そうしてそのまま気を失った。
    ……………………
    ……………………
 新鮮な空気がはいって来た。
 葉之助は正気附いた。
 そうして自由に息が出来た。
 だが身動きは出来なかった。
 彼はやはり穴の中にいた。
 土が一杯に冠さっていた。
 しかし痲痺からは覚めていた。毒薬の利《き》き目《め》が消えたのであろう。
 どうして息が出来るのだろう? どこかに穴でも開いたのであろうか?
 そうだ、穴があいたのであった。
 ちょうど彼の口の上に、穴があいているのであった。
 しかし普通の穴ではなかった。
 竹の筒が差し込まれているのであった。
 誰がそんなことをしたのだろう? もちろん誰だか解らなかった。
 とまれそのため葉之助は、一時死から免《まぬ》がれることが出来た。
 彼は充分に息をした。どうかして穴から出ようとした。しかしそれは絶望であった。
 で、じっ[#「じっ」に傍点]として待つことにした。
 するとその時竹筒を伝って、人の声が聞こえて来た。
 彼に呼びかけているのであった。
「鏡殿、葉之助殿」
 それは男の声であった。
 そうして確かに聞き覚えがあった。
 そこで葉之助は返辞をした。
「どなたでござるな。え、どなたで?」
「一学でござる。前田一学で」
「おっ」と葉之助はそれを聞くと、助かったような気持ちがした。「さようでござるか、前田氏でござるか。……それにしてもこれはどうしたことで」
「生き埋めにされたのでございますよ」
「生き埋め? 生き埋め? なんのために?」
「枯れかけた茴香《ういきょう》を助けるために」
「ナニ、茴香を? 枯れかけた茴香を?」
「さよう」と一学の声が云った。「肥料にされたのでございます。……あなた[#「あなた」に傍点]ばかりではございません。十数人の人間が。……人が来るようでございます。……しばらくお待ちくださいますよう」

         六

 そこでしばらく話が絶え、後はしばらく寂然《しん》となった。
 と、また話し声が聞こえて来た。
「葉之助殿、お苦しいかな?」
「苦しゅうござる。早く出してくだされ」
「それが、そうは出来ませんので」
「ナニ出来ない? なぜでござるな?」
「まだ人達が目覚めております」
「ではいつここから出られるので?」葉之助はジリジリした。
「間もなく寝静まるでございましょう、もう少々お待ちくだされ」
「それにしても前田氏には、どうしてこんな処におられるな」
「玄卿の秘密を発《あば》くため、飯焚《めした》きとなって住み込んだのでござる」
「で、秘密はわかりましたかな?」
「さよう、おおかたはわかりました」
「それでは白粉の性質も?」
「さよう、おおかたは突き止めてござる」
「さようでござるかそれはお手柄。で、いったい何んでござるな?」
「茴香《ういきょう》から製した薬品でござる」
「ううむ、なるほど、茴香のな。やはり毒薬でござろうな?」
「さよう、さよう、毒薬でござる」
「おおそれでは金一郎様には、毒殺されたのでございますな」
「ところが、そうではございません」
「そうではないとな? これは不思議?」
「茴香剤は毒薬とは云え、後に痕跡を残します。……しかるに若殿の死骸《なきがら》には、なんの痕跡もなかったそうで」
「さようさよう、痕跡がなかった。……だが、毒殺でないとすると……」
「全く不思議でございます」
「白粉の性質が解っても、それでは一向仕方がないな」
「だが前後の事情から見て、茴香剤の白粉が、金一郎様殺害に、関係のあることはたしかにございます」
「で、白粉の特性は?」
「刺戟剤でございます。まず、しばらくお待ちください。客があるようでございます。……誰か裏門を叩いております。……男奴《おとこめ》が潜《くぐ》り戸をあけました。……や、紋兵衛でございます、大鳥井紋兵衛が参りました。……これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けません。……ちょっと様子をうかがって来ます。……」
 前田一学は立ち去ったらしい。
 後はふたたび静かになった。
 葉之助はだんだん苦しくなった。
 湿気が体へ滲み通った。
 呼吸もだんだん苦しくなった。ひどく衰弱を感じて来た。
 次第に眠気を催して来た。
 一学は帰って来なかった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらウツラウツラした。
 これは恐ろしい眠りであった。ふたたび覚めない眠りであった。眠ったが最後葉之助は、生き返ることは出来ないだろう。
 はたして彼の運命は?

 ちょうど同じ夜のことであった。
 神田の諸人宿の奥まった部屋に、天野北山は坐っていた。
 薬箱が置いてあった。
 アルコールランプが置いてあった。
 試験管が置いてあった。
 そうして彼は蘭語の医書を、むずかしい顔をして読んでいた。
 そこには次のように書いてあった。
「……茴香には三種の区別あり、野茴香、大茴香、小茴香、しかして茴香の薬用部は、枝葉に非ずして果実なり。大きさおよそ二分ばかり、緑褐色長円形をなす。一種強烈なる芳香を有し、駆虫《くちゅう》、※[#「ころもへん+去」、第3水準1−91−73]痰《きょたん》、健胃剤となる。また芳香を有するがため、嬌臭《きょうしゅう》及び嬌味薬となる、あるいは種子を酒に浸し、飲用すれば疝気《せんき》に効あり。茴香精、茴香油、茴香水を採録す」
 北山はここで舌打ちをした。
「どうもこれでは仕方がない。だがしかし例の白粉が、茴香剤に相違ないと、前田一学から知らせて来たからには、それに相違はあるまいが、しかしどうも疑わしいな」
 腕を組んで考え込んだ。
 気がムシャクシャしてならなかった。
 で、宿を出て歩くことにした。
 他に行くところもなかったので、浅草の方へ足を向けた。
 観音堂へ参詣《さんけい》した。
 相当夜が深かったので、他に参詣の人もなかった。

         七

 観音堂の裏手の丘に、十数人の男女がいた。寝そべっているもの、坐っているもの、立っているもの、横になっているもの、雑然として蒐《あつ》まっていたが、暗い星月夜のことではあり、顔や姿は解らなかった。
「星が流れた」
 と誰かが云った。
「ふん、明日も天気だろう」
 すぐに誰かがこう答えた。
 で、ちょっとの間しずかであった。
 微風が木立を辷《すべ》って行った。
 赤児のむずかる[#「むずかる」に傍点]声がした。と、子守唄が聞こえて来た。その子の母が唄うのであろう。美しい細々とした声であった。
 虫が草叢《くさむら》で鳴いていた。
 微風がまたも辷って行った。
「ああいいな。どんなにいいか知れねえ。……土の匂いがにおって来る。……枯草の蒸《む》れるような匂いもする」
 老人の声がこう云った。
「八ヶ嶽! 八ヶ嶽! おお懐《なつか》しい八ヶ嶽! 八ヶ嶽を思い出す」
 一人の声がそれに応じた。やはり老人の声であったが。
「見捨ててから久しくなる。そろそろ八ヶ嶽を忘れそうだ」
「俺は夢にさえ思い出す」以前の老人が云いつづけた。「笹の平! 宗介神社! 天狗の岩! 岩屋の住居! 秋になると木の実が熟し、冬になると猪が捕れた。そうして春になると山桜が咲き、夏になると労働した。……平和と自由だったあの時代! 俺は夢にさえ思い出す」
「漂泊《さすらい》の旅の二十年! 早く故郷へ帰りたいものだ」
「星が飛んだ!」
 とまた誰かが云った。
 虫の声が鳴きつづけた。
 夜烏《よがらす》がひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]梢で騒いだ。おおかた夢でも見たのだろう。
 窩人達は眠ろうとした。
 しかし彼らは眠られないらしい。
 そこで彼らは話し出した。
 彼らは浅草奥山の、見世物小屋の太夫達であった。
「八ヶ嶽の山男」
 ――こういう看板を上げている、その掛け小屋の太夫達であった。
 しかし彼らは窩人であった。
 彼らは小屋内に眠るより、戸外《そと》で寝る方を愛していた。それは彼らが自然児だからで、人工の屋根で雨露をしのぎ[#「しのぎ」に傍点]、あたたかい蒲団《ふとん》にくるまるより、天工自然の空の下《もと》で、湿気と草の香に包まれながら地上で眠る方が健康にもよかった。で、暴風雨でない限り、いつも彼らは土の上で眠った。
 二十年近い過去となった。その頃彼らは八ヶ嶽を出て、下界の塵寰《じんかん》へ下りて来た。それは盗まれた彼らの宝――宗介天狗のご神体に着せた、黄金細工の甲冑《かっちゅう》を、奪い返そうためであった。
 漂泊《さすらい》の旅は長かった。
 到る所で迫害された。
 山男! こういう悪罵《あくば》を投げつけられた。
 長い漂泊の間には、死ぬ者もあれば逃げるものもあった。しかし、子を産む女もあった。
 で、絶えず変化した。
 しかし目的は一つであった。
 復讐をするということであった。
 丘の近くに池があった。パタパタと水鳥の羽音がした。
「水鳥だな」
 と誰かが云った。それは若々しい声であった。
「鳥はいいな。羽根がある」
 もう一つの若々しい声が云った。
「飛んで行きたいよ。高い山へ!」「飛んで行きたいよ深い森へ!」「信州の山へ! 八ヶ嶽へ!」「そうだ俺らの古巣へな」
 三、四人の声がこう云った。
 愉快そうな笑い声が聞こえて来た。
 枯草の匂いが立ち迷った。
 で、またひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]静かになった。
 都会《まち》の方から笛の音がした。按摩《あんま》の流す笛であった。
 観音堂は闇を抜いて、星空にまで届いている。と、鰐口《わにぐち》の音がした。参詣する人があるのだろう。
「また白蛇を盗まれたそうで」
 突然こういう声がした。
「では二匹盗まれたんだな」
 もう一人の声がこう云った。「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「八ヶ嶽だけに住んでる蛇だ」
「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「いずれ馬鹿者が盗んだんだろう」
 ここで再び笑い声がした。
 それが消えると静かになった。カラカラと駒下駄の音がした。横に曲がってやがて消えた。
 また微風が訪れて来た。
 興行物の小屋掛けが、闇の中に立っていた。ギャーッと夜烏《よがらす》が啼き過ぎた。
「冬になるまでには帰りたいものだ」
 老人の声がこう云った。
「帰れるともきっと帰れる」もう一人の老人の声が云った。
「そう長く悪運が続くわけがない」
「多四郎め! 思い知るがいい!」
「だが葉之助は可哀そうだ」突然誰かがこう云った。
「仕方がない、贖罪《しょくざい》だ!」もう一人の声がこう云った。
「母の罪を償うのだ」
「あれ[#「あれ」に傍点]の母の山吹は、部落きっての美人だった。お頭杉右衛門の娘だった。若大将岩太郎の許婚《いいなずけ》だった。……ほんとに気前のいい娘だった」
「ところが多四郎めに瞞《だま》された。そうして怨《うら》み死にに死んでしまった。可哀そうな可哀そうな女だった。……山吹とそうして多四郎との子! 可哀そうな可哀そうな葉之助!」

         八

 観音堂への参詣を済まし、偶然《ふと》来かかった北山は、窩人達の話を耳にして「オヤ」と思わざるを得なかった。
「葉之助葉之助と云っているが、鏡葉之助のことではあるまいかな?」
 これは疑うのが当然であった。
 と、木蔭に身を隠し、次の話を待っていた。
「だが葉之助は偉い奴だ」老人の声がこう云った。「俺らの敵の水狐族部落を、見事に亡ぼしてくれたんだからな」
「そうだ、あの功は没せられない」合槌を打つ声が聞こえて来た。「あの一事で母親の罪は、綺麗《きれい》に償われたというものだ」
「噂によると水狐族めも、さすらい[#「さすらい」に傍点]の旅へ上ったそうだ」
「江戸へ来ているということだ」
「どこかでぶつからない[#「ぶつからない」に傍点]ものでもない」
「ぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]が最後、戦いだ」
「そうだ戦いだ、腕が鳴るなあ」
「種族と種族との戦いだからな」
「種族の怨みというものは、未来|永劫《えいごう》解《と》けるものではない」
「だが、水狐族の部落の長《おさ》、久田の姥《うば》
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