すものは、初恋の人の心である。それを彼は抑えられた。
 鏡葉之助はその時以来|怏々《おうおう》として楽しまなかった。自然心が欝《うっ》せざるを得ない。
 欝した心を欝しさせたままいつまでも放抛《うっちゃ》って置く時は、おおかたの人は狂暴となる。
 葉之助の心が日一日、荒々しいものに変わって行ったのは、止むを得ないことである。彼は時に幻覚を見た。また往々「変な声」を聞いた。
「永久安穏はあるまいぞよ!」その変な声はどこからともなくこう彼に呼び掛けた。気味の悪い声であった。主のない声であった。
 そうしてそれは怨恨《うらみ》に充ちた哀切|凄愴《せいそう》たる声でもあった。
 そうして彼はその声に聞き覚えあるような気持ちがした。
 この言葉に嘘はなかった。実際彼は日一日と心に不安を覚えるようになった。心の片隅に小鬼でもいて、それが鋭い爪の先で彼の心を引っ掻くかのような、いても立ってもいられないような変な焦燥《しょうそう》を覚えるのであった。事実彼の心からいつか安穏は取り去られていた。
「どうしたのだろう? 不思議な事だ」
 彼にとっても、この事実は不思議と云わざるを得なかった。
 で、意志の力をもって、得体の知れないこの不安を圧伏しようと心掛けた。しかしそれは無駄であった。
「何物か俺を呪詛《のろ》っているな」
 ついに彼はこの点に思い到らざるを得なかった。
「たしかに、あの[#「あの」に傍点]声には聞き覚えがある。……おおそうだ、久田の声だ!」
 正にそれに相違なかった。水狐族の長《おさ》の久田の姥《うば》の怨念の声に相違なかった。
 久田の姥の怨念は、ただこれだけでは済まなかった。
 間もなく恐ろしい事件が起こった。そうしてそれが葉之助の身を破滅の淵へぶち[#「ぶち」に傍点]込んだ。

 ある夜、書見に耽《ふけ》っていた。
 と例の声が聞こえて来た。
 にわかに心が掻き乱れ坐っていることが出来なくなった。
 で、戸を開けて外へ出た。秋の終り冬の初めの、それは名月の夜であったが、彼はフラフラと歩いて行った。
 主水町《かこまち》を過ぎ片羽通りを通り、大津町まで来た時であったが、一個黒衣の大入道が彼の前を歩いて行った。
 どうしたものかその入道を見ると、葉之助はゾッと悪寒《おかん》を感じた。
「いよいよ現われたな黒法師めが! こいつ悪玉に相違ない!」こう思ったからであった。
 ムラムラと殺気が萌《きざ》して来た。で彼は足音を盗み、そっと入道へ近寄った。
 声も掛けず抜き打ちに背後からザックリ斬り付けたのはその次の瞬間のことであった。と、ワッという悲鳴が起こり、静かな夜気を顫わせたが、見れば地上に一人の老人が、左の肩から右の胴まで物の見事に割り付けられ、朱《あけ》に染まって斃《たお》れていた。
「や、これは黒法師ではない。これは城下の町人だ」
 葉之助はハッと仰天《ぎょうてん》したが、今となってはどうすることも出来ない。
 しかるにここに奇怪な事が彼の心中に湧き起こった。……老人を斬った瞬間に、彼の心中にトグロを巻いていた不安と焦燥が消えたことである。……彼の頭は玲瓏《れいろう》と澄み、形容に絶した快感がそれと同時に油然と湧いた。
 飼い慣らされた猛獣が、血の味を知ったら大変である。原始的性格の葉之助が殺人《ひとごろし》の味を知ったことは、それより一層危険な事である。
 のみならずここにもう一つ奇怪な現象が行われた。
 それは彼が殺人をしたその翌朝のことであったが、床から起き出た彼を見ると、母親のお石が叫ぶように云った。
「お前、いつもと顔が異《ちが》うね」
「本当ですか? どうしたのでしょう」
 で、葉之助は鏡を見た。なるほど、いささか異っている。白い顔色が益※[#二の字点、1−2−22]白く、黒い瞳がいよいよ黒く、赤い唇が一層赤く、いつもの彼よりより[#「より」に傍点]一層美しくもあれば気高くもある、一個|窈窕《ようちょう》たる美少年が、鏡の奥に写っていた。
 思わず葉之助は唸ったものである。それから呟いたものである。
「不思議だ、不思議だ、何んということだ」
 ……が、決して不思議ではない。何んのこれが不思議なものか。
 美しい犬へ肉をくれると、より一層美しくなる。死骸から咲き出た草花は、他の草花より美しい。
 人を殺して血を浴びた彼が、美しくなったのは当然である。

         四

 二度目に人を斬ったのは、陽の当たっている白昼《まひる》であった。
 その日彼は山手の方へ的《あて》もなくブラブラ歩いて行った。茂みで鳥が啼いていた。野茨《のいばら》の赤い実が珠をつづり草の間では虫が鳴《すだ》いていた。ひどく気持ちのよい日和《ひより》であった。
 と行手の峠道へポツリ人影が現われたが、長い芒《すすき》の穂をわけて次第にこっちへ近寄って来た。見るとそれは黒法師であった。それと知った葉之助は思案せざるを得なかった。
「幻覚かな? 本物かな?」
 その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。
 その時例の声が聞こえて来た。
「永久安穏はあるまいぞよ」
 ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。
 で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。
 陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に晒《さ》らされているのは若い女の死骸であった。
「うむ、やっぱり幻覚であったか」
 憮然《ぶぜん》として葉之助は呟いたもののしかし後悔はしなかった。気が晴々しくなったからである。

 三人目には飛脚《ひきゃく》を斬り四人目には老婆を斬り五人目には武士を斬った。しかも家中の武士であった。
 高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。
「いったい何者の所業《しわざ》であろう?」
 誰も知ることが出来なかった。
 家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。
 で、その夜も夜警隊は粛々《しゅくしゅく》と城下を見廻っていた。
 円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。素破《すわ》とばかりに振り返って見ると、白井誠三郎が袈裟に斬られ朱に染まって斃《たお》れていた。そうして彼のすぐ背後に鏡葉之助が腕を拱《こまぬ》き黙然として立っていた。
 誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、皆暮《かいく》れ知ることが出来なかった。
 こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。
 心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。
「さて葉之助、また依頼《たのみ》だ。そちも承知の辻斬り騒ぎ、とんと曲者《くせもの》の目星がつかぬ。ついてはその方市中を見廻り、是非とも曲者を捕えるよう」
「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。
「この事件ばかりは私の手には、ちと合《あ》い兼ねるかと存ぜられます」
「それは何故かな? 何故手に合わぬ」
「別に理由《わけ》とてはございませぬが、ちと相手が強過ぎますようで……」
「いやいやお前なら大丈夫だ」
「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」
「ならぬならぬ、そちに限る」
 そこで止むを得ず葉之助は、殿の命に従うことにした。
 ご前を下がって行く彼の姿を、じっと見送っていた武士があったが、他ならぬ剣道指南役、客分の松崎清左衛門であった。
「なんと清左衛門、葉之助は、若いに似合わぬ立派な男だな」
 駿河守は何気なく云った。
「御意《ぎょい》の通りにございます」清左衛門は物憂《ものう》そうに、
「しかし、いささか、心得ぬ節が。……」
「心得ぬ節? どんな事か?」
「最近にわかに葉之助殿は、器量を上げられてございます」
「いかにもいかにも、あれは奇態だ」
「まことに奇態でございます」
「しかし、元から美少年ではあった」
「ハイ、美少年でございました。それに野性がございました。それも欝々《うつうつ》たる殺気を持った恐ろしい野性でございました。飯田や高遠で成長《ひととな》ったとはどうしても思われぬ物凄《ものすご》い野性! で、気の毒とは思いましたが私の門弟に加えますことを、断わったことがございました」
「そういう噂もチラリと聞いた」
「しかるに最近に至りまして、さらにその上へより[#「より」に傍点]悪いものが加わりましてございます」
「ふうむ、そうかな? それは何かな?」
「ハイ、妖気でございます」自信ありげに清左衛門は云った。
「ナニ、妖気? これは不思議!」
「まことに不思議でございます」
「しかし私《わし》にはそうは見えぬが。……」
「しかし、確かでございます」
「どういう点が疑わしいな?」
「これは感覚でございます。そこを指しては申されません」
 駿河守は首|傾《かし》げたが、「どうも私《わし》には信じられぬ」
「やがてお解りになりましょう」

         五

 殺人の本人、葉之助へその捕り方を命じたのは、笑うべき皮肉と云わざるを得ない。
 辻斬りが絶えないばかりでなく反対にその数の増したのは当然過ぎるほど当然である。
 こうして真の恐怖時代、こうして真の無警察時代が高遠城下へ招来された。
 冬の夜空の月凍って、ビョービョーと吠える犬の声さえ陰に聞こえる深夜の町を、捕り方と称する殺人鬼が影のように通って行く! おお人々よ気を付けたがよい。その美しい容貌に、その優雅な姿態《すがたかたち》に、またその静かな歩き方に! 彼は人ではないのだから! 彼は呪われたる血吸鬼《バンプ》なのだから!
 しんしんと雪が降って来た。四辺《あたり》朦朧《もうろう》と霧立ちこめ、一間先さえ見え分かぬ。しかし人々よ気を付けなければならない! その朦朧たる霧の中を雪の白無垢《しろむく》を纏《まと》ったところの殺人鬼が通って行くのだから。
 いやいや決して嘘ではない! 信じられない人間は、翌朝早く家を出て、城下を通って見るがよい。あっちの辻、こっちの往来、向こうの門前、こっちの川岸に袈裟に斬られた男女の死骸が、転がっているのを見ることが出来よう。殺人鬼の通った証拠である。

「どうも今度の曲者ばかりは、葉之助の手にも合わないらしい」
 父、弓之進は呟いた。「ひとつ助太刀をしてやるかな」
 事情を知らない弓之進がこう思うのはもっともである。
 しかしそれだけは止めた方がいい。毛を吹いて傷を求める悲惨な羽目に堕ちるばかりだから!

「もう捨てては置かれない」
 こう呟いた人があった。「やむを得ずば俺が出よう」
 それは松崎清左衛門であった。
 当時天下の大剣豪、立身出世に意がないばかりに、狭い高遠の城下などに跼蹐《きょくせき》してはいるけれど、江戸へ出ても三番とは下がらぬ、東軍流の名人である。――いかさまこの人が乗り出したなら、殺人鬼といえども身動き出来まい。
 しかしはたして出るだろうか?
 その夜も雪が降っていた。
 傘《からかさ》を翳《さ》した一人の武士が静々と町を歩いていた。と、その後から覆面《ふくめん》の武士が、慕うように追って行った。
 角町から三筋通り、辻を曲がって藪小路、さらに花木町緑町、聖天《しょうでん》前を右へ抜け、しばらく行くと坂本町……二人の武士は附かず離れず半刻《はんとき》あまりも歩いて行った。
 その間、覆面の侍は、幾度か刀を抜きかけたが、前を行く武士の体から光物《ひかりもの》でも射すかのように気遅れして果たさなかった。
 尚二人は歩いて行った。
 木屋町の角まで来た時であった。もう一人武士が現われた。羅紗《らしゃ》の合羽《かっぱ》を纏《まと》っている。
 羅紗合羽のその武士は、傘の武士と覆面の武士との、その中間に挟まった。
 それと見て取った覆面の武士は、さりげなくそっちへ寄って行った。
 一道の殺気|迸《ほとばし》ると見えたが、覆面の武士の両腕には早くも刀が握られていた。
「待て!」
 と云う周章《あわ》てた声! 合羽の武士が叫んだのであったが、それを聞くと覆面の武士は、一歩後へ退いた。
「おお、あなたはお父上!」
「お
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