居睡りをしたり、突然大きな欠伸《あくび》をしたり、そうしていつも用のない時にはうつらうつらと眼をとじて、よく云えば無念無想、悪く云えば茫然《ぼんやり》していた。
「武道の麒麟児《きりんじ》と思ったに葉之助殿はお人好しだそうだ」「食わせ物だ食わせ物だ」
「ぼんやりとしてノッソリとして、ヌッと立っている塩梅《あんばい》は独活《うど》の大木というところだ」
「何をやっても一向冴えない。ボーッとしたところは昼の行灯《あんどん》かな」
「昼行灯昼行灯、よい、これはよい譬喩《たとえ》じゃ」
「昼行灯様! 昼行灯様!」
朋輩どもは葉之助の事を間もなく昼行灯と綽名《あだな》した。
「はてな?」
と駿河守は首を傾げた。「あれほど利口な葉之助が、時々心を取り失うとはちょっとどうも受け取れないことだ。事実脳が弱いのかそれとも明哲保全《めいてつほぜん》の策か? ……これは一つ試して見よう」
ある日にわかの殿の仰せで、弓射の試合を始めることになった。
駿河守は馬に乗り近習若侍を後に従え、矢場を指して走らせて行く。
矢場には既《すで》に弓道師範|日置《へき》流に掛けては、相当名のある佐々木源兵衛が詰めかけていたが、殿のお出《い》でと立ちいでて恭《うやうや》しく式礼した。
「おお源兵衛か今日はご苦労」駿河守は頷いたが、「すぐに射手《いて》に取りかかるよう」
「かしこまりましてござります」
源兵衛がご前を退くと、忽《たちま》ち法螺《ほら》貝が鳴り渡った。
射手が十人ズラリと並ぶ。
ヒューッ、ヒューッと弦音《つるおと》高く的を目掛けて切って放す。弦返りの音も冴えかえり、当たった時には赤旗が揚がる。
鉦《かね》の音で引き退き法螺の音で新手《あらて》が出る。
番数次第に取り進んだ。
最後に現われた三人の射手は、印可《いんか》を受けた高弟で、綿貫紋兵衛、馬谷庄二、そうして石渡三蔵であったが的も金的できわめて小さい。一人で五本の矢を飛ばすのであった。
甲乙なしに引き退いた。
後には誰も出る者がない。今日の射法は終わったのである。
「これ葉之助」と駿河守は傍《かたわら》の葉之助へ声を掛けた。
「そちは剣道では一家中並ぶ者のない達人と聞くが、弓と馬とは弓馬と申して表芸の中の表芸、武士たる者の心得なくてはならぬ。そちにも心得あることと思う。立ち出でて一矢《ひとや》仕《つかまつ》れ」
「は」
と云ったが葉之助、こう云われては断わることは出来ない。未熟と申して尻込みすれば家門の恥辱、身の不面目となる。白痴を気取ってはいられなくなった。
「不束《ふつつか》ながらご諚《じょう》なれば一矢仕るでござりましょう」
謹んでお受けすると列を離れ、ツツーと設けの座に進んだ。屹《きっ》と金的を睨んだものである。
「葉之助殿おやりなさるかな。貴殿何流をお習いかな」
佐々木源兵衛は莞爾《にこやか》に訊いた。
「はい、竹林派をほんの少々」
云いながら無造作に弓を握る。
九
これを見ると若侍達は互いにヒソヒソ囁《ささや》き出した。
「行灯殿が弓を射るそうな。はてどこへぶち[#「ぶち」に傍点]こむやら」「土壇《どたん》を飛び越し馬場の方へでも、ぶっ[#「ぶっ」に傍点]飛ばすことでござりましょう」
「それはよけれど弾《は》ね返って座席へでも落ちたら難儀でござるな」
「いやいやそうばかりも云われませぬよ」
中には贔屓《ひいき》をする者もある。「松崎道場では石渡殿を、手こずらせたという事です」
「いやそれも怪我勝ちだそうで」
「では今度ももしかすると[#「もしかすると」に傍点]怪我勝ちするかもしれませんな」
「そう再々怪我勝ちされてはちとどうも側《はた》が迷惑します」
「黙って黙って! 矢をつがえました」
「あれが竹林派の固めかな」
「いやいやあれは昼行灯流で」
「ナール、これはよう云われました」
この時葉之助は矢を取るとパッチリつがえてキリキリキリ、弦《いと》一杯に引き絞ると、狙いも付けず切って放した。
「どうだ?」
と侍達は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。外《はず》れたと見えて旗が出ない。
「おやおや最初から仕損じましたな」
「二本目は与一も困る扇《おうぎ》かな……さあどうだ昼行灯殿!」
急《せ》かず周章《あわ》てず葉之助はすかさず二の矢を飛ばせたが、これも外れたか旗が出ない。
「ウワーッ、いよいよ昼行灯だ! 一の矢二の矢を仕損じながら、沈着《おちつき》ようはマアどうだ」
「恥なければ心安し。一向平気と見えますな」
「殿も小首を傾げておられる」「いったい殿がお悪いのだ。あんなものを召使うばかりか贔屓にさえもしておられる」「あれは殿の酔狂さ」
「それまた射ますぞ。静かに静かに」
しかし葉之助は益※[#二の字点、1−2−22]|泰然《たいぜん》と構え、姿勢に揺るぎもなく、三の矢四の矢五の矢まで、呼吸《いき》も吐けない素早さで弦音高く射放したが、旗はついに出なかった。
ガッチリ弓を棚に掛け、袴《はかま》両袖《りょうそで》をポンポンと払うと、静かに葉之助は射場を離れ、端然と殿の前へ手を支《つか》えた。
「未熟の弓勢《ゆんぜい》お目にかけお恥ずかしゅう存じます」
「うむ」
と云ったが駿河守は牀几《しょうぎ》に掛けたまま動こうともしない。何やら考えているらしい。
「源兵衛、源兵衛」
と急に呼んだ。弓道師範の佐々木源兵衛小腰を屈《かが》めて走って来た。
「的をここへ持って来い」
「はっ」と云うと源兵衛は、扇を上げて差し招いた。旗の役の小侍は、それと見ると的を捧げ、矢場を縦に走って来たが、謹《つつし》んで的を源兵衛へ渡す。源兵衛から殿へ奉《たてまつ》る。
的を眺めた駿河守は、
「おお」と思わず声を洩らした。「どうだ源兵衛これを見い!」
「はっ」と云って差し覗くと、思わずこれも「うむ」と唸った。矢は五本ながら中《あた》ってはいないが、しかしその矢は五本ながら同じ間隔と深さとをもって的の縁《へり》を擦《こす》っている。
「なんと源兵衛、どう思うな!」
「恐れ入ってござります」
「中《あ》てようと思えば中《あた》る矢だ」
「申すまでもございません」
「どうだ、印可《いんか》は確かであろうな」
「いやもう印可は抜いております」
「三蔵とはどっちが上手だ?」
「これは段が違います」
「そうであろう」と頷いたが、葉之助の方へ眼をやると、「さて、お前に聞くことがある。中《あ》てずに縁を擦《こす》ったは、竹林派に故実あってかな?」
「いえ、一向存じませぬ」
葉之助は空|呆《とぼ》けた。
「知らぬとあってはしかたもないが、そちの学んだ竹林派について、詳しく来歴を語るよう」
「はっ」
と云ったが葉之助、これはどうも知らぬとは云えない。そこで形を改めると、
「竹林派の来歴申し上げまする。そもそも、始祖は江州《ごうしゅう》の産、叡山《えいざん》に登って剃髪《ていはつ》し、石堂寺竹林房|如成《じょせい》と云う。佐々木入道|承禎《しょうてい》と宜《よ》く、久しく客となっておりますうち、百家の流派を研精し、一派を編み出し竹林派と申す。嫡男《ちゃくなん》新三郎水没し、次男弥蔵|出藍《しゅつらん》の誉《ほま》れあり、江州佐和山石田三成に仕え、乱後身を避け高野山に登り、後吉野の傍《そば》に住す。清洲少将忠吉公、その名を聞いてこれを召す。後、尾張|源敬公《げんけいこう》に仕え、門弟多く取り立てしうち、長屋六兵衛、杉山三右衛門、もっとも業に秀《ひい》でました由《よし》――大坂両度の合戦にも、尾張公に従って出陣し、一旦|致仕《ちし》しさらに出で、晩年|窃《ひそ》かに思うところあり、長沼守明《ながぬまもりあき》一人を取り立て、伝書工夫|悉《ことごと》く譲る。子孫相継ぎ弟子相受け今日に及びましてござりますが、三家三勇士の随一人、和佐大八郎は竹林派における高名の一|人《にん》にござります」
弁舌さわやかに言上した。
一〇
「昼行灯どころの騒ぎではない。これは素晴らしい麒麟児《きりんじ》だ。まるで鬼神でも憑《つ》いていて言語行動させるようだ……ははあ、それで弓之進め、この少年の行末《ゆくすえ》を案じ、朋輩先輩の嫉視《しっし》を恐れ、俄《にわ》か白痴《ばか》を気取らせたのであろう。弓之進め用心深いからな……そういう訳ならそれもよかろう。せっかくの目論見《もくろみ》だ、とげさせてやろう」
駿河守は頷いた。
「今日の競技はこれで終わる。者ども続け!」
と云い捨てると駿河守は馬に乗った。タッタッタッタッと帰館になる。近習若侍に立ち雑《まじ》り葉之助も後を追う。
松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を拒絶《ことわ》ったのであろう? それは誰にも解らない。しかし当の葉之助にとっては無念千万の限りであった。
「そういう訳なら師を取らずに己《おのれ》一人工夫を凝らし、東軍流にて秘すところの微塵《みじん》の構えを打ち破り清左衛門めを打ち据えてくれよう」
間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を揮《ふる》って立ち木の股を裂いたりした。
「一にも押し、二にも押し、これが相撲の秘伝だそうだ。一にも突き二にも突き、これが剣道の極意である。しかし極意であるだけに誰も学んで珍らしくない……さてそれでは突き以外に必勝の術はあるまいか」
来る夜も来る夜も葉之助はこの点ばかりを考えた。しかし容易には考え付かない。
「突きを止めれば斬《き》る一方だが、さてどこが一番斬り易いかな?」
こう押し詰めて来て葉之助は、「肩だ!」と叫ばざるを得なかった。
「肩ほど斬りよいものはない。相手の右の肩先から左の肋《あばら》へ斜《はす》に斬る。すなわち綾袈裟掛《あやけさが》けだ! 右へ逸《そ》れても腕を斬る。左へ逸れれば頸《くび》を斬る、どっちにしても急所の痛手だ。うんこれがいい」
と思い付いてからは、彼は何んの躊躇《ちゅうちょ》もせず袈裟掛けばかりを研究した。腕は既に出来ている、加うるに珍らしい天才である、それに一念が籠もっているのでその上達の速《すみや》かさ、半年余り経った頃にはかなり太い生の立ち木を股から斜めに幹をかけてサックリ木刀で割ることが出来た。
「宮本武蔵の十字の構えを、有馬喜兵衛は打ち破ろうと、木の股ばかりを裂いたというが、よも木の幹は割れなかったであろう――いかに松崎が偉いと云っても武蔵に比べては劣るであろう。もう一年、もう二年、練磨に練磨を積んだ上、松崎に試合を申し込み、清左衛門めを打ち据えてくれよう」
仮想の敵があるために、彼の技倆は一日一日と上達をするばかりであった。
こうして六年は経過した。葉之助は十八歳となり、一人前の男となった。
「おお葉之助か近う参れ」
ある日、それは夕方であったが、駿河守はこう云って鏡葉之助を膝近く呼んだ。
「は」と云って辷《すべ》り寄る。「何かご用でござりますか?」
「そちに吩咐《いいつ》けることがある」
駿河守は真面目《まじめ》に云う。
「は、何ご用でござりましょう?」
「今宵《こよい》妖怪《あやかし》を退治て参れ」
「して、妖怪と仰せられますは?」さすがの葉之助も不安そうに訊き返さざるを得なかった。
「そちも噂は聞いていよう。永く当家の金《かね》ご用を勤めるあの大鳥井紋兵衛の邸《やしき》へ、最近|繁々《しげしげ》妖怪|出《い》で紋兵衛を悩ますということであるが、当家にとっては功労ある男、ただし少しく強慾に過ぎ不人情の仕打ちもあるとかで、諸人の評判はよくないが、打ち棄《す》てて置くも気の毒なもの、そち参って力になるよう」
「は」
とは云ったが葉之助は、躊躇《ためら》わざるを得なかった。
いかにも彼はその噂を世間の評判で知っていた。久しい前から紋兵衛の邸へ異形《いぎょう》の怪物が集まって来て、泣いたり嚇《おど》したり懇願《こんがん》したり、果ては呪詛《のろい》の言葉を吐い
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