秘密だが、お前にだけ話すことにしよう。この前の参覲交替の節、俺も殿のお供をして、江戸へ参ったことがある。するとある日帯刀様から、使いが来て招かれた」
「ははあ、さようでございますか」
「で早速|伺候《しこう》した」
「面白いお話でもございましたかな?」
「ところが一人相客がいた」
「ははあどなたでございましたな?」
「江戸の有名な蘭学医、お前も名ぐらいは知っていよう、大槻玄卿という人物だ」
一一
「はい、よく名前は承知しております」
「帯刀様のご様子を見ると、大分《だいぶ》玄卿とはご懇意らしい。だがマアそれはよいとして、さてその時の話だが、物騒な方面へ及んだものさ。と云うのは他《ほか》でもない、毒薬の話に花が咲いたのさ。どんな毒薬で人を殺したら、後に痕跡《きずあと》が残らないかなどとな」
「なるほど、これは物騒で」
「で俺はいい加減にして、お暇《いとま》をして帰ったが、いい気持ちはしなかったよ」北山はしばらく黙ったが、「俺の云うお家騒動の意味、どうだこれでも解らないかな」
「ハイ、どうやら朧気《おぼろげ》ながらも解ったようでございます」一学は初めて頷いた。
「で俺は案じるのだ、どうぞご次男金二郎様に、もしも[#「もしも」に傍点]のことがないようにとな」
「これは心配でございますな」
「今度の江戸の事件について、誰かもっと詳しいことを知らせてくれるものはあるまいかと、心待ちに待っているのだがな」
その時、襖が静かにあき小間使いが顔を現わした。
「江戸からのお飛脚《ひきゃく》でございます」
「江戸からの飛脚? おおそうか。いや有難い。待っていたのだ。すぐ裏庭へ通すよう」
「かしこまりましてございます」
小間使いが去ったその後で、天野北山は立ち上がった。さて裏縁へ来て見ると、見覚えのある鏡家の若党山岸佐平がかしこまって[#「かしこまって」に傍点]いた。
「佐平ではないか。ご苦労ご苦労」
「はっ」と云うと進み寄り、懐中《ふところ》から書面を取り出したが、
「私主人葉之助より、密々先生に差し上げるようにと、預かり参りましたこの書面、どうぞご覧くださいますよう」
「おおそうか、拝見しよう」
「次に」と云いながら山岸佐平は、また懐中へ手をやると小さい包みを取り出したが、「これも主人より預かりましたもの、共々《ともども》ご披見くださいますよう」
「そうであったか、ご苦労ご苦労、疲労《つか》れたであろう、休息するよう」
云いすてて置いて北山は、自分の部屋へつと[#「つと」に傍点]はいった。
書面をひらいて読み下すと、次のような意味のことが書いてあった。
[#ここから2字下げ]
「前略、とり急ぎしたため申し候《そうろう》、さて今回金一郎様、不慮のことにてご他界遊ばされ、君臣一同|愁嘆至極《しゅうたんしごく》、なんと申してよろしきや、適当の言葉もござなく候、しかるに当夜私事、偶然のこととは云いながら、二、三怪しき事件に逢い、疑惑容易に解《と》き難きについては、先生のご意見承わりたく、左に列記|仕《つかまつ》り候。
当日、私非番のため、家を出でて市中を彷徨《さまよ》い、深夜に至りて帰路につき、愛宕下まで参りしおりから、蘭医大槻玄卿邸の、裏門にあたって一挺の駕籠、忍ぶが如くに下ろされおり、何気なく見れば一人の老人まさにその駕籠に乗らんとす。しかるに全く意外にも該《がい》老人こそ余人ならず、先生にもご存知の大鳥井紋兵衛、これは怪しと存ぜしまま後を慕って参りしところ、紋兵衛の駕籠は根岸に入り我らが主君には実のご舎弟、帯刀様のお屋敷内へ、姿を隠し申し候、誠に奇怪とは存じながら、せんすべなければ立ち帰らんと、歩みを移せしそのおりから、忽《たちま》ち前面の草原にあたり、あたかも笛を吹くがようなる美妙《びみょう》な音色湧き起こり、瞬間にして消え候さえ、合点ゆかざる怪事なるに、草原を見れば白粉《おしろい》ようなる純白の粉長々と、帯刀様のお屋敷より、我らがご主君の下屋敷まで、一筋筋を引きおり候。
いよいよ怪しと存ぜしまま、その白粉《はくふん》を摘み取り、自宅へ持ち帰り候が、別封をもってお眼にかけし物こそ、その白粉にござ候。
かくて翌日と相成るや、金一郎様の変死あり、何んとももって合点ゆかず、異様の感に打たれ候ものから、貴意を得る次第に候が、白粉《おしろい》ようなる白粉《はくふん》につき、厳重なるお調べ願いたくいかがのものに候や。下略」
[#ここで字下げ終わり]
「ふうむ、いかさま、これは怪しい」
読んでしまうと北山は、じっと思案の首を傾げた。それからやおら[#「やおら」に傍点]立ち上がると、実験室へはいって行った。
まず部屋の戸をしっかりと閉じ、次に火器へ火を点じた。それから葉之助から送って来た油紙包みの紐を切り、ついで取り出した白粉を、鼻にあてて静かに嗅いだ。
「匂いがする。変な匂いだ」そこでしばらく考えたが、「なんの匂いとも解らない」
それから立ち上がると棚へ行き、試験管を引き出した。白粉を入れて水を注ぎ、さらにその中へ入れたのは紫色をした液体であった。
で、試験管を火にあてた。
しかし何んの反応もない。
「これはいけない。ではこっちだな」
こう云うと彼は他の薬品を、改めて試験管へ注ぎ込んだ。
で、またそれ[#「それ」に傍点]を火にかけた。
やはり何んの反応もない。
北山の顔には何んとも云えない、疑惑の情が現われたが、どうやら彼ほどの蘭学医でも、白粉の性質が解らないらしい。
一二
しかし天野北山としては、解らないと云ってうっちゃる[#「うっちゃる」に傍点]ことは、どうにもこの際出来難かった。
「お家騒動の張本人を、森帯刀様と仮定すると、その連累《れんるい》が大鳥井紋兵衛、それから大槻玄卿なる者は、日本有数の蘭学医、信州の天野か江戸の大槻かと呼ばれ、俺と並称《へいしょう》されている。いずれここにある白粉《はくふん》も、その大槻が呈供して金一郎様殺しの怪事件に、役立てたものに相違あるまい。毒薬かそれとも他の物か、とまれ尋常なものではあるまい。しかるにそれが解らないとあっては、この北山面目が立たぬ。これはどうでも目付け出さなければならない」
しかしあせれ[#「あせれ」に傍点]ばあせる[#「あせる」に傍点]ほど、白粉の見当が付かなかった。
「これはこうしてはいられない。江戸へ出よう江戸へ出よう。そうして大槻と直《じ》かに逢うか、ないしは他の手段を講じて、是が非でも白粉の性質を、一日も早く目付け出さなければならない。……一学一学ちょっと参れ!」
「はっ」と云うと前田一学は、もっけ[#「もっけ」に傍点]な顔をしてはいって来た。
「江戸行きだ、用意せい」
「江戸行き? これは、どうしたことで?」
「お前も行くのだ。急げ急げ!」
主人の性急な性質は、よく一学には解っていた。で、理由を訊ねようともせず、旅行の用意に取りかかり、明日とも云わずその日のうちに、二人は高遠を発足した。
一方、鏡葉之助は、北山へ飛脚を出してからも、根岸にある主君の下屋敷を念頭から放すことは出来なかった。で、非番にあたる日などは、ほとんど終日下屋敷の附近を、ブラブラ彷徨《さまよ》って警戒した。
ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。
いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい賑《にぎ》わいで、奥山のあたりは肩摩轂撃《けんまこくげき》、歩きにくいほどであった。
小芝居、手品、見世物、軽業《かるわざ》、――興行物の掛け小屋からは、陽気な鳴り物の音が聞こえ、喝采《かっさい》をする見物人の、拍手の音なども聞こえて来た。
「悪くないな。陽気だな」
など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。
と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を刺戟《しげき》した。「八ヶ嶽の山男」こう看板にあったからで、八ヶ嶽という三文字が、懐しく思われてならなかった。
で彼は木戸を払いつと[#「つと」に傍点]内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く幕間《まくあい》で、舞台には幕が下ろされていた。で彼は所在なさに見物人達の噂話に、漫然と耳を傾けた。
「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。
「そいつで俺《おい》らも落胆《がっかり》したやつさ。あたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間じゃねえか。俺ら、山男というからにゃ、頭の髪が足まで垂れ、身長《せい》の高さが八尺もあって、鳴く声|鵺《ぬえ》に似たりという、そういう奴だと思ってたんだが、篦棒《べらぼう》な話さ、ただの人間だあ」
「そうは云ってもまんざら[#「まんざら」に傍点]じゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間|業《わざ》じゃねえ」
「あいつにゃ俺《おい》らも喫驚《びっく》りした。こう全然《まるで》猿猴《えてこう》だったからな」
「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような蟒《うわばみ》を、細工物のように扱った、あの腕だって大したものさ」
「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」
「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでもあたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間だあ、化物でねえから面白くねえ」
その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の背後《うしろ》から聞こえて来た。やがてスーッと幕が引かれ、舞台が一杯に現われたが、見れば舞台の真ん中に大きな鉄の檻《おり》があり、その中に巨大な熊がいた。
「ウワーッ、荒熊だ荒熊だ!」「熊と相撲を取るんだな」「見遁《みの》がせねえぞ見遁がせねえぞ!」見物は一度に喝采した。
と異様な風采をした一人の老人が現われた。
「あれいけねえ、お爺《とっ》つぁんだぜ」「いえ、あんな年寄りが、熊と相撲を取るのかね」「やめなよ爺つぁんあぶねえあぶねえ!」
などとまたもや見物は、大声をあげて喚き出した。
一三
しかし老人はビクともせず、悠然《ゆうぜん》と正面へ突っ立ったが、猪《しし》の皮の袖無しに、葛《くず》織りの山袴、一尺ばかりの脇差しを帯び、革足袋《かわたび》を穿《は》いた有様は、粗野ではあるが威厳あり、侮《あなど》り難く思われた。
で見物は次第に静まり、小屋の中は森然《しん》となった。
「ええ、ご見物の皆様方へ、熊相撲の始まる前に、お話ししたいことがございます」
不意の、錆《さび》のある大きな声で、こうその老人が云い出した時には、見物はちょっとびっくりした。
「他のことではございません」老人はすぐに後をつづけた。
「我々山男の身分について申し上げたいのでございます。私の名は杉右衛門、一座の頭でございます。一口に山男とは申しますが、これを正しく申しますと、窩人《かじん》なのでございます。そうして住居は信州諏訪、八ヶ嶽山中でございます。そうして祖先は宗介《むねすけ》と申して平安朝時代の城主であり、今でも魔界の天狗《てんぐ》として、どこかにいる筈でございます。本来我々窩人なるものは、あなた方一般の下界人達と、交際《まじわ》りをしないということが掟《おきて》となっておりますので、何故というに下界人は、悪者で嘘吐きでペテン師で、不親切者で薄っぺら[#「薄っぺら」に傍点]で、馬鹿で詐欺師《さぎし》で泥棒で、下等だからでございます……」
「黙れ!」
と突然|桟敷《さじき》から、怒鳴り付ける声が湧き起こった。
「何を吐《ぬ》かす、こん畜生! ふざけた事を吐かさねえものだ! あんまり酷《ひど》い悪口を云うと、この掛け小屋をぶち壊すぞ!」
「そうだそうだ!」と四方から、それに和する声がした。
「そんな下界が嫌いなら何故下界へ下りて来た!」
「それには訳がございます。それというのも下界人の、憎
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