紋兵衛は静かに顔を上げた。名は互いに知ってはいたが顔を合わせるのは今日が初めて、二人の顔がピッタリ合った。
 と、俄然紋兵衛の顔へ恐怖が颯《さっ》と浮かんだが、
「わッ、幽霊!」と喚《わめ》いたものである。
「これこれどうした? 幽霊とは何んだ?」
 驚いたのは葉之助で、紋兵衛の様子をじっ[#「じっ」に傍点]と眺める。
「堪忍《かんにん》してくれ! 堪忍してくれ! 俺が悪かった! 俺が悪かった! ……山吹! 山吹! 堪忍してくれ」
 蛇に魅入られた蛙《かえる》とでも云おうか、葉之助の顔から眼を放さず、紋兵衛は益※[#二の字点、1−2−22]喚くのであった、が額からタラタラ汗を流し、全身を劇《はげ》しく顫《ふる》わせているのは、恐怖の度合のいかに大きいかを無言のうちに説明している。
「これこれ紋兵衛殿どうしたものだ。拙者は鏡葉之助でござる。山吹などとは何事でござる。心を確《しっか》りお持ちなさるがよい」
 こう云いながら葉之助は、気の毒そうに苦笑したが、「ははあこれも妖怪《あやかし》の業《わざ》だな。さてどこから手を付けたものか?」
「何、鏡葉之助殿とな?」
 逆立った眼で葉之助を見据《みす》え、紋兵衛は瞬《まじろ》ぎもしなかったが、ようやくホッと溜息を吐《つ》くと、「人違いであった。山吹ではなかった。そうだあなたは葉之助様だ……が、それにしてもあなたのお顔があの山吹に酷似《そっくり》とは? おお酷似《そっくり》じゃ酷似じゃ! やっぱりお前は山吹だ! 汝《おのれ》どこからやって来たぞ!」
 また狂わしくなるのであった。
「殿の命で、城中から」
「いいや違う。そうではあるまい。八ヶ嶽から来たのであろう?」
「殿の命で、城中から」
「嘘だ嘘だ! 嘘に相違ない! 八ヶ嶽の窩人《かじん》部落! 汝《おのれ》そこから来たのであろう! 怨《うら》まば怨め! 祟《たた》らば祟れ! 捨てられたが口惜しいか! ……睨《にら》むわ睨むわ! おお睨むがいい。俺も睨んでやる俺も睨んでやる!」
 血走って眼をカッと開け、紋兵衛は葉之助を睨んだものである。
 その時、遥《はる》か戸外《おもて》に当たって咽《むせ》ぶがような泣くがような哀々《あいあい》たる声が聞こえて来た。それは大勢の声であり、あたかも合唱でもするかのように声を合わせて叫んでいるらしい。しかし叫びと云うよりも、むしろそれは嘆願なので、細い細い糸のような声から高い高い叫びになり、それが悲しい笛の音のように尾を引いて綿々と絶えぬのであった。
「お返しくだされ。お返しくだされ。宗介天狗《むねすけてんぐ》の鎧冑《よろいかぶと》、どうぞどうぞお返しくだされ」
 こう叫んでいるのであった。

         一四

 ムックリ刎《は》ね起きた紋兵衛は、血走った眼をおどおど[#「おどおど」に傍点]させ、痙攣《ひきつ》った唇を思うさま曲げ、手を胸の辺で掻き捲《まく》り、肩に大波を打たせたかと思うと、
「あ、あ、あ、あ」とまず喘ぎ、「来たア!」と叫ぶとヒョロヒョロ立ち、「来てくれ! 来てくれ! 誰か来てくれ! 人殺しだア! 誰か来てくれ! ……おお鏡様葉之助様! あいつらが来たのでござります! お助けなされてくださりませ! 人助けでござります、お助けなされてくださりませ! ……返せと云って何を返すのだ! 鎧冑? そんなものは知らぬ! おおそんなものを何んで知ろう! よしんば[#「よしんば」に傍点]知っていようとも、みんな過ぎ去った昔の事だ! ならぬ、ならぬ、返すことはならぬ! いやいや俺は知らぬのだ!」
「五味多四郎様! 五味多四郎様! どうぞお返しくださりませ、宗介天狗の黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》、どうぞお返しくださりませ!」戸外《おもて》の声は尚《なお》叫ぶ。
「知らぬ知らぬ俺は知らぬ! 俺は何んにも知らぬのだ! ……葉之助様! 鏡様! どうぞお助けくださりませ! や、貴様は山吹だな! おお山吹だ山吹だ! おのれ貴様まで怨みに来たか! おお恐ろしい恐ろしい、睨んでくれるな睨んでくれるな! 堪忍してくれ俺が悪かった! あ、あ、あ、あ、胸苦しや! 冷たい腕が胸を掴《つか》むわ!」
 急に紋兵衛は虚空《こくう》を掴《つか》むと枯木のようにバッタリ仆《たお》れた。そのまま気絶したのである。
 その時|忽然《こつぜん》部屋の隅から女の笑い声が聞こえて来た。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、というような一種異様な笑い声である。
 鏡葉之助はそれを聞くと何がなしにゾッとした。聞き覚えのある笑い声だからだ。
「遠い昔に、幼年時代《ちいさいとき》に、確かにどこかで聞いたことがある。誰の声だかそれは知らない。どこで聞いたかそれも知らない……いったいどこで笑っているのだろう?」
 声の聞こえる部屋の隅へ屹《きっ》と葉之助は眼をやったが、笑い主の姿は見えぬ。しかし笑い声は間断《ひっきり》なしにヒ、ヒ、ヒ、ヒと聞こえて来る。
「不思議な事だ。何んという事だ。どう解釈をしたものだろう? さも心地よいと云ったような、憎い相手の苦しむのがさも嬉しいと云ったような、惨忍《ざんにん》極まる笑い声! 悪意を持った笑い声! ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている。俺も何んだか笑いたくなった。俺の心は誘惑《そそ》られる。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている……。俺も笑ってやろう。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
 葉之助は笑い出した。不思議な笑いに誘惑《そそ》られて彼もとうとう笑い出した。
 と、さらに不思議なことには、姿の見えない笑い声が、漸次《だんだん》こっちへ近寄って来る。部屋の隅と思ったのが、畳の上から聞こえて来る。畳の上と思ったのが、葉之助の膝の辺からさも[#「さも」に傍点]鮮かに聞こえて来る。やがてとうとうその声は彼の腕から聞こえるようになった。
「奇怪千万」と葉之助は、やにわに袂《たもと》を捲り上げた。肉附きのよい白い腕がスベスベと二の腕まで現われたが、そこに上下二十枚の人間の歯形が付いている。これには別に不思議はない。幼年時《ちいさいとき》から葉之助の腕にはこういう歯形が付いていたからで、驚く必要はないのであるが、その歯形が今見れば女の顔と変わっている。眉《まゆ》を釣り上げ眼をいからせ唇を左右に痙攣《けいれん》させ、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》を現わしている様子が、奇病|人面疽《にんめんそ》さながらである。ヒ、ヒ、ヒという笑い声はその口から来るのであった。
 そうして何より気味の悪いことは、人面疽の眼が気絶している紋兵衛の顔に注がれていることで、その眼には憎悪《にくしみ》が満ち充ちている。
 余りのことに葉之助は自分の視覚を疑った。
「こんな筈《はず》はない、こんな筈はない!」
 叫ぶと一緒に眼を閉じたのは、恐ろしいものを見まいとする本能的の動作でもあろうか。しかしその時断ち切ったように気味の悪い笑い声が消えたので、彼はハッと眼を開けた。
 人面疽《にんめんそ》は消えている。後には歯形があるばかりだ。
「さてはやはり幻覚であったか」ホッと溜息をした葉之助は、額の汗を拭ったものの、その恐ろしさ気味悪さは容易の事では忘られそうもない。
 その時またも戸の外から嘆願するような大勢の声が咽《むせ》ぶがように聞こえて来た。
「お返しくだされお返しくだされ。宗介天狗の黄金の甲冑、どうぞお返しくださいませ」
「これはいったいどうしたことだ」葉之助は呟いた。「あれは妖怪の声だというに、俺には懐《なつか》しく思われてならぬ。懐しいといえば人面疽の顔さえ妙に懐しく思われる。……妖怪の声を聞いていると故郷《ふるさと》の人の話し声でも聞いているような気持ちがする。そうして、人面疽の女の顔は、母親の顔ででもあるかのように、慕《した》わしく恋しく思われる」
 葉之助は茫然《ぼうぜん》と坐ったままで動こうともしない。

         一五

 ここで物語は一変する。
 大正十三年の今日でも、甲信の人達は信じ切っているが、武田信玄の死骸《なきがら》は、楯無《たてな》しの鎧《よろい》に日の丸の旗、諏訪法性《すわほうしょう》の冑《かぶと》をもって、いとも厳重に装われ、厚い石の柩《ひつぎ》に入れられ、諏訪湖の底に埋められてあり、諏訪明神がその柩を加護しているということである。
 これはどうやら歴史上から見ても、真実《ほんと》のことのように思われる。その証拠には近古史談に次のような史詩が掲載されてある。
[#ここから1字下げ]
驚倒《きょうとう》す暗中銃丸跳るを、野田城上|笛声《てきせい》寒し、誰か知らん七十二の疑塚《ぎちょう》、若《し》かず一棺湖底の安きに
[#ここで字下げ終わり]
 最後《しまい》の二句を解釈すると、昔|支那《シナ》に悪王があって、死後塚の発《あば》かれんことを恐れ、七十二個の贋塚《にせづか》を作ったが、それでもとうとう発《あば》かれてしまった。武田信玄はそんなことはせずに、死骸を湖底に埋めさせた。この方がどんなに安心だか知れない――つまりこういう意味なのである。
 いかにもこれは七十二の疑塚より確かに安心には相違ないが、しかし絶対に安心とは云えない。諏訪湖の水の乾く時が来たら、死骸は石棺のまま現われなければならない。そうでなくとも好奇《ものずき》の者が、金に糸目を付けることなく、もし潜水夫を潜らせたなら、信玄の死骸のある場所が知れたなら、それから後はどんなことでも出来る。だから絶対に安心とは云えない。
 果然《かぜん》、文政年間に好奇《ものずき》の人間が現われて、信玄の石棺を引き上げようとした。
 成功したか失敗したか? その人間とは何者か? それは物語の進むにつれて自《おの》ずと了解されようと思う。
 そうして実にこの事件は、この「八ヶ嶽の魔神」という、きわめて伝奇的の物語にとってもかなり重大な関係がある。したがって物語の主人公、鏡葉之助その人にとっても重大な関係がなくてはならない。
 鏡葉之助の消息を一時途中で中絶させ、事件を他方面へ移したのもこういう関係があるからである。

 信州諏訪の郡《こおり》高島の城下は、祭礼のように賑わっていた。
 ※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》と湛《たた》えられた湖の岸には町の人達、老若男女が湖水を遥《はる》かに見渡しながら窃々《ひそひそ》話に余念がない。
「船が沢山出ましたな」
「二十隻あまりも出ましたかな」
「漁船と異《ちが》って立派ですな」
「諏訪家の幔幕が張り廻してある」
「乗っておられるのはお武家様ばかりだ」
「お武家様と漁師とは遠目に見ても異いますな」
「しかし今度のお企《くわだ》てはちとご無理ではないでしょうかな」
「さあそれは考えものだ」
「いや全く考えものだ」
「噂によると神宮寺の巫女《みこ》が大変怒っているそうですよ」
「あいつらが怒るとちょっと恐い」
「名に負う水狐族《すいこぞく》の手合ですからな」
「今度は若殿も失敗かな」
「立派なお方には相違ないが、どうも血気に急《はや》らせられてな」
「それもこれもお若いからよ」
「ちと好奇心《ものずき》が過ぎるようだ」
「今度の企ても好奇心からよ」
「巫女達はきっと祟《たた》ろうぞ」
「これまで水狐族に祟られたもので、難を免れたものはない」
「恐ろしいほど執念深いからな」
「先祖代々執念深いのさ」
「それにあいつらは妖術を使う」
「切支丹《キリシタン》の秘法だそうな」
「切支丹ではない陰陽術《おんようじゅつ》だ」
「日本固有の陰陽術かな」
「そうだ中御門《なかみかど》の陰陽術だ」
「おや」と一人が指差した。「いよいよ若殿のご座船が出るぞ」
「どれどれ? なるほど、ご座船らしいな」
「若殿自らお指図《さしず》と来た」
「もしも水狐族が祟《たた》るなら、きっと若殿へ祟るであろうぞ」
「無論水狐族も恐ろしいが、それより私には明神のお罰が一層恐ろしく思われるよ」
「日本第一大軍神、健御名方《たけみなかた》のご神罰かな」
「これは昔からの云い伝えだが、諏訪法性の冑《かぶと》には、諏訪明神のご神霊が附き添いおられ
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