ことが出来なかった。
「とにかく俺は大鳥井家へは絶対に足踏みをしないことにしよう。お露との恋も忘れよう」
 そうして彼はこの決心を強い意志で実行した。
 春が逝《ゆ》き尽くして初夏が来た。そうして真夏が来ようとした。
 参覲交替《さんきんこうたい》で駿河守は江戸へ行かなければならなかった。
 甲州街道五十三里を、大名行列いとも美々《びび》しく、江戸を指して発足したのは五月中旬のことであった。江戸における上屋敷は芝三田の四国町にあったが予定の日取りに少しも違《たが》わず一同首尾よく到着した。
 一行の中には葉之助もいた。彼にとっては江戸は初《はつ》で、見る物聞く物珍らしく、暇を見てはお長屋を出て市中の様子を見歩いた。
 夏が逝って初秋が来た。その頃紋兵衛とお露とが江戸見物にやって来た。芝は三田の寺町へ格好な家を一軒借りてこれも市中の見物に寧日《ねいじつ》ないという有様であった。しかし二人が江戸へ来たのには実に二つの理由があった。
 ふたたび葉之助が遠退《とおの》いてからのお露の煩悶《はんもん》というものは、紋兵衛の眼には気の毒で見ていることは出来なかった。葉之助が殿に従って江戸へ行ってしまってからは、彼女は病《やま》いの床についた。そうしてこのままうっちゃ[#「うっちゃ」に傍点]って置いたら死ぬより他はあるまいと、こう思われるほどとなった。
「葉之助殿のお在《い》でになる、江戸の土地へ連れて行ったら、あるいは気の晴れることもあろうか。そうして時々お目にかかったなら、病いも癒《なお》るに違いない」
 こう思って紋兵衛はお露を連れてこの大江戸へは来たのであった。
 それにもう一つ紋兵衛は、五千石の旗本で、駿河守には実の舎弟、森家へ養子に行ったところから、森|帯刀《たてわき》と呼ばれるお方から、密々に使者《つかい》を戴《いただ》いていたので、上京しなければならないのであった。
 この二人の上京は、実のところ葉之助にとっては、痛《いた》し痒《かゆ》しというところであった。彼は依然としてお露に対しては強い恋を感じていた。出逢って話すのは、もちろん非常に楽しかった。しかし同時に苦痛であった。呪詛《のろい》の言葉をどうしよう? 「畜生道! 畜生道!」「お殺しよその男を!」こう二の腕の人面疽《にんめんそ》が、嘲笑い囁《ささや》くのをどうしよう?

 それは非番の日であったが、葉之助は市中を歩き廻り、夜となってはじめて帰路についた。
 愛宕《あたご》下三丁目、当時世間に持て囃《はや》されていた、蘭医|大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷の裏門口まで来た時であったが、駕籠《かご》が一|挺《ちょう》下ろしてあった。と裏門がギーと開いて、中老人が現われた。見れば大鳥井紋兵衛であった。
「これは不思議」と思いながら、葉之助は素早く木蔭に隠れじっと様子を窺《うかが》った。
 それとも知らず紋兵衛は、手に小長い箱を持ち、フと[#「フと」に傍点]駕籠の中へはいって行った。と駕籠が宙に浮き、すぐシトシトと歩き出した。
「どんな用があって紋兵衛は、こんな深夜に裏門から蘭医などを訪ねたのであろう」
 こう思って来て葉之助は合点の行かない思いがした。そこで彼は駕籠の後をつけ[#「つけ」に傍点]て見ようと決心した。
 駕籠は深夜の江戸市中を東へ東へと進んで行った。これを今日の道順で云えば、愛宕町から桜田本郷へ出て内幸町《うちさいわいちょう》から日比谷公園、数寄屋橋から尾張町へ抜けそれをいつまでも東南へ進み、日本橋から東北に取り、須田町から上野公園、とズンズン進んで行ったのであった。さらにそれから紋兵衛の駕籠は根岸の方へ進んで行き、夜も明方と思われる頃、一宇《いちう》の立派な屋敷へ着いた。
「これはいったいどうしたことだ? 帯刀《たてわき》様の下屋敷ではないか」後をつけ[#「つけ」に傍点]て来た葉之助は、驚いて呟いたものである。

         九

 もう夜は明方ではあったけれど、しかし秋の夜のことである。なかなか明け切りはしなかった。
 駿河守の下屋敷は森帯刀家の下屋敷と半町あまり距《へだた》った同じ根岸の稲荷小路《いなりこうじ》にあったが、そこには愛妾のお石の方と、二人のご子息とが住居《すまい》していた。総領の方は金一郎様といい、奥方にお子様がないところから、ゆくゆくは内藤家を継ぐお方で、今年数え年十四歳、武芸の方はそうでもなかったが学問好きのお方であった。
 廊下をへだてて裏庭に向かった。善美を尽くしたお寝間には、仄《ほの》かに絹行灯《きぬあんどん》が点《とも》っていた。その光に照らされて、美々しい夜具《よのもの》が見えていたが、その夜具の襟《えり》を洩れて、上品な寝顔の見えるのは金一郎様が睡っておられるのであった。
 と、その時、きわめて幽《かす》かな、笛の音《ね》が聞こえて来た。いや笛ではなさそうだ。笛のような[#「ような」に傍点]物の音であった。耳を澄ませばそれかと思われ、耳を放せば消えてしまう。そういったような幽かな音で、それが漸次《だんだん》近寄って来た。しかしどこからやって来たのか、またどの辺へ近寄って来たのか、それは知ることが出来なかった。とまれ漸次その音は寝間へ近寄って来るらしい。
 金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。
 ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか?
 下屋敷の内には一人もなかった。
 しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。
 他でもない葉之助であった。
 その葉之助は駕籠をつけ[#「つけ」に傍点]てこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく茫然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて気が付くと足を返し、主君駿河守の下屋敷の方へ何心なく歩いて行った。
 駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た時であったが、幽かな幽かな笛のような[#「ような」に傍点]音が、彼の眼の前の地面を横切り、駿河守の下屋敷の方へ、走って行くのを耳にした。
「なんであろう?」と怪しみながら、彼はじっ[#「じっ」に傍点]と耳を澄ませ、その物の音に聞き入った。音は次第に遠ざかって行った。そうして間もなくすっかり消えた。
 なんとなく気味悪く思いながら彼は尚しばらく佇《たたず》んでいた。
「お、これは?」と呟くと、彼はツカツカ前へ進み、顔を低く地面へ付けた。と、地面に何物か白く光る物が落ちていた。そうしてそれは白糸のように一筋長く線を引き、帯刀家の下屋敷と、駿河守の下屋敷とを、一直線に繋《つな》いでいた。
「石灰《いしばい》かな?」と呟きながら、指に付けて嗅いで見て、彼はアッと声を上げた。強い臭気が鼻を刺し、脳の奥まで滲《し》み込んだからで、嘔吐《はきけ》を催させるその悪臭は、なんとも云えず不快であった。
 何か頷くと葉之助は、懐中《ふところ》から鼻紙を取り出したが指で摘《つま》んで白い粉を、念入りにその中へ摘《つま》み入れた。それから静かに帰路についた。

 その夜が明けて朝となった。
 いつも早起きの金一郎様が、その朝に限って起きて来ない。お附きの者は不審に思い、そっと襖《ふすま》を開けて見た。金一郎様は上半身を夜具の襟から抜け出させ、両手を虚空《こくう》でしっかり握り、眼を白く剥《む》いて死んでいた。
 これは実に内藤家にとって容易ならない打撃であった。世継ぎの若君が変死したとあっては、上《かみ》に対しても面伏《おもぶ》せである。
「何者の所業《しわざ》! どうして殺したのか?」
「突き傷もなければ切り傷もない」
「血一滴こぼれてもいない」
「毒殺らしい徴候もない」
「絞殺らしい証拠もない」
「奇怪な殺人、疑問の死」
 上屋敷でも下屋敷でも人々は不安そうに囁き合った。
 葉之助は自宅の一室で、鼻紙の中の白い粉を、睨むように見詰めていたが、
「若君|弑虐《しいぎゃく》の大秘密は、この粉の中になければならない」こう口の中で呟いた。
「笛のような美妙《びみょう》な音《ね》! 不思議だな、全く不思議だ! 何者の音であったろう?」

         一〇

 信州伊那郡高遠の城下、三の曲輪《くるわ》町の中ほどに、天野北山の邸があったが、ある日、北山とその弟子の、前田一学とが話し合っていた。
「先生、不思議ではございませんか」こう云ったのは一学で、「突き傷も斬り傷もないそうで」
「うん」と北山は腕を組んだが、「毒殺の嫌疑もないのだそうだ」
「心臓|痲痺《まひ》でもないそうで」
「絞殺の疑いもないのだそうだ」
「ではどうして逝去《なくな》られたのでしょう?」
「解らないよ。俺には解らぬ」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、しかし本来世の中には不思議ということはないのだがな。科学の光で照らしさえしたら、どんなことでも解る筈だ」
「ではどうして金一郎様は、お逝去《なくな》りなされたのでございましょう?」
「さあそれは、今は解らぬ」
「でも只今先生には、科学の光で照らしさえしたら、何んでも解るとおっしゃいましたが……」
「うん、そうとも、そう云ったよ。……金一郎様のお死骸《なきがら》を、親しく見ることが出来たなら、俺の奉ずる蘭医学をもって、きっと死因を確かめて見せる。だが俺は見ていない。変事の起こったのは江戸のお屋敷で、俺はお噂を聞いたまでだ。千里眼なら知らぬこと、江戸の事件は高遠では解らぬ」
「これはごもっともでございますな」一学はテレて苦笑をした。
「だが」とにわかに北山は、四辺を憚《はばか》る小声となったが、
「だが、俺には解ることがある」
「ははあ、何事でございますな?」
「この事件の目的だがな」
「金一郎様殺しの目的が?」
「一学! これはお家騒動だよ!」
「よく私には解りませんが」
「当家のお世継ぎはどなたであったな?」
「それは逝去《なくな》られた金一郎様で」
「金一郎様|逝去《な》き今は?」
「ご次男金二郎様でございましょうが?」
「金二郎様が逝去《なく》なられたら?」
「先生先生何をおっしゃるので! 甚《はなは》だもって不祥《ふしょう》なお言葉で」
「まあさ、これは仮定だよ。……金二郎様なき[#「なき」に傍点]後は誰が内藤家を継がれるな?」
「もう継ぐお方はございません」
「と云う意味は駿河守様には、お二人しかお子様がないからであろうな?」
「そういう意味でございます」
「しかしお世継ぎがないとあっては、内藤家は断絶する」
「大変なことでございますな」
「大変なことさ。とんでもないことさ。だからどうしても他の方面から、至急お世継ぎを持って来なければならない」
「ははあ、ご養子でございますかな?」
「うん、そうだ、ご近親からな。一番近しいご親戚からな」
「これは、ごもっともでございますな」
「ところがどなたが内藤家にとって一番近しいご親戚かな?」
「さあ」と云って考えたが、「森|帯刀《たてわき》様でございましょう」
「そうだよそうだよ、森帯刀様だよ」
 こう云うと北山は微妙に笑ったが、
「どうだ」とやがて促《うなが》すように云った。「解ったかな? お家騒動の意味が?」
「はい。しかし、どうも私には……」
「おやおや、これでも解らないのか?」
「とんと合点《がてん》がゆきません」
「頭が悪いな。え、一学」
「私の馬鹿は昔からで」
「それが今日は特に悪い」
「いやはやどうも、お口の悪いことで」
「お前、今日は、便秘だろう?」
「いえ、そうでもございません」
「なあに、そうだよ、便秘に相違ない」
「これはまたなぜでございますな」
「便秘だと頭が悪くなる」
「あッ、やっぱり、そこへ行きますので」
「ひまし[#「ひまし」に傍点]油を飲めよ。ひまし[#「ひまし」に傍点]油を」
「仕方がありません、飲むことにしましょう」
「アッハハハ、それがいい」
 面白そうに笑ったが、にわかに北山は真面目になり、
「これは少しく
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