ッ」と云ったが憎々しく、「拙者の仕合振り、荒うござるぞ!」
「はい、充分においでくだされ」
「ふん」と三蔵は鼻で笑い、「いざ!」
と云って木剣を下ろした。
「いざ」と葉之助も竹刀を下ろす。一座|森然《しいん》と声もない。
とまれ三蔵は免許の腕前、血気盛んの三十八歳、代稽古をする身分である。いかに葉之助が巧いと云っても年齢ようやく十二歳、年の相違だけでも甚《はなは》だしい。それを木剣であしらうとは?
「大人気《おとなげ》ござらぬ石渡氏、おやめなされおやめなされ!」
と、二、三人の者が声を掛けたが、既《すで》にその時は立ち上がっていた。「もういけない!」と呼吸《いき》を呑む。
双方ピッタリ合青眼《あいせいがん》、相手の眼ばかり睨み付ける。
「うん、どうやら少しは出来る」葉之助は呟いた、「が俺には小敵だ」
「エイ!」
と珍らしく声をかけつと[#「つと」に傍点]一足前へ出た。
「ヤッ!」
と三蔵も声をかけたがつと[#「つと」に傍点]一足|後《あと》へ引いた。
双方無言で睨み合う。
「さて、どうしたものだろうな。思い切って打ち込むかとにかく相手は代稽古、俺に負けては気不味《きまず》かろう。と云ってこっちも負けられない。ええ構うものかひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]やれ。エイ!」
と云って一足進む。「ヤッ」と云って一足下がる。「エイ!」「ヤッ」「エイ!」「ヤッ」
押され押されて三蔵はピッタリ羽目板へへばりついて[#「へばりついて」に傍点]しまった。額からはタラタラ汗が流れる。ぼーッと眼の前が霞んで来た。ハッハッハッと呼吸《いき》も荒い。
当たって砕けろ! と三蔵は、うん[#「うん」に傍点]と諸手《もろて》で突いて出た、そこを小野派の払捨刀《ふっしゃとう》、ピシッと横から払い上げ、体の崩れへ付け込んで、真の真剣で顎《あご》へ発止《はっし》!
「カーッ」
ととたんにどこからともなく物凄い気合が掛かって来た。
六
アッと驚いた葉之助、一足後へ引き退がる。そこを狙って石渡三蔵左の肩を真っ向から……
「遅い!」
とまた同じ声がどこからともなく響いて来た。
「勝負なし!」
と声は続く。
その時正面の切り戸から悠然と立ち出でた小兵の人物、年格好は五十五、六、木綿の紋付に黄平《きひら》の袴《はかま》、左手《ゆんで》に一刀を引っさげてスッスッと刻《きざ》み足に進んで来る。
「石渡氏、何事でござる! 子供を相手に木剣の立ち合い、不都合千万、控えさっしゃい! あいや鏡葉之助殿、拙者は松崎清左衛門、当道場の主人《あるじ》でござる。お幼年にもかかわらず驚き入ったるお手のうち、いざこれよりは拙者お相手、お下がりあるな下がってはならぬ」
大小を置くと鉄扇《てっせん》を握り、場《じょう》の真ん中へ突っ立った。
場内シーンと静まり返り咳《しわぶき》一つするものはない。武者窓から射し込む陽の光。それさえ妙に澄み返っている。
葉之助もさすがに顔色を変えた。
名に負う松崎清左衛門といえば当時日本でも一流の剣客、彼《か》の将軍家お手直し役浅利又七郎と立ち合って互角無勝負の成績を上げ、男谷下総守《おだにしもうさのかみ》と戦っては三本のうち二本取り、さらに老後に至っては、北辰一刀流を編み出した千葉周作を向こうへ廻し、羽目板へまで押し付けてしまった。名利に恬淡《てんたん》出世を望まず、そのため田舎へ引っ込んではいるが剣客中での臥竜《がりょう》である。
今その人が鉄扇を構え、さあ来い来たれと云うのである。いかに葉之助が小天狗でもこれには圧倒されざるを得ない。
しかし今さら逃げも出来ぬ。
「先生ご免」
と竹刀を握り、小野派における万全の構え、両捨一用卍《りょうしゃいちようまんじ》に付けた。
「ははあ感心、守勢に出たな」
清左衛門は頷《うなず》きながら東軍流|無反《むそり》の構え、鉄扇を立てずに真っ直ぐに突き出しじっ[#「じっ」に傍点]と様子を窺《うかが》った。
「エイ!」
と一つ誘って見る。葉之助は動かない。
「ははあ、益※[#二の字点、1−2−22]堅くなったな……うむ、それにしても偉い覇気だ。構えを内から突き崩そうとしている。待てよ。ふうむ、これは驚いた。産まれながらの殺気がある。どうもこいつは剣呑《けんのん》だ。エイ!」
とまたも誘ってみたがやはり凝然《じっ》と動かない。
清左衛門は一歩進んだ。と葉之助は一歩下がる。間。じっとして動かない。と葉之助は一歩進んだ。と清左衛門が一歩退く。
「偉い。俺を押し返しおる。どうも恐ろしい向こう意気だ、しかも守勢を持ち耐《こた》えている。まごまごすると打ち込まれるぞ……これが十二の少年か? いや全く恐ろしい話だ。産まれながらの武辺者。まずこうとでも云わずばなるまい……とは云え余りに野性が多い。いわゆる磨かぬ宝玉じゃ……南条右近の三男と云うがこれは少々|眉唾物《まゆつばもの》だ。都育ちの室咲《むろざ》き剣術、なかなかもってそんなものではない……山から切り出した石材そっくり恐ろしく荒い剣法じゃ……そろそろ呼吸《いき》が荒くなって来たぞ、あまりに神気を凝《こ》らし過ぎどうやらこれは悶絶《もんぜつ》しそうだ。参った!」と云って鉄扇を引いた。
「はっ」と驚いた葉之助、トントンと二足前へ出たが、「参りましてござります!」
「前途有望、前途有望、将来益※[#二の字点、1−2−22]お励みなされ!」
「はい、有難う存じます」葉之助は汗を拭く。
「誰に従《つ》いて学ばれたな?」
「はい、父右近に従きまして」
「ははあ、そうしてそれ以外には?」
「師は父だけにござります」
「それは不思議、しかとさようかな?」
「何しに偽《いつわ》りを申しましょう」
「それにしては解《げ》せぬことがある」
清左衛門は首を捻った。
「未熟者ではござりまするが、今日よりご門弟にお加えくだされませ」
「いや」と、不思議にも清左衛門は、それを聞くと冷淡に云った。「少しく存ずる旨《むね》もあれば、門に加えることなり兼ねまする」
「……存ずる旨? 存ずる旨とは?」葉之助は気色《けしき》ばんだ。
「存ずる旨とは、読んで字の如しじゃ」
七
「葉之助、ちょっと参れ……聞けばお前は立川町の松崎道場で大勢を相手に腕立てしたと云うことであるが、よもや本当ではあるまいな?」
「は……本当でございます」
「なぜそのようなことをしたか」
「止むを得ない仕儀に立ち至りまして……」
「止むを得ない仕儀? どういう訳かな?」
「あらかじめ企《たくら》んだものと見え、道場の前へ差しかかりますと、ご門弟衆バラバラと立ち出で、無理|無態《むたい》に私を連れ込み、是非にと試合を望みましたれば……」
「おおさようか、是非に及ばぬの……噂によれば近藤、白井、山田等という門弟衆を、苦もなく打ち込んだということだが?」
「はい、相手が余り弱く……」
「うん、それで勝ったというか」
「つい勝ちましてございます」
「松崎殿とも立ち合ったそうだの」
「一手ご指南にあずかりました」
「松崎殿はお強いであろうな」
「まるで鬼神《きじん》でござります」
「そうであろうとも、あのお方などは古《いにしえ》の剣聖にも勝るとも劣らぬ、立派な腕前を持っておられる」
「ほとほと驚嘆致しました」
「お前の技倆《うで》も立派なものだな」
「いえ、お恥ずかしゅう存じます」
「さすがはご親父南条殿は小野派一刀流では天下の名人、松崎殿にも劣るまいが、その三男に産まれただけあって十二歳の小腕には過ぎた技倆《うでまえ》、私も嬉しく頼もしく思う」
「お褒めにあずかり、有難う存じます」
「しかし天下には名人も多い」
「は、さようでございます」
「決して慢心致してはならぬ」
「慢心は愚《おろ》か、今後は益※[#二の字点、1−2−22]、勉強致す意《つも》りにござります」
「他人との立ち合いも無用に致せ」
「心得ましてござります」
「負ければ恥、勝てば怨まれる、腕立てせぬが安全じゃ」
「仰《おお》せの通りにござります」
「松崎道場でのお前の振る舞い、家中もっぱら評判じゃ」
「恐縮の至りに存じます」
「今のところお前の方が評判もよければ同情者も多い」
「ははあさようでございますか」
「評判がよいとて油断は出来ぬ」
「いかにも油断は出来ませぬ」
「よい評判は悪くなりたがる」
「お言葉通りにござります」
「落ちた評判は取り返し悪《にく》い」
「落とさぬよう致したいもので」
「そこだ」
と弓之進は膝を打った。
「よく気が付いた。そうなくてはならぬ。ついては今後は白痴《ばか》になれ」
「は?」
と云って葉之助は思わずその眼を見張ったものである。
「今後は白痴になりますよう」
弓之進は再びこう云うとじっ[#「じっ」に傍点]と葉之助を見守った。
「どうだ葉之助、まだ解らぬかな?」
「お言葉は解っておりますが……」
「うむ、その意味が解らぬそうな。それでは一つ例を引こう。武士の亀鑑《きかん》大石良雄は昼行灯《ひるあんどん》であったそうな」
「お父上! ようやく解りました!」
「おお解ったか。それは重畳《ちょうじょう》」
「私昼行灯になりましょう」
「ハッハハハ、昼行灯になれよ」
「きっとなってお目にかけます」
「昼の行灯は馬鹿気たもの、人は笑っても憎みはしない」
「御意《ぎょい》の通りにござります」
「我が家は内藤家の二番家老、門地高ければ憎まれ易《やす》い。お前の性質は鋭ど過ぎ、これまた敵を作り易い。それを避けるには昼行灯に限る」
「昼行灯に限ります」
「お、白痴《ばか》になれよ白痴になれよ」
その時襖が静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。
「徒然《つれづれ》と存じお茶を淹《い》れました」
「お母様」
と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ!」
腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。
「まあこの子は」
とお石は驚き、「平素《いつも》に似ない行儀の悪さ、お前|白痴《ばか》におなりだね」
「アッハハハ、その呼吸《いき》呼吸《いき》!」
弓之進は手を拍《う》った。
「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい! アッハハハ」
八
内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性|濶達《かったつ》豪放で、しかも仁慈《じんじ》というのだから名君の部に属すべきお方、しかし、欠点は豪酒にあった。今日も酒々、明日も酒……こう云ったような有様である。
ある日弓之進が伺候《しこう》すると、
「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、近習《きんじゅう》として召し使い遣《つか》わす」
「これはこれは分に過ぎたる有難きご諚《じょう》ではござりますが、葉之助儀は脳弱く性来いささか白痴にござりますれば……」
「これこれ弓之進、痴《たわ》けたことを申すな!」
濶達の性質を露出《まるだ》しにして駿河守は怒鳴るように云った。
「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの技倆《うでまえ》になれるか!」
「恐らく怪我勝ちにござりましょう」
「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」
こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。
で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。
艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって且《か》つ凛々《りり》しい眼の配り方足の運び方、武道の精髄に食い入ったものである。
「何んのこれが白痴なものか」
駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。
しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら
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