施されてあった。それを見て取った葉之助は「あっ」と叫ばざるを得なかった。
 それは恐ろしい刺繍《ぬいとり》であった。彼に縁のある刺繍であった。彼はそれによってこの教団のいかなるものかを知ることが出来た。そうしてそれを知ったがために、彼は現在の自分の位置が、予想以上に危険であることを、はっきり[#「はっきり」に傍点]明瞭に知ることが出来た。
 俄然《がぜん》形勢は一変した。そうしてそれは悪化であった。
「あっ」という声に驚いて二人の教主は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
 そうしてその眼は必然的に、声の主へ注がれた。
 教主二人の四つの眼と、葉之助の眼とはぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
 それは火のような睨み合いであった。
 が、それは短かった。
 男の教主がまず叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
 女の教主が続いて叫んだ。
「鏡葉之助だ! 鏡葉之助だ!」
「この男を搦《から》め取れ!」
 ――つづいて起こったのが混乱であった。
 こんな順序で行われた。
 一斉に信徒達が立ち上がった。
 グルリと葉之助を取り囲んだ。
 行列は颯《さっ》と後へ引いた。信徒の中の武士達は、揃《そろ》って一度に刀を抜いた。女信徒達は逃げ迷った。
 喚き声! 怒鳴り声! 泣き叫ぶ声!
「教法の敵!」「搦め取れ!」「切って棄てろ! 切って棄てろ!」
 松明《たいまつ》の火が数を増した。キラキラと抜き身が輝いた。出入り口が固められた。
 群集がヒタヒタと逼《せま》って来た。
 殺気が場中に充《み》ち充ちた。
 予期したことではあったけれど、葉之助の心は動揺した。突嗟《とっさ》に思案が浮かばなかった。と云って落ち着いてはいられなかった。防がなければならなかった。そうしなければ、捕えられるだろう。捕えられたら殺されるだろう。
 世の中で何が恐ろしいと云って、狂信者ほど恐ろしいものはない。彼らには一切反省がない。あるものは迷信ばかりだ。おおそうして迷信たるや、一切の罪悪の根本ではないか! 「迷信」は笑いながら人を殺す! 笑って人を殺す者は宇宙において迷信者ばかりだ!
 その迷信者が充ち充ちているのだ。それが挙《こぞ》って刃向かって来るのだ。
「もうこうなればヤブレカブレだ! 切って切って切り捲くるばかりだ! 遁《の》がれられるだけは遁がれてやろう!」そこで葉之助は刀を抜いた。
 小野派一刀流真の構え! 中段に付けて睨み付けた。

         一二

 背後《うしろ》へ廻られてはたまらない。彼は羽目板を背に背負《しょ》った。
 眼に余る大勢の相手であった。八方へ眼を配るべきを彼は逆に応用した。正一眼一心前方ただ正面をひたすら[#「ひたすら」に傍点]に睨んだ。飛び込んで来る敵を切ろうとするのだ。
「横竪上下遠近の事」一刀流兵法十二ヵ条のうち、六番目にある極意であった。
 正面をさえ睨んでいれば、横竪上下遠近の敵が、自ら心眼に映ずるのであった。と云ってもちろん初学者には――いやいや相当の使い手になっても、容易にそこまでは達しられない。ただ奥義の把持者《はじしゃ》のみが、その境地に達することが出来る。そうして鏡葉之助は、その奥義の把持者であった。剣にかけては天才であった。だが彼は疲労《つか》れていた。毒薬を飲まされた後であり、地下に埋められた後であった。しかし非常な場合には、超人間的勇気の出るものであった。
 構えた太刀には隙がなかった。
 と、一人飛び込んで来た。
 大兵肥満《だいひょうひまん》の武士であった。もちろん信者の一人であった。
 鏡葉之助は美少年、女のような優姿《やさすがた》。しかも一人だというところから、侮《あなど》りきって構えもつけず、颯《さっ》と横撲りにかかって来た。そこを自得の袈裟掛《けさが》け一刀、伊那高遠の八幡社頭で、夜な夜な鍛えた生木割り! 右の肩から胸へ掛け、水も堪《た》まらず切り放した。
 武士は「わっ」と悲鳴を上げた。そうして畳へころがった。プーッと吹き出す血の泡沫《しぶき》が、松明の光で虹《にじ》のように見えた。と、もうその時には葉之助は、ピタリ中段に付けていた。
「えい」とも「やっ」とも、声を掛けない。水のように静かであった。返り血一滴浴びていない。
 一瞬間ブルッと武者顫いをした。全身に勇気の籠もった証拠だ。
 ワーッと叫んで信者どもはバラバラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。
 左右から二人かかって来た。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
 心掛けある武士であった。二人は気合を掛け合った。左右へ心を散らせようとした。が、それはムダであった。葉之助は動かなかった。凝然《じっ》と正面を見詰めていた。
[#ここから2字下げ]
敵をただ打つと思うな身を守れ
    おのずから洩る賤家《しずがや》の月
[#ここで字下げ終わり]
 仮字書之口伝《かじしょのくでん》第三章「残心」を咏《うた》った極意の和歌、――意味は読んで字の如く、じっと一身を守り詰め、敵に自ずと破れの出た時、討って取れという意味であった。
 葉之助の心組みがそれであった。
 金剛不動! 身じろぎもしない。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
 二人の武士はセリ詰めて来た。尚、葉之助は動かなかった。
 場内は寂然《しん》と静かであった。松明の火が数を増した。火事場のように赤かった。後から後からと無数の信者が、出入り口からはいって来た。みんな得物《えもの》を持っていた。
 出番の来るのを待っていた。まさに稲麻竹葦《とうまちくい》であった。葉之助よ! どうするつもりだ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 その時|鏘然《しょうぜん》と太刀音がした。
 一人の武士が頭上を狙い、もう一人の武士が胴を眼がけ、同時に葉之助へ切り込んだのを、一髪の間に身を翻《ひるがえ》し、一人を例の袈裟掛けで斃《たお》し、一人の太刀を受け止めたのであった。
 受けた時には切っていた。
 他流でいうところの「燕返《つばめがえ》し」、一刀流で云う時は、「金翅鳥王剣座《きんしちょうおうけんざ》」――そいつで切って棄てたのであった。
 金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて竜を食う、――その大気魄に則《のっと》って、命名したところの「五点之次第」で、さらに詳しく述べる時は、敵の刀を宙へ刎ね、自刀セメルの位置をもって、敵の真胴《しんどう》を輪切るのであった。敵を斃すこと三人であった。ワーッと叫ぶと信者の群は、ムラムラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。得物得物を打ち振り打ち振り、十数人がかかって来た。

         一三

 鏡葉之助は三人を切った。大概の者ならこれだけで、精気消耗する筈であった。葉之助の精気も無論|疲労《つか》れた。しかし彼は恐ろしい物を見た。いやいやそれは恐ろしいというより、むしろ憎むべきものであった。彼を不断に苦しめている「悪運命」を見たのであった。讐敵《しゅうてき》の象徴を見たのであった。二人の教主の着物の胸に刺繍《ししゅう》されてあった奇怪な模様! それを彼は見たのであった。憎むべき、憎むべき憎むべき模様!
 彼の勇気は百倍した。そうして彼は決心した。「殺されるか殺すかだ! これは生優《なまやさ》しい敵ではない! 助かろうとて助かりっこはない! 生け捕られたら嬲《なぶ》り殺しだ。……相手を屠《ほふ》るということは、俺の体に纏《まつ》わっている、呪詛《のろい》を取去《のぞ》くということになる。相手に屠られるということは、呪詛に食われるということになる。……生きる意《つも》りで働いては駄目だ! 死ぬ決心でやっつけてやろう! こうなれば肉弾だ! 生命を棄てて相手を切ろう! ……おおおお集まって来おった[#「おった」に傍点]な。……とてもまとも[#「まとも」に傍点]では叶わない。こうなれば手段を選ばない。あらゆる詭計《きけい》を施してやれ」
 十人の武士が逼《せま》って来た。
 やにわに飛び込んだ葉之助は、切りよい左手の一人の武士を、ザックリ袈裟に切り倒した。とたんに自分もツルリと辷り、バッタリ俯向《うつむ》けに床へ倒れた。
 ワッと叫んだ残りの九人、乱刃を葉之助へ浴びせかけた。一髪の間に葉之助は寝ながら刀で足を払った。一刀流の陣所払い! 負けたと見せて盛り返し、一挙に多勢を屠る極意、しかし普通の場合には、卑怯《ひきょう》と目《もく》して使わない。死生一如と解した時、止むなく使う寝業であった。
 果然九人は一時に、足を薙《な》がれてぶっ倒れた。
 飛び上がった葉之助、なだれる信徒の後を追い戸口の方へ突撃《ひたはし》った。そうして「面部斬り」――で斬り立てた。
 胆を冷やさせる「面部斬り」――相手の生命を取るのではなく、獅子《しし》が群羊を駆るように、大勢の中へ飛び込んで、柄短《つかみじ》かの片手斬り、敵の顔ばかりを中《あた》るに任せ、颯々《さっさつ》と切る兵法であった。伊藤一刀斎景久が、晩年に工夫した一手であって、場合によっては刀を返し、柄頭で敵の鼻梁《はなばしら》を突き、空いている方の左手で、敵の人中《じんちゅう》を拳《こぶし》当て身! ただしこの術には制限があって、誰にも出来るというものではなかった。すなわち片手で自由自在に、大刀を揮《ふる》うだけの膂力《りょりょく》あるもの、そうして軽捷《けいしょう》抜群の者と自《おのずか》ら定《き》められているのであった。
 で、もちろん封じ手で、印可以上に尊ばれ、人を見て許すことになっていた。
 また一名「木の葉返し」とも云った。風に吹き立つ枯葉のように、八方分身十方隠れ、一人の体を八方に分《わ》かち、十方に隠れて出没し! 敵をして奔命《ほんめい》に疲労《つか》れしめ、同士討ちをさせるがためであった。
 はたして信徒達は騒ぎ立った。風に木の葉が翻《ひるがえ》るように、百畳敷の大広間を、右往左往に逃げ惑った。
「裏切り者がいる! 裏切り者がいる!」
「一人ではない! 敵は多勢だ!」
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
 信徒同士組打ちをした。互いに斬り合う者もあった。松明《たいまつ》の火が吹き消された。ヒーッと女達は悲鳴を上げた。バタバタと倒れる音がした。器類がころがっ[#「ころがっ」に傍点]た。画像がべりべりと引き裂かれた。
「助けてくれーエッ」
 と叫ぶ者があった。倒れた信徒の体の上を、無数の人が踏んで走った。ムクムクと戸口から逃げはじめた。
 葉之助の策略は成功した。
 混乱に次いで混乱が起こり、収拾することが出来なかった。
「静まれ静まれ敵は一人だ!」
 心掛けある信徒でもあろう。一人の者が大音に叫んだ。ツ[#「ツ」に傍点]と葉之助は走り寄り、その叫び主を斬り落とした。
「灯火《あかり》を点けろ! 灯火を点けろ!
前へ 次へ
全37ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング