味が悪くなったよ」
若松屋の主人仁右衛門は、もう一度如何にも気味悪そうに云った。「ねえ番頭さん、奥へ行って、お話のご様子を立ち聞きしておいでよ」
「へえ、お客様のお話をね」気の進まない様子であった。「失礼にあたりはしませんかね」
「そりゃあ解ったら失礼にあたるさ。解らないように立ち聞くのさ」
「あんまり可い役じゃございませんな」
番頭嘉一は不精無精に、足音を盗んで奥へ行った。
此処は奥の部屋であった。
三人が小声で話していた。
「吉田三五郎、どうであった?」
こう云ったのは四十がらみの男、一つか二つ若いかも知れない。商人風につくって[#「つくって」に傍点]はいるが、商人などとは思われない程、立派な風采の持主であった。
「殿、旨く参りました」
小間物屋喜助と宣って来た、三十がらみの若者が云った。「例の香具師を利用して、阿片をお城へ持たせてやりました」
「うむ然うか、それは可かった」殿と呼ばれる四十がらみの男は、微妙な薄笑いを浮かべたが、
「さて其例の香具師だが、雲切仁左衛門に相違無いかな?」
「どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ように思われます」
「で天主閣の唸き声は?」
「あれは滑稽でございました。大凧だったのでございます」
「そんな事だろうと思っていたよ」殿と呼ばれる四十男は、復も微妙に薄笑いをした。
「おそらく其凧で空へ上り、鯱鉾を盗ろうとしたのだろう」
「そんなようでございます。轆轤《ろくろ》仕掛の大凧で、随分精巧に出来て居ました」
「香具師も香具師だが尾張様には、随分乱行をなさるようだな」
「お半の方という側室を愛され、他愛が無いようでございます」
「うむ、他からもそんな[#「そんな」に傍点]事を聞いた」
「さて其側室のお半の方、容易ならぬ悪事を企んで居ります」
「ほほう然うか、どんな悪事だな?」
「はい殺人でございます」
「で、誰を殺そうとするのか?」
「はい、まだ、そこ迄は探って居りません」
「ああ然うか、それは残念、ひとつ其奴を探ってくれ」
「かしこまりましてございます」
「それは然うと御金蔵には、多額の黄金が有るそうだな?」
殿と呼ばれる四十男は、此処でキラキラと眼を光らせた。
「御三家筆頭の尾張様、唸る程黄金はございましょう」
三十がらみの男が云った。
「それが何うも可くないのだ。狂人に刄物という奴さ、不祥のことだが尾張様に、ご謀叛のお心などあった時、多額の軍用資金の貯えがあると、ちと事がむずかしくなる」
「ご尤もにございます」今迄じっと[#「じっと」に傍点]黙っていた三十四五の一人の男が、愁わしそうに合槌を打った。
「全く狂人に刄物だからな」四十男は繰り返した。
「将軍家も夫れをご心配になり、隠密として此俺を、こっそり名古屋へ入り込ませたのだが」
「如何でございましょう御金蔵の中を、何んとかしてお調べ遊ばしては?」
三十四、五の一人が云った。
「だが是は不可能だよ。俺は江戸の町奉行、江戸のことなら何うともなるが、此土地では何うも手も足も出せない」
「大岡越前守忠相と宣られ、ご機嫌をお伺いにご登城なされ、伝手にご金蔵をお調べになっては?」
「吉田三五郎、白石治右衛門、二人の股肱《ここう》を引き連れて、名古屋へこっそり[#「こっそり」に傍点]這入り込み、二流所の旅籠へ宿り、滞在していたとお聞になっては、尾張様にも快く思われまい」
「では何うして御金蔵の中を?」
三十四、五の一人物――即ち白石治右衛門が訊いた。
「まずゆっくり滞在し、機会を待つより仕方あるまい」
この時人の気勢がした。
廊下に誰かいるらしい。
辷るように歩く足音がした。
「殿、何者か、私達の話を、立ち聞きしたようでございます」
吉田三五郎は不安そうに云った。
「うむ」
と云ったが越前守は、気に掛けない様子であった。
一八
「旦那、大変でございますよ」
番頭の顔は蒼褪めていた。
「何んだい番頭さん大仰な」主人の仁右衛門は怪訝そうに訊いた。
「旦那、何んだじゃありませんよ。三人の江戸のお客様、大変な人達でございますよ」
「それじゃあ何かい兇状持かい?」
「飛んでもないことで、大岡様ですよ」此処で番頭は呼吸を継いだ。「大岡越前守様のご一行で」
そこで番頭は立聞をした、三人の話を物語った。
主人の仁右衛門は腕を組んだ。
「これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けないね。町役人迄届けて置こう」
「それが宜敷うございます」
そこで仁右衛門は家を出た。
仁右衛門の話を耳にすると、町役人は仰天した。
そこで上役に言上した。上役から奉行へ伝言した。奉行から家老へ伝言した。
成瀬隼人正、竹腰山城守、石河佐渡守、志水甲斐守、渡辺飛騨守の年寄衆は、額を集めて相談した。
「これは何うも大事件だ。江戸の町奉行が隠密となり、直々他領へ入り込むとは、曾て前例の無いことだ。これが普通の隠密なら、捕えて殺して了えば可いが、大岡越前守とあって見れば、そういう乱暴な手段も執れない。若松屋の番頭の立聞きに由れば、殿に謀叛の疑いがあり、御金蔵に貯えた黄金の額を主として調べに来たのだというから御金蔵の黄金を他所へ移しそれから逆に使者を遣わし、越前守を城中へ召し、夫れとなく御金蔵の内を見せ、安心させるのが可いだろう」
年寄の意見は斯う決まって主君《との》へ言上することにした。
この日宗春は奥御殿で、快い眠りに耽っていた。
その傍にお半がいた。これも矢張り眠っていた。
薄煙が部屋に立ち迷っていた。
四辺に散らしてあるものは、眠薬の壺と吹管であった。部屋には最う一人人がいた。それは他ならぬ香具師であった。お伽衆だという所で、自由に奥御殿へ出入ることが出来た。彼一人だけ眼覚めていた。二人の寝姿を真面目に見守り、膝に手を置いて考えていた。
襖の向うから声がした。
「お半の方様、お半の方様」取締りの老女の声であった。
「お半の方様はお休みで」こう香具師が代って答えた。
「おお、貴郎は香具師殿か。殿様はお居ででございましょうか?」
「へえへえお居ででございます。が、矢っ張りお休みで」
「直ぐにお起し下さいますよう」
「仲々お眼覚めなさいますまい」香具師は鳥渡嘲笑うように云った。
「よい夢の真最中一刻ぐらいは覚めますまい」
「それは何うも困りましたね。成瀬様が何事か急々に、言上致したいとか申しまして、只今おいででございます」
「成瀬様であろうと竹腰様であろうと、この夢ばかりは破れますまい。お待ちなさるようお伝え下され」此処で香具師はヘラヘラ笑った。
「が、それにしてもお前様は、どうしてそんな[#「そんな」に傍点]御寝所などで、何をしておいででございますな」老女の声は咎めるようであった。
「へえへえ私でございますかね、琥珀の夢、珊瑚の夢、極楽の夢、天国の夢、そういう夢の指南番、それを致して居りますので」
「何を莫迦な」と一言残し、老女の足音は向うへ消えた。香具師はペロリと舌を出した。
「これで仲々馬鹿でねえ奴さ」
二人の夢は覚めなかった。二度ばかり老女が聞きに来た。
「お気の毒さま。まだお寝んね」こう云って香具師は追い返した。
夕方二人は眼を覚ました。
「ああ綺麗な夢だった」だる[#「だる」に傍点]そうに宗春がこう云った。
「眠剤の功徳でございます」さも得意そうに香具師は云った。
「俺はお前へ礼を云うよ。全く此奴は可い薬だ。だが併し覚めた後は、ひどく万事が物憂くなる」
「可い後は悪いもので」こう香具師は笑い乍ら云った。「両方可いことはございません」
「政治を執るのが厭になった。眠剤ばかり喫んでいたい」
「大変結構でございます。御大名方と申す者は、決して決して御自分で、ご政治など執るものではございません」変に香具師は真面目に云った。「〈居附造りの築城〉もお止めなさるが可うございます」「そうさな」と宗春はだるそうに「〈居附造り〉と眠剤と、どっちを取るかと訊かれたら、俺は眠剤を取るだろう」
一九
そこへ老女が遣って来た。
「ナニ、成瀬が会いたいというのか。また、諫言かな、うるさい[#「うるさい」に傍点]事だ。会えないと云って断わって了え」
こう云ったものの立ち上った。
「あの渋っ面の成瀬奴に、ひとつ眠剤を喫ませてやろう」
手頼りない足どりで部屋を出た。
お半の方は考えていた。意外だというような顔付であった。囁くように香具師へ訊いた。
「これは毒薬では無いのかい?」
「滅相も無い」と香具師は云った。「唐土渡来の眠剤で」
「でも妾の頼んだのは、後に痕跡の残らない、毒薬の筈じゃあ無かったかい」
「何を仰有るやら、お半の方様」香具師は寧ろ唖然とした。「頼まれた覚えはございませんねえ」
「お止しよお止しよ、空っとぼける[#「とぼける」に傍点]のはね」お半の方は眉を上げた。「部屋にはお前と妾とだけ、聞いている人は無いじゃあないか。……あの時の約束は何うしたんだよ」
「どうも私にゃ、解りませんねえ」いよいよ香具師は驚いたらしい。「一体全体何時何処で、どんな約束を致しましたので?」
「ふん」と如何にも憎さげに、お半の方は鼻を鳴らした。「大悪党にも似合わない、飛んだお前は小心者だね。……だが然う白を切り出したら、突っ込んで行っても無駄だろう。では、あの話はあれだけにしよう。……それでは愈々この薬は、毒薬では無くて眠剤だね」
「毒薬で無い証拠には、殿様も貴女も其通り、娑婆にいるじゃあございませんか」
「成程ねえ、それは然うさ」お半の方はうっとり[#「うっとり」に傍点]とした「妾は綺麗な夢を見た。でも妾は思ったのさあれは決して夢では無くて、極楽浄土に相違無いとね」
「鳥渡お訊ね致しますがね」香具師は探ぐるように云い出した「ほんとに貴女様は眠剤を、毒だと思っていらしったので」
「あたりまえだよ。何を云うのさ」
「では何うして貴女様自身、毒をお飲みでございましたな?」
「ああ夫れはね」とお半の方は、物でも咽喉へつかえ[#「つかえ」に傍点]たように「一緒に死のうと思ったのさ」
「へえ、一緒に? 何人様と?」
「馬鹿だねえ、お前さんは!」叱※[#「口へん+它」、第3水準1−14−88、読みは「タ」、94上−20]するように嘲笑った。「誰と一緒に毒を喫んだか、お前さんには解らないのかい?」
「解って居りますよ。御殿様と……」
「それじゃあ夫れで可いじゃあないか」
「ふうん」と香具師は腕を組んだ。
お半の方は咽ぶように云った。
「恨みは恨み、恋は恋、妾に執ってはお殿様は、離れられないお方なのさ」
お半の方は項垂れた。
「……いよいよ毒薬で無いとすれば、別の手段を考えなければならない」これは心中で呟いたのであった。
そこへ宗春が帰って来た。何となく勝れない顔色であった。ムズと坐って考え込んだ。
「殿様、何か心配のことでも?」こう軟かく香具師は訊いた。
「うん」宗春は顎を杓った。「江戸の吉宗奴が俺を疑い、町奉行の大岡越前奴を、隠密として入り込ませたそうだ」
「あっ!」と香具師はのけぞった[#「のけぞった」に傍点]。「ひええ。大岡越前守様が!?[#「!?」は1マスに横並び]」彼の顔色は一変した。「で、殿様のご対策は?」
「逆手を使って越前奴を、今夜城中へ招くことにした」
宗春は不意に立ち上った「香具師来い! お半も参れ! 約束の天主閣を見せてやろう。……気が結ばれてムシャムシャする。天主へ上って気を晴らそう。高きに上って低きを見る。可い気持だ、さあさあ来い!」
荒々しく宗春は部屋を出た。
二人は後へ従った。
御殿から出ると後苑[#「後苑」は底本では「後宛」と誤記]であった。西北に小天守が立っていた。小天守の中へ這入って行った。東に進むと廻廊があった。それを真北へ進んで行った。その行き止まりに天主閣があった。入口に固めの番士がいた。宗春を見ると平伏した。尻眼にかけて三人は進んだ。
這入った所が初重であった。南北桁行十七間、東西梁行十五間、床から天井まで一丈二尺、腰に三角の隠し狭間、無数の長持が置いてあった。網龕燈
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