たり、最後にはきっと声を揃え、「返してくだされ! 返してくだされ!」と、喚《わめ》き立てるというのである。世間の人の評判では、その異形な怪物こそは、紋兵衛のために苦しめられたいわゆる可哀そうな債務者の霊で、家や屋敷を取り上げられたのを死んだ後までも怨恨《うらみ》に思い、それで夜な夜な現われては、「返してくだされ! 返してくだされ!」と、喚き立てるのだというのであった。

         一一

 相手が兇悪な盗賊とかまたは殺人《ひとごろし》の罪人とか、そういうものを退治るなら一も二もなくお受けしようが、亡魂《ぼうこん》とあっては有難くない――これが葉之助の心持ちであった。
「主命を拒《こば》むではござりませぬが、私如き若年者より、他にどなたか屈強《くっきょう》なお方が……」
「いや」と駿河守は遮《さえぎ》った。「お前が一番適当なのだ。拒むことはならぬ、是非参るよう……新刀なれども堀川国広、これをそちに貸し与える。退治致した暁《あかつき》にはそちの差料《さしりょう》として遣わそう」
「そうまで仰せられる殿のお言葉をお受け致《いた》さずばかえって不忠、参ることに致します」
「おお参るか。それは頼もしい」
「ご免くだされ」
 と座を辷《すべ》る。
「大事をとって行くがいいぞ」
「お心添え忝《かたじ》けのう存じます」
 国広の刀をひっさげて葉之助はご前を退出した。

 富豪大鳥井紋兵衛の邸《やしき》は、二本|榎《えのき》と俗に呼ばれた、お城を離れる半里の地点、小原村に近い耕地の中に、一軒ポッツリ立っていたが、四方に林を取り巡らし、濠《ほり》に似せて溝を掘り、周囲を廻れば五町もあろうか、主屋《おもや》、離室《はなれ》、客殿、亭《ちん》、厩舎《うまや》、納屋《なや》から小作小屋まで一切を入れれば十棟余り、実に堂々たる構造《かまえ》であったが、その主屋の一室に主人紋兵衛は臥《ふ》せっていた。
「灯火《あかり》が暗い。もっと点《とも》せ」
 夜具からヒョイと顔を出すと、譫語《うわごと》のように紋兵衛は云った。年は幾歳《いくつ》か不明であったが、頭髪白く顔には皺《しわ》があり、六十以上とも見られたが、どうやらそうまでは行っていないらしい。大きい眼に高い鼻、昔は美男であったらしい。
「灯火は十も点っております」
 附き添っている十人の中には、剣客もあれば力士もあり柔術《やわら》に達した浪人もあり、手代、番頭、小作頭もある。それらさまざまの人物がギッシリ一部屋に集まった。四方に眼を配っていたが、番頭の佐介はこう云うと紋兵衛の顔を覗き込んだ。
「ご覧なさいませ部屋の中には行灯《あんどん》が十もござります。なんの暗いことがございましょう」
「いいや暗い、真っ暗だ。早く灯心を掻《か》き立ててくれ」
「それじゃ卯平《うへい》さん掻き立ててくんな」
「へい」と云うと手代の卯平は、静かに立って一つ一つ行灯の火を掻き立てた。いくらか部屋が明るくなる。
「時に今は何時《なんどき》だな?」
 気遣《きづか》わしそうに紋兵衛は訊く。
「はい」と佐介はちょっと考え、「初夜《しょや》には一|刻《とき》(二時間)もございましょうか」
「まだそんなに早いのか」
「宵《よい》の口でございます」
「ああ夜が早く明ければよい……俺は夜が大嫌いだ。……俺には夜が恐ろしいのだ」
 ザワザワと吹く春風が雨戸を通して聞こえて来た。と、コトンと音がした。
「あれは何んだ? あの音は?」
「さあ何んでござろうの」剣術使いの佐伯|聞太《ぶんた》は、大刀を膝の辺へ引き付けながら、「鉢伏山《はちぶせやま》から狐《きつね》めが春の月夜に浮かされてやって来たのでもござろうか」
「ナニ狐?」と紋兵衛は、恐怖の瞳を踴《おど》らせたが、「追ってくだされ! 俺は狐が大嫌いだ!」
「よろしゅうござる」
 と大儀そうに、聞太はスックリ立ち上がったが襖《ふすま》を開けると隣室へ行った。障子《しょうじ》を開ける音がする。雨戸をひらく音もする。
「アッハハハハ」
 と笑い声がすると、雨戸や障子が閉《た》てられた。
 聞太は部屋へはいって来たが、
「狐ではなくて犬でござった。黒めが尾を振っていましたわい」
「犬でござったのかな。それで安心」紋兵衛はホッと溜息をした。
 暫時《ざんじ》部屋は静かである。
 と、紋兵衛は悲しそうな声で、
「ああ私《わし》は眠りたい。眠って苦痛を忘れたい……北山《ほくざん》先生、薬くだされ!」
 天野北山は黙っていた。
 長崎仕込みの立派な蘭医《らんい》、駿河守の侍医ではあったが、客分の扱いを受けている。江戸へ出しても一流の先生、名聞《みょうもん》狂いを嫌うところからこのような山間にくすぶってはいるがどうして勝れた人物であり、いかに相手が金持ちであろうと人格の卑しい紋兵衛などの附き人などに成る人物ではない。しかし礼を厚うしてほとんど十回も招かれて見れば放抛《うっちゃ》って置くことも出来なかったので時々見舞ってやっていた。しかしもちろん急抱えの剣術使いや浪人とは違う。否だと思えばサッサと帰り、いけないと思えば投薬もしない。
「北山先生薬くだされ!」
「ならぬ!」
 と北山は抑《おさ》え付けた。

         一二

「あなたの病気は薬でも癒《なお》らぬ。懺悔《ざんげ》なされ懺悔なされ。そうしたらすぐにも癒るであろう」
「懺悔?」と紋兵衛は恐ろしそうに、「何もございません、何もございません! 懺悔することなどはございません!」
「嘘《うそ》を云わっしゃい!」
 と北山は嘲《あざけ》るようにたしなめた。「懺悔することのないものが何んでそのように神経を起こし、何んでそのように恐れるか。……そなた、無分別の若い頃に悪いことでもしはしないかな?」
 膝《ひざ》に突いていた黒塗りの扇《おうぎ》をパチリパチリとやりながら、北山はグングン突っ込んで訊く。
「いいえ、そんな事はございません。正直な人間でございます。人に恨まれる覚えもなく、人に憎まれる覚えもない正直な人間でございます」
「どうも私《わし》には受け取れない。どうでもあなたの心の中には不安なものがあるらしい。ひどく神経を痛めておる……で、私は改めて訊くが、貴公どこの産まれだな?」
「はい、江戸でございます」
「江戸はどこだな? どの辺だな?」北山は遠慮なく押し詰める。
「はい」と紋兵衛は狼狽しながら、「江戸は芝でございます」
「おおさようか、芝はどこだ?」
「はい、芝は錦糸堀で……」
「何を痴《たわ》けめ!」と北山はカラカラとばかり哄笑《こうしょう》した。
「芝にはそんな所はない、錦糸堀は本所《ほんじょ》だわえ!」
「おお、そうそうその本所で、私は産まれたのでございます」
「うん、そうか、では聞くが、錦糸堀は本所のどの辺にあるな?」
「はい、本所のとっつき[#「とっつき」に傍点]に」
「アッハハハハ、まるで反対だ。錦糸堀は本所の外《はず》れにある……貴公江戸は不案内であろう? ……云いたくなければ云わないでもよい。産まれ故郷の云えないような、そういう胡散《うさん》な人物には今後薬は盛らぬまでだ……ところでもう一つ訊きたいのは、十万に余る貴公の財産、いったい何をして儲《もう》けたのか?」
 北山はじっ[#「じっ」に傍点]と眼を据えて紋兵衛の顔を見守った。しかし紋兵衛はもの[#「もの」に傍点]を云わない。
「どうやらこれも云えないと見える……後ろ暗いことでもあるのであろう」
「黙れ!」
 と突然狂気|染《じ》みた声で、大鳥井紋兵衛は怒鳴《どな》ったものである。彼はムックリと起き上がった。
「黙れ! 藪医者《やぶいしゃ》め! 何を吐《ぬ》かす!」
「何?」
 と北山も眼を瞋《いか》らせた。
「俺は正直の人間だ!」紋兵衛は大声で怒鳴りつづける。「後ろ暗えこととは何事だ! 俺は正直に働いて正当に金を儲けたのだ! それが何んで悪いのか!」
「うんそうか、それが本当なら、貴公はなかなか働き者だ。この北山|褒《ほ》めてやる……さほど正直に儲けた金なら何も隠すには及ぶまい。何をして儲けたか云うがいい」
「いいや云わねえ、云う必要はねえ! 何んで貴様に云う必要がある! それから云え、それから云え!」
「云ってやろう、俺は医者だ!」
「医者だからどうしたと云うのだい!」
「病いの基《もと》を調べるのよ」
「病いの基を調べるって? いいやそんな必要はねえ」
「貴公、可哀そうに血迷っているな」
「血迷うものか! 俺は正気だ!」
「病気の基を極《きわ》めずにどうして病いを癒すことが出来る」
「癒すにゃア及ばねえうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置いてくれ!」
「おお、そうか、それならよい」
 ズイと北山は立ち上がった。「今後招いても来てはやらぬぞ」
「…………」
「貴公、死相が現われておる。取り殺されるも長くはあるまい」
「わッ」と突然紋兵衛は畳の上へ突っ伏したが、
「お助けくだされ北山様! お願いでござります天野先生! 殺されるのは嫌でございます! 申します申します、何んでも申します!」
「おお云うか。云うならよい。天野北山聞いて遣わす。そうして病気も癒してやる……何をやって金を儲けた?」
「はいそれは……」
 と云いかけた時奥の襖がスーと開いて若い女が現われた。紋兵衛の娘のお露である。
「お父様」と手を支《つか》え、「只今お城のお殿様からお使者が参りましてござります」
「お使者?」
 と紋兵衛は不思議そうに、「ハテなんのお使者であろう?」
「ご病気見舞いだとおっしゃられました」
「どんなご容子《ようす》のお方かな?」
「はい」とお露は面羞《おもは》ゆそうに、「お若いお美しいお侍様で」
「さようか、そうしてお名前は?」
「鏡葉之助様と仰《おお》せられました」

         一三

 妖怪《あやかし》退治の命を受け、城を退出した葉之助は、小原村二本榎、大鳥井紋兵衛の宏大な邸を、供も連れず訪れた。取次ぎに出た若い女――それは娘のお露であったが、そのお露の姿を見ると、彼の心は波立った。
「美しいな」と思ったからである。しかしそれとて軽い意味なので、一眼惚れと云うようなそんなところまでは行っていない。
 一旦引っ込んだその娘が再びしとやかに現われた時、また「美しいな」と思ったものである。
 お露は夜眼にも知れるほど顔を赧《あか》らめもじもじ[#「もじもじ」に傍点]したが、
「むさくるしい処《ところ》ではございますが、なにとぞお通りくださいますよう」
「ご免」と云うと葉之助は、刀を提げて玄関を上がる。
 間《ま》ごと間ごとを打ち通り、奥まった部屋の前へ出たが、飾り立てた部屋部屋の様子、部屋を繋《つな》いだ廻廊の態《さま》、まことに善美を尽くしたもので、士太夫の邸と云ったところでこれまでであろうと思われた。それにも拘《かかわ》らず邸内が陰森《しん》として物寂しく、間ごとに点《とも》された燭台の灯も薄茫然《うすぼんやり》と輪を描き、光の届かぬ隅々には眼も鼻もない妖怪《あやかし》が声を立てずに笑っていそうであり、人は沢山にいるらしいが暖かい人気《ひとけ》を感じない。
「妖怪邸《ばけものやしき》と云われるだけあって、不思議に寂しい邸ではある」
 こう心で呟いた時、お露がスーと襖を開けた。
「父の病室にござります」
「さようでござるか」とツトはいる。
 北山はじめ附き人達は遠慮して隣室へ退ったので部屋には紋兵衛一人しかいない。病人というので褥《しとね》は離れず、彼は恭《うやうや》しく端座《かしこ》まっていたが、それと見て畳へ手を支《つか》えた。
 殿の使いとは云うものの表立った使者ではなく、きわめて略式の訪問なのだ。
「いやそのまま」と云いながら葉之助は座を構え、「邸に妖怪《あやかし》憑《つ》いたる由、殿にも気の毒に覚し召さるる。拙者《せっしゃ》今日参ったはすなわち妖怪|見現《みあら》わしのため。殿のご厚意|疎略《そりゃく》に思ってはならぬ」
「何しに疎略に思いましょうぞ。ハイハイまことに有難いことで……あなた様にもご苦労千万、まずお休息《いこい》遊ばしますよう
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