が灯っていた。仄々と四辺が煙って見えた。
三人は階段を上って行った。
やがて三人は二重へ這入った。桁梁は初重と同じであった。天井まで一丈三尺。
網龕燈が灯っていた。
やがて三人は三重へ上った。南北桁行十三間、東西梁行十一間、高さ二丈四尺あった。
四重へ上り五重へ上った。
五重が天主閣の頂上であった。
二〇
桁行七間梁六間、天井までは一丈三尺、東西南北四方の壁に、二十四の狭間が穿たれてあった。
夕陽が狭間から射し込んでいた。
南面中央の狭間から、宗春は城下を見下ろした。お濠の水は燃えていた。七軒町、長者町、商家がベッタリ並んでいた。屋根の甍《いらか》が輝いていた。若宮あたりの寺々も、夕陽に燃えて明るかった。歩いている人が蟻のように見えた。
六十五万石の城下であった。広く豊かに拡がっていた。
宗春は何時迄も眺めていた。
「江戸に比べると小さなものだ」突然呻くように宗春は云った。「あわよくば将軍にも成れた俺だ。俺に執っては狭すぎる」突然宗春は哄笑した。「ワッハハハハ、六十五万石が何んだ、三家の筆頭が何うしたのだ! 貰い手があったら呉れてやろう。ふん何んの惜しいものか! それを何んぞや吉宗奴隠密を入れて窺うとは! 隠居させるならさせるがいい。秩禄没収それも可かろう。そうしたら俺は坊主になる。が決して経は読まぬ。眠剤ばかり喫んでやる」
この時香具師はソロソロと北面の狭間へ寄って行った。音を盗んだ擦足であった。閉ざされた狭間戸へ手を掛けた。一寸二寸と引き開けた。
お半の方は佇んでいた。右手を懐中へ差し入れた。何かしっかり[#「しっかり」に傍点]握ったらしい。眼は宗春を見詰めていた。頸の一所を見詰めていた。足音を盗みジリジリと、宗春の背後へ近寄った。と懐中から柄頭が覗いた。それは懐剣の柄頭であった。
香具師は狭間戸を二尺ほど開けた。
と体を飜えしポンと閣外《そと》へ飛び出した。閣外から狭間戸が閉ざされた。
宗春もお半も気が付かなかった。
宗春は城下を見下ろしていた。
お半の方は忍び寄った。スルリと懐剣を引き抜いた。それをソロソロと振り冠った。ピッタリと宗春へ寄り添った。
「お半」
と其時宗春が云った。悩ましいような声であった。
「俺の身に、いかなる変事があろうとも、お前だけは俺を見棄てまいな」
お半の方は一歩退った。ダラリと右の手を下へ垂れた。
尚城下を見下ろし乍ら、宗春は悩ましく云い続けた。
「お前と、眠剤とこれさえ有ったら、俺は他には何んにも不用《いら》ない」
お半の方は懐剣を落とした。床に中たって音を立てた。
はじめて宗春は振返った。
お半の方は首垂れた。その足下に懐剣があった。お半の方はくず[#「くず」に傍点]折れた。宗春には訳が解らなかった。お半の方と懐剣とを、茫然として見比べた。
長い両袖を床へ重ね、お半の方は額を宛てた。肩が細かく刻まれるのは、忍び泣いている証拠であった。
お半の方は顔を上げた。懐剣を取って差し出した。
「お手討ちになされて下さいまし」
お半の方は咽び乍ら云った。
「何故な?」
と宗春は不思議そうに訊いた。
「その懐剣は何うしたのだ?」
「はい、是でお殿様を……」
「ははあ俺を刺そうとしたのか?」
「……その代り妾もお後を追い……」
「うむ、心中というやつだな」
「……お弑《しい》し致さねばなりません。……お弑しすることは出来ません。……恨みあるお方! 恋しいお方! ……二道煩悩……迷った妾! ……お手討ちなされて下さいまし!」
「一体お前は何者だ?」
「妾の父はお殿様に……」
「可い可い」
と宗春は手を振った。
「云うな云うな、俺も聞かない。……
……父の仇、不倶戴天、こういう義理は小|五月蠅《うるさ》い。……訊きたいことが一つある。お前は将来も俺を狙うか?」
お半の方は黙っていた。
「殺せるものなら殺すがいい。殺されてやっても惜しくはない。だが、よもや殺せはしまい。……俺は野心を捨てるつもりだ。お前も義理を捨てて了え! 二つを捨てたら世のなかは住みよい。住みよい浮世で、活きようではないか。……俺には、お前が手放せないよ」
お半の方はつっ伏した。両手で宗春の足を抱いた。一生放さないというように。宗春は優しく見下ろした。その眼を上げて四辺を見た。
「や、香具師の姿が見えぬ。はてさて、性急に何処へ行ったものか?」
寺院で鳴らす梵鐘《かね》の音が、幽ながらも聞えて来た。夕陽が褪めて暗くなった。
二一
五重の天主の頂上の間の、狭間から飛び出した香具師は、壁へピッタリ背中を付け、力を罩めた足の指で、辷る甍を踏みしめ、四重目の家根[#「家根」はママ]を伝って行った。
剣先まで来て振り仰ぎ、屋根棟外れを眺めたのは、鯱を見ようためだろう。しかし、大屋根の庇に蔽われ、肝心の鯱は見えなかった。
「こいつあ見えねえのが当然だ」
呟くと一緒に香具師は、右手を懐中へグイと入れた。引き出した手に握られているのは、端に鉤の付いた髪編紐《かみひも》で「やっ」と叫ぶと宙へ投げた。夕陽で赤い空の面へ、スーッと放抛線が描かれたが、カチンと直ぐに音がした。鉤が大屋根の剣先へ、狙い違わず掛かったのである。
「よし」と云うと香具師はピーンと髪編紐を引いて見た。大丈夫だ! 切れはしない。
「よし」と最う一度呟くと、香具師は紐を手繰り出した。手繰るに連れて彼の体は、髪編紐の先へぶら下った。実に見事な手繰り振りで、そういう事には慣れているらしい。グングン大屋根の端まで上《の》したと、片手が端へかかる、グーッと体が海老反りになる、すると最う大屋根に立っていた。
急斜面の天主の屋根、立って歩くことは出来そうもない。腹這いになった香具師は、南側の鯱へ目星を付け、膝頭でジリジリと寄って行った。
その総高八尺三寸、その廻り六尺五寸、近付いて見れば今更らに鯱の見事さには驚かれる。
「さて」と云うと眼を爼《そば》め、胴の鱗を数え出した。
「うん、片側百十五枚、大鱗の大きさ七寸五分、小鱗の大きさ二寸五分。……よし、これには間違いが無い。……蛇腹の数十六枚。うむ、是にも間違いが無い。……次は耳だ、異変《かわり》が無ければよいが。……右耳一尺七寸五分、左の片耳一尺八寸……やれ有難い、間違いはない。……眉の長さ一尺六寸。うむ是にも間違いが無い。……さて両眼だが何どうだろう[#「何どうだろう」はママ]? [#底本では1字分のスペースがない]……や、有難い、定法通りだ。ちゃあんと八寸に出来ていらあ。……上下合わせて十六枚の歯よし是にも間違いが無い。……北側の鯱を調べてやろう」
屋根棟を伝わって走って行った。
鯱の背中へふん[#「ふん」に傍点]跨《またが》り、また香具師は調べ出した。
「いや有難え、変ったことも無い」
ホッと安心したように、こう呟いた香具師は、さすがに疲労を感じたと見え、額の汗を押し拭い、トントンと胸を叩いたものである。それから城下を見下ろした。
「絶景だなあ、素晴しい[#「素晴しい」はママ]や」
いかにも絶景に相違無かった。
百万石の加賀の金沢、七十七万石の薩摩の鹿児島、六十二万石の奥州の仙台、大大名の城下町は、名古屋の他にもあったけれど、名に負う名古屋は三家の筆頭、尾張大納言家の城下であって、江戸、大阪、京都を抜かしては、規模の広大、輪奐の美、人口の稠密比べるものがない。その大都が夕陽の下に、昼の活動から夜の活動へ入り込もうとして湧き立っていた。
ゴーッというような鈍い騒音――人声、足音、車馬の響き、そういうものが塊まって、そういう音を立てるのであろう。蜒《うね》り折《くね》った帯のように、町を横断しているのは、西村堀に相違ない。船が二三隻よっていた。寺々から梵鐘が鳴り出した。
「何んの不足があるんだろう?」香具師は声に出して呟いた。「これだけの大都の支配者じゃあ無いか? 結構すぎる程の身分じゃあ無いか……人間慾には限りはねえ。一つの慾を満足させりゃあ、つづいて最う一つの慾が起こる。そいつを果たすと最う一つ。で、一生止む時はねえ。……上を見れば限りはねえが、下を見ても限りはねえ。明日の生活に困るような、然ういう人間だってウザウザ居るその官位は中納言、その禄高は六十五万石、尾張の国の領主なら、不平も何も無い筈だがなあ。……将軍に成りてえのは道理としても、成ったら苦労が多かろうに。……だがマァそれは夫れとして、大岡越前守様が来ていようとは、俺に執っちゃあ寝耳に水だ! いや何うも驚いたなあ」じっと思案に耽ったが「兎も角俺の仕事も済んだ。どれソロソロ引き上げようか」
屋根の傾斜をソロソロと下った。髪編紐を伝わり四重の屋根へ、素早く香具師は下り立った。
「殿様、ゆっくり大屋根から、城下を眺めさせて戴きやした。えらい景気でございますなあ」
ヒョイと部屋の中へ飛び込んだ。
お半の方と宗春は驚いたように眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、100上−6]《みは》った。だが香具師も眼を※[#「目+爭」、読みは「みは」、第3水準1−88−85、100上−7]った。お半の方が泣き濡れて居り宗春がひどく[#「ひどく」に傍点]寂しそうに、悄然と立っているからであった。
二二
さて其夜のことである。
若松屋へ城中から使者が行った。
江戸の町奉行大岡忠相に、宗春話し度いことがある。夜分ではあるが登城するよう。――これが使者の口上であった。
「かしこまりましてございます」
白を切った所で仕方が無い。大岡越前守はお受けをした。
白石治右衛門、吉田三五郎、二人の家来に駕籠側を守らせ、越前守が登城したのは、それから間も無くのことであった。幅下門から榎多御門、番所を通ると中庭で、北へ行けば西之丸、東へ行けば西柏木門、そこから本丸へ行くことが出来た。どうしたものか本丸へは行かず、御蔵門から西之丸の方へ、越前守だけを案内した。
これには深い意味があった。と云うのは西之丸に、六棟の土蔵が立っているからで、それを見せようとしたのであった。
案内役は勘定奉行、北村彦右衛門と云って五十歳、思慮に富んだ武士であった。
こうして一之蔵へ差しかかったが、見れば扉が開いている。
如何にも越前守は驚いたように、蔵の前で俄に足を止めた。
「これは近来不用心、土蔵の扉が開いて居ります」
「お目に止まって恐縮千万」こうは云ったものの北村彦右衛門、内心では「締めた」と呟いた。「番士の者共の不注意でござる。併し内味が空っぽでは、つい警護も疎かになります」
「左様なこともございますまい。大納言様はご活達、随分派手なお生活を、致されるとは承わっては居るが、敬公様以来貯えられた黄金、莫大なものでございましょう」
「いやいや夫れもご先代迄で、当代になりましてからは不如意つづき、困ったものでございます」
二之御蔵、三之御蔵四、五、六の御蔵を過ぎたが、何の御蔵も用心手薄く、扉が半開きになっていたり番士が眠っていたりした。
透《すき》御門から御深井丸へ出、御旅蔵の東を抜け、不明門から本丸へ這入った。矢来門から玄関へかかり、中玄関から長廊下、行詰まった所が御殿である。
「暫くお控え[#「お控え」は底本では「お控へ」と誤記]下さいますよう」
山村彦右衛門は引っ込んだ。
一室に坐った大岡越前守、何やら思案に耽り乍ら、ジロジロ部屋の中を見廻わした。
御殿の中が騒がしい。歩き廻わる足音がする。何んとなく取り込んでいるらしい。
「大分狼狽しているようだ」ニンヤリ笑ったものである。「御殿の扉を開けて見せたり、番士を故意と、眠らせて見せたり、手数のかかった小刀細工、それで俺の眼を眩まそう[#底本では「呟まそう」]とは、些少《ちと》どうも児戯に過ぎる……いずれ御蔵内の黄金なども、何処かへ移したことだろうがさて何処へ移したかな? これは是非とも調べなければならない」
その時正面の襖が開いた。だが、一杯に開いたのではない、ほんの細目に開いたのであった。誰か隙見をしているらしい。
「無
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