めが殺された今は、戦ったが最後こっち[#「こっち」に傍点]の勝ちだ」
「姥を殺したのは葉之助だ」
「葉之助は俺らの恩人だ」
「だが気の毒にも呪われている」
「永久安穏はないだろう」
「眠い」
と女の声がした。
するとみんな[#「みんな」に傍点]黙ってしまった。
彼らは睡眠《ねむり》にとりかかった。
やがて鼾《いびき》の声がした。
木蔭を立ち出で北山は、町の方へ足を向けた。
「ふうむそれでは葉之助は、山男の血統を引いてるのか」
彼は心で呟いた。
「久田の姥を殺したのは、鏡葉之助の他にはない。……彼らの噂した葉之助は、鏡葉之助に違いない……これを聞いたら葉之助はどんな気持ちになるだろう……明かした方がいいだろうか? 明かさない方がいいだろうか? ……だが多四郎とは何者だろう?」
上野の方へ足を向けた。
「大胆不敵な葉之助のことだ、素姓の卑しい山男達の、たとえ血統を引いていると聞いても、よもやひどい[#「ひどい」に傍点]失望はしまい。……やはりこれは明かした方がいい……そうだ、今夜も葉之助は、根岸の殿の下屋敷附近を、警戒しているに違いない。行き逢って様子を見ることにしよう」
根岸の方へ足を向けた。
根岸は閑静な土地であった。夜など人一人通ろうともしない。
間もなく下屋敷の側まで来た。
葉之助の姿は見えなかった。
で、裏の方へ廻って行った。
すると、広い空地へ出た。空地の闇を貫いて、一筋白い長い線が、一文字に地面へ引かれていた。
それと知った時北山は、思わず「アッ」と声を上げた。「白粉! 白粉! 例の白粉だ!」
とたんに笛の音が聞こえて来た。
銀笛のような音であった。白粉の上を伝わって来た。その白粉は白々と、森帯刀家の下屋敷まで、一直線につづいた。
笛の音は間近に逼《せま》って来た。もう数間の先まで来た。
北山は再び「アッ」と云った。
それからあたかも狂人《きちがい》のように、白粉を足で蹴散らした。
そうして笛の音を聞き澄ました。
笛の音は足もとまで逼って来た。しかしそこから引っ返して行った。
だんだん音が遠ざかり、やがて全く消えてしまった。
北山は全身ビッショリと冷たい汗を掻いていた。と、地面へ手を延ばし、一|摘《つま》みの白粉を摘み上げた。
「解った!」と呻くように叫んだものである。
九
地下に埋められた葉之助は、さてそれからどうなったろう?
奇々怪々たる出来事が引き続き起こったのであった。
ちょっと待てと云って立ち去ったまま、一学は帰って来なかった。で葉之助は待っていた。待っているのはよいとしても、呼吸《いき》の苦しいのは閉口であった。名に負う地下にいるのであった。気味の悪さは形容も出来ない。湿気は体を融かそうとした。身内を蛆虫《うじむし》が這うようであった。一寸も動くことが出来なかった。もし体を動かしたら、竹筒の位置が狂うだろう。そうしたら呼吸が出来なくなろう。そうなったらお陀仏であった。死んでしまわなければならなかった。
「死ぬかも知れない! 死ぬかも知れない! だがいったいそれにしても、一学氏はどうしたのだろう? どうして助けに来ないのだろう? 逃げてしまったのではあるまいか? いやいやそんな人物ではない。では何か危険なことでも、あの人の身の上に起こったのであろうか? ……とにかくこうしてはおられない。生きている人間が生きながら、地下に埋められているなんて、どう考えたって恐ろしいことだ! 出なければならない! 出なければならない! おお俺の体の上には、土がいっぱい[#「いっぱい」に傍点]に冠さっているのだ。茴香《ういきょう》の花が咲いているのだ。そうしてもしも俺が死んだら、その茴香の肥料《こやし》になるのだ。……死! 肥料! 恐ろしいことだ! これはどうしても逃げなければならない。だがどうしたら逃げられるのか? そうだ土を刎《は》ね退ければいい。だがどうして刎ね退けたものか? 重い厚い石のように、一面に冠《かぶ》さっているではないか? 駄目だ駄目だ! 助かりっこはない。……前田氏! 一学氏! 助けてくだされ、助けてくだされ!」
しかし、四辺《あたり》は森閑として、ただ暗く寒かった。
「せめて手だけでも動かせないかしら?」
彼は右手を動かそうとした。土が重く冠さっていた。容易に動かすことは出来なかった。しかし非常な努力の後、それでも少しずつ動かせるようになった。
「よし。有難い。大丈夫だ」
で、土を掻き退けようとした。すると指先に何かさわった[#「さわった」に傍点]。石ではない固いものであった。そこでそれを引っ掴んだ。その感触が鉄らしかった。しかもそれは環《わ》のようであった。
「鉄の環があろうとは、これはいったいどうしたことだ?」葉之助には不思議であった。
溺れる者は藁《わら》をも掴む。で、葉之助は環を掴み、力まかせに引いてみた。
その瞬間に起こったことは、彼にとっては奇蹟よりも、もっと驚くべきことであった。
忽然《こつぜん》彼の体の下へ、四角の穴が開いたのであった。ザーッと落ちる土とともに、彼の体は下へ落ちた。
狼穽《おとしあな》かそれとも他の何か? とにかくそこには人工の穴が、以前《まえ》から掘られていたのであった。
そこへ落ち込んだ葉之助は、あまりの意外に茫然とした。が、幸い怪我《けが》はしなかった。穴も深くはないらしかった。で、手探りに探ってみた。
「やや、ここに横穴がある」彼は思わず声を上げた。そうだ、そこには横穴があった。考えざるを得なかった。
「この縦穴を這い出したなら、玄卿の屋敷へ出ることが出来る。幸い両刀は持っている。憎い玄卿めを討ち取ることも出来る。しかし俺は衰弱《よわ》っている。これほどの姦策《かんさく》をたくらむ奴だ、どんな用意がしてあろうも知れぬ。あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に討たれたら悲惨《みじめ》なものだ。……さてここにある横穴だが、何んとなく深いように思われる。いっそこれを辿《たど》って行って、一時体を隠すことにしよう。もっともあるいはこの横穴も、あいつの拵《こしら》えたものかもしれない。では何んのために拵えたのか、そいつを探るのも無駄ではない。もしこれがそうでなくて、誰か他の人が拵えたものなら、――もしくは天然に出来たものなら、地上へ通じているかもしれない。では助かろうというものだ。どっちみち縦穴を上るより、横穴を辿った方が安全らしい」
そこで彼は手探りで、横穴を奥の方へ辿って行った。
思った通りその横穴は、深く奥へ続いていた。一間行っても、二間行っても突きあたろうとはしなかった。天井は低く横も狭く、非常に窮屈な穴ではあったが、空気もそれほど濁ってはいず、水なども落ちては来なかった。
やがて五間行き十間行き、半町あまりも辿って行ったが、依然横穴は続いていた。
少しずつ、葉之助は不安になった。
「いったいどこまで続くのだろう?」彼は立ち止まって考え込んだ。しかし後へ戻ることは、かえって危険のように思われた。やはり進むより仕方なかった。
一〇
で、彼は進んで行った。一町あまりも行った頃であったが、彼は何かに躓《つまず》いた。そこで手探りに探ってみた。どうやら石の階段らしい。
「いよいよ戸外《そと》へ出られるかな」こう思うと彼は嬉しかった。一つ一つ石段を上って行った。二十段近くも上った頃、木の扉へぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
「人家へ続いているのだな」意外に思わざるを得なかった。
彼は扉を押してみた。すると案外にもすぐ開いた。はたしてそこは人の家であった。人の家の一室であった。
そうだそれは部屋であった。しかも普通の部屋ではなかった。
それは非常に広い部屋で、畳を敷いたら百畳も敷けよう、行灯《あんどん》が細々と灯っていた。そうして縛られた女や男が、あっちにもこっちにも転がっていた。
呻く者、泣く者、喚く者、縛られたまま転げ廻る者、呪詛《のろ》いの声を上げる者、……部屋の内はそれらの声で、阿鼻《あび》地獄を呈していた。
人の類も様々であった。まず女から云う時は、町家の娘、ご殿女中、丸髷《まるまげ》に結った若女房、乞食《こじき》女、いたいけな少女、老いさらばった年寄りの女、女郎らしい女、芸妓らしい女、見世物小屋の太夫らしい女、あらゆる風俗の女達が、もだえ苦しんでいるのであった。
男の方も同じであった。商家の手代、商家の丁稚《でっち》、役者、武士、職人、香具師《やし》、百姓、手品師、神官、僧侶……あらゆる階級の男達が、狂いあばれているのであった。
そうしてそれらの人々の上を、行灯の微光が照らしていた。
低い天井《てんじょう》、厳重な壁、出入り口の戸はとざされていた。
これを見た葉之助は驚くよりも、恐怖せざるを得なかった。彼は棒のように突っ立った。
「いったいここはどこだろう? いったいどういう家だろう? この人達は何者だろう? いったい何をしているのだろう?」
しかし彼の驚きは――いや彼の恐怖心は、しばらく経つと倍加された。彼は一層驚いたのであった。
さらにさらに恐怖したのであった。
と云うのはそれらの人々が、決して苦しんでいるのではなく、そうして何者かに幽囚されて、呪詛《のろ》い悲しんでいるのではなく、否々《いないな》それとは正反対に、喜び歌い、褒《ほ》め讃《たた》え――すなわち何者かに帰依《きえ》信仰し、欣舞《きんぶ》しているのだということが、間もなく知れたからであった。
呪詛《のろい》の声と思ったのは、実に讃美の声なのであった。
「光明遍照! 光明遍照! 喜びの神! 幸いの神! 男女の神! 子宝《こだから》の神! おおおお神様よ子宝の神様よ! どうぞ子宝をお授けください!」こう讃美する声なのであった。
ここは邪教の道場なのであった。ここは淫祠《いんし》の祭壇なのであった。
おお大江戸の真ん中に、こんな邪教があろうとは!
と、その時、忽然《こつぜん》と、音楽の音《ね》が響いて来た。
まず篳篥《ひちりき》の音がした。つづいて笙《しょう》の音がした。搦《から》み合って笛の音がした。やがて小太鼓が打ち込まれた。
……それは微妙な音楽であった。邪教に不似合いの音楽であった。神聖高尚な音色であった。
俄然道場は一変した。男は女から飛び離れ、女は男から身を退けた。いずれも一斉にひざまずいた[#「ひざまずいた」に傍点]。そうして彼らは合掌した。
「ご来降! ご来降!」と同音に叫んだ。
「教主様のお出まし! 教主様のお出まし!」
異口同音にこう云った。
次第に音楽は高まって来た。それがだんだん近寄って来た。やがて戸口の外まで来た。
しずかにしずかに戸が開いた。
深紅《しんく》の松明《たいまつ》の火の光が、その戸口から射し込んだ。
つと[#「つと」に傍点]二人の童子が現われ、続いて行列がはいって来た。童子が松明を捧げていた。光明が一杯部屋に充ちた。
教主は男女二人であった。いずれも若く美しかった。普通に美しいと云っただけでは、物足りないような美しさであった。女は年の頃十八、九であろうか、緋《ひ》の袴《はかま》を穿いていた。そうして上着は十二|単衣《ひとえ》であった。しかも胸には珠をかけ、手に檜扇《ひおうぎ》を持っていた。
男の年頃は二十一、二で、どうやら女の兄らしかった。その面が似通っていた。胸には同じく珠をかけ、足には大口を穿いていた。だがその手に持っているものは、三諸山《みむろやま》の神体であった。
一一
教主の後から老女が続き、そのまた後ろから幾人かの、美しい男女が続いた。
部屋の中は皎々《こうこう》と輝いた。今まで見えなかった様々の物が――壁画や聖像や龕《がん》や厨子《ずし》が、松明の光で見渡された。それはいずれも言うも憚《はばか》り多い怪しき物のみであった。
行列は部屋を迂廻した。
信者の群は先を争い、二人の教主へ触れようとした。
男の信者は女の教主へ、女の信者は男の教主へ
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