天主閣の音
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)俚謡《りよう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)袷|帷子《かたびら》
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(数字は、底本のページと行数)
(例)あれ[#「あれ」に傍点]
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一
元文年間の物語。――
夜な夜な名古屋城の天主閣で、気味の悪い不思議な唸り声がした。
天主閣に就いて語ることにしよう。
「尾張名古屋は城で持つ」と、俚謡《りよう》にまでも唄われている、その名古屋の大城は、慶長十四年十一月から、同十六年十二月迄、約二ケ年の短日月で、造り上げた所の城であるが、豊公恩顧の二十余大名六百三十九万石に課し、金に糸目をつけさせずに、築城させたものであって、規模の宏壮要害の完備は、千代田城に次いで名高かった。
金鯱で有名な天主閣は、加藤清正が自分が請うて、独力で経営したものであって、八方正面を眼目とし、遠くは敵の状況を知り、近くは自軍の利便を摂する、完全無欠の建築であった。石積の高さ六間五尺、但し堀底からは十間五寸、その初重は七尺間で、南北桁行は十七間余、東西梁行は十五間三尺、さて土台の下端から五重の棟の上端までを計ると、十七間四尺七寸五分だが、是が東側となると、更に一層間数を増し、地上から棟の上端まで、二十四間七尺五分あった。
金鯱は棟の両端にあった。南鯱は雌でその高さ八尺三寸五分と註され、北鯱は雄で、稍《やや》大きく、高さ八尺五寸あった。木と鉛と銅と黄金と、四重張りの怪物で、製作に要した大判の額、一千九百四十枚、こいつを小判に直す時は、一万七千九百余両、ところで此金を現価に直すと、さあ一体どの位になろう? 鳥渡見当もつきかねる。名に負う慶長小判である。普通の小判とは質が異う。とまれ素晴らしい金額となろう。
その天主閣で奇怪な音が、夜な夜な聞えるというのであった。
だが毎晩聞えるのでは無く、月も星も無い嵐の晩に、愁々として聞えるのであった。
「金鯱が泣くのではあるまいかな?」などと天主番の武士達は、気味悪そうに囁いた。
「いずれ可く無い前兆だろうよ。……どうも些藩政が弛み過ぎたからな」
時の藩主は宗春で、先主継友の末弟であり、奥州梁川から宗家に入り、七代の主人となったものであった。末弟の宗春が宗家を継いだのには、鳥渡面白い事件がある。
享保元年のことであったが、七代の将軍家継が僅八歳で薨去した。そこで起こったのが継嗣問題で紀州吉宗を立てようとするものと、尾州継友を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」と誤記]ようとするものと、柳営の議論は二派に別れた。そうして最初は尾州側の方が紀州党よりも優勢であった。
[#底本では1字下げしていない]で継友も其家臣も大いに心を強くしていたが俄然形勢が変わり、紀州吉宗が乗り込むことになった。
尾州派の落胆は云う迄も無い。「だが一体どういう理由から、こう形勢が逆転したのだろう?」
研究せざる[#「せざる」は底本では「せぎる」と誤記]を得なかった。その結果或る事が発見された。家臣の中に内通者があって、それが家中の内情を、紀州家へ一々報告し、それを利用して紀州家では、巧妙な運動を行ったため、成功したのだということであった。
一千石の知行取、伴金太夫という者が、その内通者だということであった。
継友が如何に怒ったかは、説明するにも及ぶまい。だが是という証拠が無かった。処刑することが出来なかった。
この頃宗春は宗家にいた。
「兄上、私が討ち果たしましょう」こう彼は継友に云った。
その夜宗春は金太夫を召し寄せ、手ずから茶を立てて賜わった。金太夫が茶椀を捧げた途端「えい!」と宗春は一喝した。驚いた金太夫は茶椀を落し、宗春の衣裳を少し穢した。
「無礼者め!」と大喝し、宗春は一刀に金太夫を斬った。「それ一族を縛め取れ!」
そこで、一族は縛め取られ、不敬罪の名の下に、一人残らず殺された。
「宗春、よく為た。礼を云うぞ」継友は衷心から、喜んだものである。
その継友も八年後には、コロリと急死することになった。その死態が性急だったので、一藩の者は疑心を抱いた。「将軍吉宗の計略で無いかな?」――それは実に大正の今日まで、疑問とされている出来事であった。
臨終にのぞんで継友が云った。「宗春には恩がある。あれ[#「あれ」に傍点]を家督に据えるよう」
こういう事情で宗春は尾州宗家を継いだのであった。
爾来尾州家は幕府に対して、好感を持つ事が出来なかった。その上宗春は活達豪放、英雄の素質を持っていた。で事毎に反対した。
「ふん、江戸に負けるものか。江戸と同じ生活をしろ」
彼は夫れを実行した。如何に彼が豪放であり、如何に彼が派手好きであったか、古書から少しく抜萃《ぬく》ことにしよう。
二
「……諸事凡て江戸、大阪等、幕府直轄地同様の政治をなさんとせり。されば同年七月の盆踊には、早くも掛提灯、懸行燈《かけあんどう》等の華美に京都祗園会の庭景をしのばしめ、一踊りに金二両、又は一町で銀五十枚、三十枚、十五枚を与えて、是を見物するに至れり。嘗て近江より買ひ入れたる白牛に、鞍鐙、猩猩緋の装束をなし、御頭巾、唐人笠、御茶道衆に先をかつがせて、諸寺社へ参詣したりといふ。更に侯の豪華なる、紅裏袷|帷子《かたびら》、虎の皮羽織、虎の皮の御頭巾を用ひ、熱田参詣の際の如き、中納言、大納言よりも高位の御装束にて、弓矢御持ち遊ばされ、御乗馬御供矢大臣多く召連れたり。供廻り衆の行装亦数奇を極め、緋縮緬、紅繻子等の火打をさげ、大名縞又は浪に千鳥の染模様の衣服にて華美をつくしたり。
遊芸音曲の類を公許し、享保十六年には、橘町の歌舞伎の興行を許し、侯自らも見物するに至れり。従来かつて無かりし遊女町を西小路に起し、翌年更に是を富士原、葛原に設け、それより栄国寺前、橘町、東懸所前、主水《かこ》町、天王崎門前、幅下新道、南飴屋町、綿屋町等にも、京、大阪、伊勢等より遊女多く入り込み、随って各種の祭事此時より盛んなり」
「とみに城下は歌吹海となり、諸人昼夜の別無く芝居桟敷へ野郎子供を呼び、酒盛に追々遊女もつれ行き、寒中大晦日も忘れて遊びを事とす」
云々と云ったような有様であった。
が、彼が斯う云ったような、華美軟弱主義を執ったのには、一家の見識があったのであった。
無理想であったのでは無いのであった。
彼は夫れに就いて斯う云っている。
「すべて人といふものは、老たるも若きも、気にしまり[#「しまり」に傍点]とゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]なくては万事勤めがたく、中にも好色は本心の真実より出る故、飯食ふと同じ事なり。それ故其場所なければ男女しまり[#「しまり」に傍点]無し。平常召使い候女も却って遊女の如く成り、おのずから不義も多く出来、家の内も調はず、国の風俗までも悪くなりゆく事なり。此度所々に見物所、遊興所免許せしめたるは、諸人折々の気欝を散じ、相応の楽しみも出来、心も勇み、悪いたく[#「いたく」に傍点]固まりたる心も解け、子供いさかひ[#「いさかひ」に傍点]のやうになる儀もやみ、田舎風の士気を離れ、武芸は勿論、家業家職まで怠らず、万事融通のためなり」
元文元年の正月であった。
宗春は城内へ女歌舞伎を呼んだ。
二十人余りの女役者の中で、一際目立つ美人があった。高烏帽子《たてえぼし》を冠り水干を着、長太刀をはいて[#「はいて」に傍点]、「静」を舞った。年の頃は二十二三、豊満爛熟の年増盛りで、牡丹花のように妖艶であった。
「可いな」と宗春は心の中で云った。「俺の持物にしてやろう」
で、彼は侍臣へ訊いた。
「あの女の名は何んというな?」
「はは半太夫と申します」
「うむ、そうか、半太夫か。……姿も顔も美しいものだな」
「芸も神妙でございます」
「そうともそうとも立派な芸だ」
「一座の花形だと申しますことで」
その半太夫は舞い乍ら、宗春の方を流眄《ながしめ》に見た。そうして時々笑いかけさえした。媚に充ち充ちた態度であった。もし宗春が彼女の美に、幻惑陶酔すること無く、観察的に眼を走らせたとしたら、彼女が腹に一物あって、彼を魅せようとしていることに、屹度《きっと》感付いたに相違無い。だが宗春は溺れていた。そんな事には気が付かなかった。
その日暮れて興行が終え、夜の酒宴となった時、座頭はじめ主だった役者が、酒宴の席へ招かれた勿論その中には半太夫もいた。
所謂無礼講の乱痴気騒ぎが、夜明け近くまで行われたが、宴が撤せられた時、宗春と半太夫とは寝室へ隠れた。
そうして座頭は其代りとして、莫大な典物《はな》を頂戴した。
此夜は月も星も無く、宵から嵐が吹いていた。
で、天主閣の頂上では、例の唸り声が聞えていた。それは人間の呻き声にも聞え、鞭を振るような音にも聞えた。とまれ不穏の音であった。禍を想わせる声であった。
其夜以来半太夫は、城の大奥から出ないことになった。お半の方と名を改め、愛妾として囲われることになった。
宗春は断じて暗君では無かった。英雄的の名君で、支那の皇帝に譬《たと》えたなら、玄宗皇帝とよく似ていた。お半の方を得て以来は、両者は一層酷似した。玄宗皇帝が楊貴妃を得て、すっかり政事に興味を失い、日夜歓楽に耽ったように、宗春も愛妾お半の方を得て、すっかり藩政に飽きて了った。そうして日夜昏冥し、陶酔的酒色に浸るようになった。
三
聖燭節《せいしょくせつ》から節分になり、初午から針供養、そうして※[#「さんずい+(日/工)」、第4水準2−78−60、56下−12]槃会《ねはんえ》の季節となった。仏教の盛んな名古屋の城下は、読経の声で充たされた。
梅が盛りを過ごすようになり、彼岸桜が笑をこぼし、艶々しい椿が血を滴らせ、壺菫《つぼすみれ》が郊外で咲くようになった。
間もなく桜が咲き出した。そうして帰雁の頃となった。
或日宗春は軽装し、愛妾お半の方を連れ、他に二三人の供を従え、東照宮へ出かけて行った。彼には斯ういう趣味があった。一方豪奢な行列を調え、城下を堂々と練るかと思うと、他方軽輩の姿をして、地下の人達と交際《まじわる》のを、ひどく得意にして、好いたものである。
東照宮は長島町にあった。城を出ると眼の先であった。
境内の桜は満開で、花見の人で賑わっていた。赤前垂の茶屋女が、通りかけの人を呼んでいた。大道商人は屋台店をひらき、能弁に功能を述べていた。若い女達の花|簪《かんざし》、若い男達の道化仮面、笑う声、さざめく声、煮売屋の釜からは湯気が立ち、花見田楽の置店からは、名古屋味噌の香しい匂いがした。
「景気は可いな。実に陽気だ」宗春の心も浮き立って来た。ぴらり帽子で顔を包み、無紋の衣裳を着ているので、誰も藩主だと気の附くものがない。それが宗春には得意なのであった。
と、一人の四十格好の香具師《やし》が、爛漫と咲いた桜樹の根元に、風呂敷包を置き乍ら、非常に雄弁に喋舌っていた。
「さあお立合い聞いてくれ。いいや然うじゃあねえ見てくれだ。唐土渡りの建築模型、類と真似手のねえものだ。わざわざ長崎の唐人から、伝授をされて造った物だ。仇や疎かに思っちゃ不可ねえ。……尤も見るだけじゃお代は取らねえ。見るは法楽聞くも法楽! だからとっくり[#「とっくり」に傍点]見て行ってくんな。但し気に入った建築があって、買いたいというなら代は取る。そうして代価は仲々高え! 驚いちゃ不可ねえ一個百両だ! そりゃあ然うだろう屋敷を買うんだからな。それも素晴しい[#「素晴しい」はママ]屋敷なのだからな! ……何、なんだって! 高いって? アッハハハ然うかも知れねえ。百両と云やあ大金だ。大道商売の相場じゃねえ。よし来た夫れじゃ負ける事にしよう。それも気前よく負けてやる。一個一両とは是どうだ! 負けも負けたり大負けだ。百両から一両に下ったんだからな。この辺が大道の商売だ。平几張面[#「几張面」はママ]の商人にゃ[#「にゃ」は底本では「にや」と誤記]、しよう
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