むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間にかどわかさ[#「かどわかさ」に傍点]れたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》を奪い取り、私どもをして神の怒りに触れしめたのでございます。そのため私達は山を下り、厭《いや》な下界を流浪し歩き、こんな香具師《やし》のような真似までして、厭な下界人の機嫌を取り、生活《くら》して行かなければならないという、憐れはかない身の上に成り下ってしまったのでございます」
「態《ざま》あ見ろ! いい気味だ!」
また群集は湧き立った。
「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰|覿面《てきめん》、恐ろしいかな! 恐ろしいかな! で、復讐をとげると同時に、私どもは下界を棄《す》て、再び魔人の住む所、八ヶ嶽山上へ取って返し、平和と自由の生活を、送るつもりでございます。自然下界の皆様方とも、お別れしなければなりません。そのお別れも数日の間に逼《せま》っているのでございます。アラ嬉しやアラ嬉しや! ついては今日は特別をもって、我ら窩人がいかに勇猛で、そうしていかに野生的であるかを、お眼にかけることに致しましょう。我らにとって熊や猪は、仲のよい友達でございます。その仲のよい友達同士が、相《あい》搏《う》ち相《あい》戯《たわむ》れる光景は必ず馬鹿者の下界人にも、興味あることでございましょう。実に下界人の馬鹿たるや、真に度しがたいものであって……」
「引っ込め、爺《じじい》」
と見物は、今や総立ちになろうとした。
と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。
「さあ出て来い、岩太郎!」
「応!」
と返辞《いらえ》る声がしたが、忽《たちま》ち一個の壮漢が、颯《さっ》と舞台へ躍り出た。年の頃は四十五、六、腰に毛皮を巻きつけたばかり、後は隆々たる筋肉を、惜し気もなく露出《むきだ》していたが、胸幅広く肩うずたかく、身長《せい》の高さは五尺八寸もあろうか、肌の色は桃色をなし、むしろ少年を想わせる。
「や!」
と叫ぶと檻《おり》の戸をムズと両手でひっ[#「ひっ」に傍点]掴《つか》んだ。
江戸市中狂乱の巻
一
浅草奥山の見世物小屋から、葉之助は邸へ帰って来た。
意外の人が待っていた。
蘭医天野北山と弟子の前田一学とが客間に控えていたのであった。
「おお、これは北山先生」
葉之助は喜んで一礼した。
「前田氏にもよう見えられた」
「葉之助殿、出て来ましたよ」北山はいつに[#「いつに」に傍点]なく性急に、「さて早速申し上げる、先日はお手紙と不思議の白粉《はくふん》、よくお送りくだされた。まずもってお礼申し上げる。しかるにお送りの該《がい》白粉、とんと性質が解らなくてな」
「ははあ、さようでございますか」葉之助は案外だというように、「先生ほどの大医にも、お解りにならないとは不思議千万」
「いや私《わし》もガッカリした。そうしてひどく[#「ひどく」に傍点]悲観した。と云ってどうもうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない。で、私は一学を連れ、倉皇《そうこう》として出て来たのだ。……そこで私は一学を玄卿《げんきょう》の邸へ住み込ませようと思う」
「ははあ、それでは先生には、大槻玄卿が怪しいと、こう覚《おぼ》し召し遊ばすので?」
「さよう、怪しく思われてな」北山はしばらく打ち案じたが、「卒直に云うとまずこうだ。……金一郎様のご他界は、内藤家におけるお家騒動の、犠牲というに他ならぬ。そうして騒動の元兇は、これは少しく畏《おそ》れ多いが殿のご舎弟|帯刀《たてわき》様だ。……いやいやこれには理由がある。しかしそれはゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と云おう。ところで二人の相棒がある。玄卿と大鳥井紋兵衛だ。紋兵衛が相棒だということは、実はお前さんの手紙によって想像をしたに過ぎないが、いやあいつの性質から云えばそんなこと[#「そんなこと」に傍点]もやり兼ねない。どだいあいつの素姓なるものが甚《はなは》だもって怪しいのだからな。どうしてあれほど[#「あれほど」に傍点]金を作ったかも、疑えば疑われる節《ふし》がある。それに第一そんな深夜に、ひとりこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠に乗って、大槻の屋敷を訪ねた帰路、帯刀様のお屋敷に寄り、その晩若君金一郎様が、ご変死なされたとあって見れば、相棒と見てよろしかろう、相棒というのが不穏当《ふおんとう》なら、関係があると云ってもよい。ところで肝腎《かんじん》の白粉だが、これはどうやら[#「どうやら」に傍点]毒薬らしい。もっとも森家と内藤家とは相当距離がへだたっているのに、その二軒の屋敷を繋いでこの白粉が一直線に、地面に撒《ま》かれてあったということから、ちと毒薬にしては変なところもある。うん、どうもこれは少し変だ。毒薬を地面へふり[#「ふり」に傍点]撒いたところで人の命は取られるものでない。が、どっちみちこの白粉が怪しいものには相違ない。そうしてお前さんの手紙によると、この白粉の筋道に添って、ちょうど美妙《びみょう》な笛のような音が聞こえて来たということであるが、それは今のところ解らない。だがしかしそれらのことも白粉の性質さえ解ったなら、自《おのずか》ら明瞭になるだろう。とまれこういう不思議な白粉を、造り出すことの出来る者は、大槻玄卿以外には、少くも江戸にはない筈だ。と云うことであって見れば、何をおいても玄卿の家へ、人を入れて様子を探らせ、薬局を調べる必要がある。ところで私と玄卿とは同業であり顔見知りだ。だから到底住み込むことは出来ない。幸い一学は玄卿とはこれまで一面の識もない。そこで一学を住み込ませ、至急様子を探らせようと思う。グズグズしてはいられない、うっかりノホホンでいようものなら、ご次男様がまたやられる」
「えっ?」
と葉之助は眼を見張った。
「ご次男と申せば金二郎様、それがやられる[#「やられる」に傍点]とおっしゃるのは?」
「やられるともやられるとも。油断をすると今夜にもやられる」北山はキッと眼を据えたが、「あいつらの目的とするところは、内藤家乗っ取りの陰謀だからな、ご長男様ご次男様、お二人がなくなられるとお世継ぎがない。そこで帯刀様が乗り込んで来られる。どうだ、これで胸に落ちたろう」
云われて葉之助は「ムー」と呻いた。
「いやそれほどの陰謀とは、私夢にも存じませなんだ。これは一刻の油断も出来ない。恐ろしいことでございますな。……」
「人の世は全く恐ろしいよ。さて今度は私《わし》の番だが、殿にはお目通りをしないつもりだ。と云うのは他でもない。私が出府をしたと聞いたら真っ先に玄卿めが用心をしよう。連れて紋兵衛も帯刀様も、手控えするに違いない。そうなったらお終いだ。陰謀の手証《てしょう》を掴むことができない」
「これはごもっともでございますな。それでは手狭でも私の家に、こっそりお在《い》で遊ばしては」
「いやいやそれも妙策でない。人の出入りもあろうから、どうで知れずには済まされぬ。それより私《わし》は町方に住んで、自由に活動するつもりだ。ところでお前さんに頼みがある。ご迷惑でも今夜から、下屋敷の方へ出張ってくだされ。そうして例の白粉がもしも地面に撒いてあったら、用捨なく足で蹴散らしてくだされ。これは非常に大切なことだ」
「かしこまりましてござります。毎晩出張ることに致しましょう」
葉之助は意気込んで引受けた。
二
北山と一学とは人目を憚《はばか》り、駕籠でこっそり帰った。そうしてどこへ行ったものか、しばらく消息が解らなかった。
さてここで物語は少しく別の方へ移らなければならない。
ここは寂しい宇田川町、夜がしんしん[#「しんしん」に傍点]と更けていた。
源介という駕籠舁《かごか》きが、いずれ濁酒《どぶろく》でも飲んだのであろう、秋だというのに下帯一つ、いいご機嫌で歩いていた。
「金は天下の廻りもの、今日はなくても明日はある。アーコリャコリャ。アコリャコリャ」
こんなことを云いながら歩いていた。
と、手近の行手から女の悲鳴が聞こえて来た。
「へへへ、どいつかやってやがるな。アレーと来りゃこっちのものだ。こいつ見|遁《の》がしてたまるものか。どれどれ」と云うとよろめく足で、声のした方へ走って行った。
はたして小広い空地の中で、二人の男が一人の女を、中へ取りこめて揉み合っていた。
「やい、こん畜生! 悪い奴だ!」
源介は濁声《だみごえ》で一喝した。「ところもあろうに江戸の真ん中で、女|悪戯《てんごう》とは何事だ、鯨《くじら》の源介が承知ならねえ! 俺の縄張りを荒らしやがって、いいかげんにしろ、いいかげんにしろ!」
この気勢に驚いたものか、ワーッというと二人の男は、空地を突っ切って逃げ出した。
「態《ざま》ア見やがれ意気地《いくじ》なしめ! 驚いたと見えて逃げやがった」
云い云い女に近付いて行った。
と、倒れていた若い女は、周章《あわ》ててムックリ起き上ったが、源介の胸にすがり付いた。髪の毛が頬に乱れている。帯が緩《ゆる》んで衣裳が崩れ、夜目にも燃え立つ緋《ひ》の蹴出《けだ》しが、白い脛《すね》にまつわっている。年の頃は十八、九、恐怖で顔は蒼褪《あおざ》めていたが、それがまた素晴らしく美しい、お屋敷風の娘であった。
しばらくは口も利けないと見えて、ワナワナ体を顫わせるばかり、源介の胸へしがみ付いている。
源介の魂は宙へ飛んだ。で、むやみと口嘗《くちな》めずりをした。「こ、こ、こいつア悪かあねえなあ。ううん偉いものが飛び込んで来たぞ。まず俺の物にして置いて、品川へでも嵌《は》めりゃあ五十両だ」
こう思ったそのとたん、女はヒョイと胸から離れ、まず衣裳の乱れを調《ととの》え、それから丁寧《ていねい》に辞儀をした。
「あぶないところをお助けくだされ、何んとお礼を申してよいやら、ほんとに有難う存じました」
切り口上で礼を云った。
「へえ、ナーニ、どう致しやして。でもマア怪我《けが》もなかったようで、いったいどうしたと云うんですえ?」
相手に真面目に出られたので、つい源介も真面目に云った。
「はい、ちょっと主人の用事で、新銭座の方まで参りましたところ後から従《つ》けて来た悪者に、……」
「ナール、空地でとっ[#「とっ」に傍点]捉まえられたんだね。で、お家はどこですえ?」
「はいツイそこの愛宕下で。……あのまことに申し兼ねますが、お助けくだされたおついで[#「おついで」に傍点]に、お送りなされてはくださいますまいか」
「またさっきの悪い奴が追っかけて来ねえものでもねえ、ようごす、送ってあげやしょう」
こうは云ったが源介は、腹の中では舌打ちをした。「どうもこいつア駄目らしいぞ。これが下町の娘っ子なら、たらし[#「たらし」に傍点]て宿へも連れ込めるが、山の手のお屋敷風、さようしからばの切り口上じゃ、ちょっとどうも手が出ねえ。物にするなあ諦めて、お礼でもしこたま[#「しこたま」に傍点]貰うとしよう」
「じゃ姐《ねえ》さん行こうかね」こう云って源介は歩き出した。
「それではお送りくださいますので、それはマア有難う存じます」云い云い女は並んで歩いた。
柴井町から露月町、日蔭町まで来た時であったが、
「まあいいお体格でございますこと」不意に女がこう云った。
「え?」と源介は女を見たが、早速には意味が解らなかった。「なんですえ、体格とは?」
「あなたのお体でございますわ」
「ナーンだ篦棒《べらぼう》、体のことか」源介は変に苦笑したが、
「体が資本《もとで》の駕籠屋商売、そりゃあ少しはよくなくてはね」
「ずいぶんお目方もございましょうね?」
「へえ」と云ったが源介は、裏切られたような気持ちがした。
「ほんとに何んだいこの女は! あぶなく酷い目に逢いかか
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