ったのに、もう洒々《しゃあしゃあ》してこの通りだ。人の目方まで量《はか》りゃあがる。――十七貫はございましょうよ」
「ずいぶん骨太でいらっしゃいますことね」
「あれ、あんな事云やあがる。厭になっちまうなこの女は。――ヘイヘイ骨太でございますとも」
「ホ、ホ、ホ、ホ、結構ですわ」
「ワーッ、今度は笑いやがった。変に気に入らねえ女だなあ」源介はすっかりウンザリした。
すると、女がまた云った。
「妾《わたくし》、さっき、あなたの胸へ、一生懸命|縋《すが》り付きましたわね。その時よっく計りましたのよ。ええあなたのお体をね」
源介はピタリと足を止めた。そうして女をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。ズーンと何物かで脳天を、ぶち抜かれたような気持ちがした。
と、女は手を上げて、そこに立っていた巨大な屋敷の、黒板塀をトントンと打った。それが何かの合図と見えて、そこの切り戸がスーと開いた。
「主人の屋敷でございますの、お礼を致したいと存じます。どうぞおはいりくださいまし」
云いすてて女ははいって行った。
何んとも云われない芳香が、切り戸口から匂ってきた。源介にとっては誘惑であった。彼はその匂いに引き入れられるように、ブラブラと内へはいって行った。
間もなく彼の叫び声がした。
「やあ綺麗な花園だなあ」
それから後は寂然《しん》となった。
そうして源介はその夜限り、この地上から消えてしまった。彼の姿は未来|永劫《えいごう》、ふたたび人の眼に触れなかった。
「やあ綺麗な花園だなあ」
この彼の叫び声はいったいどういう意味なのであろう?
三
ここで再び物語は、鏡葉之助の身の上に返る。
ある日葉之助はいつものように、四国町の邸を出て、殿の下屋敷を警護するため、根岸の方へ歩いて行った。増上寺附近まで来た時であったが、「ヒーッ」という女の悲鳴がした。同時に山門の暗い蔭から、裾を乱した若い女が、彼の方へ走って来た。そうしてその後から二人の男が何か喚《わめ》きながら走って来たが、葉之助の姿を見て取ると元来た方へ引っ返した。
「ははあ、さては狼藉者《ろうぜきもの》だな」
呟いたとたんに若い女は犇《ひし》と葉之助へ縋り付いた。衣裳も髪も乱れてはいたが、薄月の光に隙《す》かして見ると、並々ならぬ美しさをその女は持っていた。
「お助けくださりませ、お助けくださりませ!」喘《あえ》ぎながらこう云うと、女は葉之助を撫で廻した。
「しっかりなされ、大丈夫でござる」葉之助は女を慰めた。「狼藉をされはしませぬかな?」
「あぶないところでございました。ちょうどお姿が見えましたので、やっとモギ放して逃げましたものの、そうでなかったら今頃は、……おお恐ろしい恐ろしい!」女はブルブル身を顫わせたが、「お送りなされてくださりませ! お送りなされてくださりませ! いまの悪者が取って返し、襲って参ろうも知れませぬ。つい近くでございます。お送りなされてくださりませ!」取り付いた手を放そうともしない。
「よろしゅうござる、お送りしましょう」葉之助は女を掻いやった。「で、家はどの辺かな?」
「愛宕下でございます」女は髪をつくろっ[#「つくろっ」に傍点]た。
「愛宕下ならツイ眼の先、さあ、おいでなさるがよい」云い云い葉之助は先に立ち、その方角へ足を向けた。
「それはマアマア有難いことで、もう大丈夫でございます」
「若い女子がこんな深夜に、一人で歩くということは、無考えの上にちと[#「ちと」に傍点]大胆、今後は注意なさるがよい」
若い女を助けながら、家まで送るということが、葉之助にはちょっと得意であった。まして女は美人である。そうしてひたすら[#「ひたすら」に傍点]縋り付いてくる。彼は多少快感さえ感じた。
しかし女が立ち止まり、「ここが邸でございます。主人からもお礼を申させます。どうぞお立ち寄りくださいまし」と、一軒の屋敷を指さした時には、喫驚《びっく》りせざるを得なかった。と云うのはその屋敷が、敵と目差している蘭学医の玄卿の屋敷であったからである。
「おおこれは玄卿殿の住居、それではそなたはこの屋敷の……」
「ハイ小間使いでございます。どうぞどうぞお立ち寄りを」女は袖を放さなかった。
そこで葉之助は考えた。
「この屋敷へ入り込むのは、虎穴《こけつ》へ入ると同じだが、そういう冒険をしなかった日には、虎児を獲《え》ることはむずかしい[#「むずかしい」に傍点]。それにこっちでは玄卿めを、敵と目差してはいるものの、先方ではまだまだ知らない筈だ。こういう機会に敵地へ入り込み、様子を探っておいたならまたよいこともあるだろう。それに俺《わし》は玄卿をこれまで一度も見たことがない。これをしお[#「しお」に傍点]に行き会って、人物を見抜くのも一興である」
そこで葉之助は云われるままに、木戸を潜ることにした。
四
女がコツコツと戸を叩くと、内側へスーと切り戸があいた。プーッと匂って来る快い匂い、まず葉之助の心をさらった[#「さらった」に傍点]。
はてな[#「はてな」に傍点]と思いながらはいったとたん、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声を上げた。
黒い高塀に囲まれているので、往来からは見えなかったが、庭一面に草花が爛漫《らんまん》と咲き乱れているのであった。
「これは綺麗な花園でござるな」感嘆して立ち止まった。
するとその時|園丁《えんてい》と見えて、鋤《すき》を担いだ大男が花を分けて現われたが、二人の姿をチラリと見ると逃げるように隠れ去った。
「咽《む》せ返るようなよい匂いだ」葉之助は幾度も深呼吸をしたが、「これは何んという花でござるな?」
「大茴香《おおういきょう》でございます」
「おおこれが茴香《ういきょう》か。ふうむ、実に見事なものだ。茴香といえば高価な薬草、さすが大槻玄卿殿は、当代名誉の大医だけあって、立派な薬草園を持っておられる」
さすがの葉之助も感心して、園に添って歩いて行った。すると一箇所一間四方ぐらい、その茴香の花園が枯れ凋《しぼ》んでいる箇所へ来た。
「これはどうも勿体《もったい》ない。茴香が枯れておりますな」葉之助は立ち止まった。
「はい主人も心配して、恢復策を講じますものの、一旦枯れかかった茴香は、容易なことでは生き返らず、こまっておるのでございます」女はこう云いながら耳を澄ました。どこかで地面を掘っている。鋤にあたる小石の音が、コチンコチンと聞こえて来る。
薬草園を通り過ぎると、館の裏座敷の前へ出た。明るい灯火《ともしび》が障子に映え、人の話し声も聞こえている。
「さあどうぞお上がり遊ばしませ」
云いながら女が先に上がり、スラリと障子を引きあけた。何んとなく身の締まる思いがして、葉之助は一瞬間|躊躇《ちゅうちょ》したが、覚悟をして来たことではあり、性来無双の大胆者ではあり云われるままに座敷へ上がった。
「しばらくご免を」と挨拶をし女は奥へ引き込んだ。
敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。丸行灯《まるあんどん》が灯《とも》っていた。火光が鋭く青いのは在来の油灯とは異《ちが》うらしい。待つ間ほどなく現われたのは、剃り立ての坊主頭の被布《ひふ》を纏《まと》った肥大漢で、年は五十を過ぎているらしく、銅色をした大きな顔は膏切《あぶらぎ》ってテカテカ光っている。
「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、傲岸不遜《ごうがんふそん》の人間と見え、床の間を背にして坐ったものである。
「家人をお助けくだされた由《よし》、あれは小間使いとはいうものの、愚妻の縁辺でござってな、血筋の通った親類|端《はじ》、ようお助けくだされた。玄卿お礼を申しますじゃ」それでも一通りの礼は云った。
「拙者は鏡葉之助、内藤駿河守の家臣でござるが。ナニ助けたと申し条、ただちょっと通りかかったまで、そのご挨拶では痛み入る」葉之助も傲然と云った。「こんな坊主に負けるものか!」こういう腹があったからである。
「ほほう、内藤家の鏡氏、いやそれはご名門だ。お噂は兼々《かねがね》存じております。実は愚老は内藤様ご舎弟、森帯刀様へはお出入り致し、ご恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》っておりますもの、これはこれはさようでござったか」
玄卿も相手が葉之助と聞いて、にわかに慇懃《いんぎん》な態度となった。
その時小間使いが現われたが、それは別の小間使いであった。片手に錫《すず》製の湯差しを持ちもう一つの手に盆を持っていたが、その盆の上には二つの茶碗と、小さな茶漉《ちゃこ》しとが置いてあった。そうして砂糖|壺《つぼ》とが置いてあった。
「うん、よろしい、そこへ置け」こう云って玄卿は頤《あご》をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]。
「いやナニ鏡葉之助殿、これは南蛮茶と申しましてな、日本ではめった[#「めった」に傍点]に得られないもの、たいして美味でもござらぬが、珍らしいのが取柄《とりえ》でござる」
こう云いながら玄卿は、湯差しを手ずから取り上げると、茶漉しの上から茶碗の中へ深紅の液を注ぎ込んだ。それから匙《さじ》で砂糖を入れた。
「まず拙者お毒味を致す」
こう云うと一つの茶碗を取り上げ、半分ばかりグッと呑んだ。
「温《ぬる》加減もまず上等、いざお験《ため》しくださいますよう」
「さようでござるかな、これは珍味」
葉之助は茶碗を取り上げたが、そこでちょっとためらった[#「ためらった」に傍点]。
五
茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを躊躇《ちゅうちょ》したのは、当然なことと云わなければならない。
「評判のよくない大槻玄卿、どんなものをくれるか解るものか」つまり彼はこう思ったのであった。
玄卿はすると[#「すると」に傍点]ニヤリと笑った。
「いや鏡葉之助殿、愚老毒などは差し上げません。どうぞ安心してお試《ため》しくだされ」
図星を差されたものである。
「とんでもないこと、どう致しまして」
葉之助は苦笑したが、今はのっ[#「のっ」に傍点]引きならなかった。で、一息にグーと飲んだ。日本の緑茶とは趣きの異った、強い香りの甘渋い味の、なかなか結構な飲み物であった。
「珍味珍味」と葉之助は、お世辞でなくて本当に褒《ほ》めた。
「産まれて初めての南蛮紅茶舌の正月を致してござる」
「お気に叶《かな》って本望でござる。いかがかな、もう一杯?」
「いや、もはや充分でござる」
葉之助は辞退した。
「さようでござるかな。お強《し》いは致さぬ」
で玄卿は茶器を片付けた。
それから二つ三つ話があった。
と、葉之助は次第次第に引き入れられるように眠くなった。
「これはおかしい」とこう思った時には、全身へ痲痺《まひ》が行き渡っていた。
「ううむ、やっぱり毒であったか!」
葉之助は切歯した。それから刀を抜こうとした。ただ心があせる[#「あせる」に傍点]ばかりで手が云うことを聞かなかった。
「残念!」と彼は喚くように云った。しかし言葉は出なかった。ただそう云ったと思ったばかりで、その実言葉は舌の先からちょっとも外へは出なかった。
彼は前ノメリに倒れてしまった。
しかしそれでも意識はあった。
それから起こった出来事を、彼はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]覚えていた。
……まず二、三人の男の手が、彼を宙へ舁《か》き上げた。……縁から庭へ下ろされたらしい。……穴を掘るような音がした。……と、提灯《ちょうちん》の灯が見えた。……茴香《ういきょう》畑が見えて来た。……花が空を向いていた。……一人の男が穴を掘っていた。……大きな穴の口が見えた。……彼はその中へ入れられた。……バラバラと土が落ちて来た。……おお彼は埋められるのであった。……もう何んにも見えなかった。サーッと土が落ちて来た。……顔の上へも胸の上へも、手へも足へも土が溜った。……次第に重さを感じて来た。……そうして次第に呼吸《いき》苦しくなった。……「俺は死ぬのだ! 俺は死ぬのだ!」葉之助は穴の中で、観念しながら呟いた。
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