「真先に妾は訊きたいのさ。ああ、お前さんの本当の素性を」
 老人は返辞をしなかった。

     一四

「おやおや香具師さん黙っているのね。さては云うのが厭なのだね厭なものなら無理には聞かない。では此奴は引っ込まそうよ。その代り妾の素性だって、お前さんへは話さないからね。……お次はいよいよ本問題だ。ねえお前さん何んと思って、お前さんは尾張様へ取り入ったんだい?」
 だが矢張り老人は返辞をせずに黙っていた。すると女は笑声を上げた。
「おやおや復もや無言の行だ。こいつも云うのが厭だと見える。だがね、お前さん、妾にはね、そのお前さんの目的がちゃあんと解っているのだよ。嘘だと思うなら云ってあげようか? そうだ遠廻わしに云ってあげよう。あんまりむき出しに云われたらお前さんだって可い気持はしまい。……お前さん天主閣へ上りたいんだろう? 決して人を上らせない、天主閣の頂上へさ。ホ、ホ、ホ、ホ、お手の筋だろうねえ」
 女の声は暫く絶えた。
「さて」と女の声がした。「安心おしなさいよ邪魔はしないから。お前さんの出ようさえ気に入ったら妾の方から助けてもあげよう。そうさお殿様へ口添えして、上ることの出来るようにしてあげよう。だが只じゃあ真平だよ。物事には報酬がある。そいつを妾は貰い度いのさ。つまり換っこという訳さ。ねえ、お前さん何うだろう?」
「さあ」と老人はくすぐった[#「くすぐった」に傍点]そうに「私に出来ることならね」
「そりゃあ出来るとも、お手の物なのさ」
「で、一体どんなことかな?」
「妾は人一人殺し度いのさ」
「ほほう」と老人は驚いたように云った。
「私に手助けでもしろって云うのか?」
「まあね、そうだよ、間接にはね」
「どんなことをすれば可いのかい?」
「機械を一つ造っておくれな」
「何、機械? どんな機械だ?」
「人を殺す機械だあね」
「匕首《あいくち》で土手っ腹を刳るがいいやな」
「そうしたら人に知れるじゃあないか」
「それじゃあ殺しても、殺したということの解らないような、そういう機械が欲しいのだな?」
「金的だよ、大中り」女の笑う声がした。「お前さんには出来る筈だ。人の心を見抜く機械、それを造ったお前さんじゃないか」
 老人は暫く考えていた。
「だがな」と老人は軈て云った。「機械よりも薬の方がいい」
「毒薬なら痕跡を残すだろうに」
「残らないような薬もある」
「ああ然うかい、それは有難いねえ。妾ァどっちでもいいのだ。では其薬を妾にお呉んな」
「今は無い、二三日待て」
「ああ待つとも待ってあげよう。お前も随分の悪党だ。妾だって是れでお姫様じゃあ無い。悪党同志の約束だ。冥利に外れたこともしまい。では二三日待つことにしよう。……では妾は帰って行くよ」
 出入口の蓋が退けられた。女の立ち去る気勢がした。老人は注意して床下を出た。表の方へ行って見た。一丁の駕籠が走っていた。
 老人は再び裏へ廻り、出入口の蓋をした。それから三日月を肩に負い、自分の屋敷へ引っ返して行った。

 南蛮温室の寝台の上で、尚香具師は眠っていた。
 と、ノロノロと身を蜒《うね》らした。軈て幽に眼を開いた。一つ大きな欠伸をした。
「ああ素晴らしい夢を見た。……だが何うも体が怠い」寝台の上へ起き上った。
「お若いの、どうだった?」その時側で人声がした。そこに老人が立っていた。気味悪くニヤニヤ笑っていた。
「おお老人、其処にいたのか。全くお前さんの云う通り、この眠剤は素晴らしいね。俺はすっかり驚いて了った」
「音楽の音が聞えたろう」
「おお聞えたとも、聞えたとも、何んと云ったら可かろうなあ、迚《とて》も言葉では云い現せねえ」
「美しい景色が見えたろう」
「天国と極楽と竜宮とを、一緒にしたような景色だった。……だが何うも体が怠い」
「そいつあ何うも仕方がねえ。この眠剤の性質だからな」
「俺は動くのが厭になった」
「アッハッハッハッ然うだろうて。そいつも眠剤の性質だ」
「俺は働くのが厭になった」
「アッハッハッハッ然うだろうて。そいつも眠剤の性質だ」
「俺は動かず働かず、眠剤ばかりを飲んでいたい」
「いと易いことだ、持って行きねえ。沢山眠剤を持って行きねえ。伝手《ついで》に吹管を持って行きねえ。そうだ二三本持って行きねえ」
「や、そいつあ有難え。では、遠慮無く貰って行こう」
「いいともいいともさあ持ってけ」

     一五

 老人は二本の吹管と、箱に詰めた眠剤とを取り出して来た。
「ところで」と老人は笑い乍ら云った「お前、尾張様へ取り入っているそうだな」
「うん」と云ったが渋面を作った。
「どうやらお愛妾お半の方と、仲が悪いということだが」
「そんなこと迄知ってるのか?」
「そこはお前蛇の道は蛇だ。そんな事ぐらい解っているよ」
「へえ然うかい、驚いたなあ」香具師は不快な顔をした。「だが一体お前さんは、どういう素性の人間なんだい?」
「そいつあお互云わねえ方がいい。その中自然と解るだろうよ」
「兎に角只の鼠じゃあねえな」
「ナーニ案外白鼠かもしれねえ」
「どう致しまして、大悪党だろう」
「お前こそ何ういう人間なんだい?」老人はヘラヘラ笑い乍ら訊いた。
「お前が云えば俺も云うよ」
「まあまあ夫れは此次にしよう。お互浅黄の頭巾を脱ぐと、気不味いことが起るかもしれねえ。……それは然うとお半の方だが、お前に何か目算があるなら、仲宜くした方が宜かろうぜ。女子と小人は養い難し、その辺から綻びが出来るかもしれねえ」
「ご忠告か、有難えなあ」俄に香具師は苦笑した。
「悪いことは云わねえ。機嫌を取って置きな。それには眠剤が一番いい。吹管を付けて献上して見るさ」
「うん、可いかもしれねえなあ」香具師は鳥渡頷いた。
「ではお別れとやらかそうぜ」
「おお大分遅くなった。では俺等は帰るとしよう。左様ならばご老体」
「もうお帰りか、復の逢う瀬」
「アッハッハッハッ芝居がかりだ。だが爺さんじゃあ色気がねえ」
「何んだ何んだ物を貰って、小言を云う奴があるものか」
「そこらが悪党と云うものさ」香具師は温室を出て行った。「じゃあ爺さん復来るぜ」
 老人は返辞をしなかった。
 香具師はスタスタと行って了った。
「やれやれ」と老人は呟き乍ら、寝台へトンと腰を下ろした。「俺の大役も済んだらしい」
 ヒョイと頭へ手をやった。と、白髪の鬘が取れた。その手で顔をツルリと撫でた。と、若々しい顔になった。
 三十前後の壮漢が、老人の殼から抜けて出た。

 その翌日のことであった。
 香具師はお城へ出かけて行った。
「おお香具師か、よく参った」尾張宗春は愛想よく云った。
「さて殿様」と香具師は、気恥しそうに小鬢を掻いた。「ええご愛妾お半の方様へ、献上物を致し度いので」
「ほほう」と宗春は呆れたように「これは不思議だ、どうしたことだ、お前とお半は仲悪ではないか?」
「はい左様でございます。で仲宜く致したいので」
「おお然うか、それは結構。同じ俺に仕えている者が、仲が悪くては気持が悪い。仲宜くしたいとは宜く云った。よしよしお半を呼ぶことにしよう。……これよ、誰かお半を呼べ」
 間も無くお半の方が来た。
「これはこれはお半の方様、ご機嫌よろしう[#「しう」はママ]ございます」ニタニタ香具師は世辞笑いをした。
「これこれお半、香具師がな、お前に何か呉れるそうだ。それを機会に仲宜くするよう」
「まあまあ左様でございますか。この妾への下され物、さあ何んでございましょう」お半の方は柔かく笑った。
「はいはいこれでございます」
 壺と吹管とを取り出した。
「唐土渡来の幻覚眠剤、この吹管へ詰めまして、寝乍ら一服喫いますと、何とも云えない美しい夢を見つづけるのでございます」
「これはこれは不思議な薬、ほんとに可い物を下さいました」お半の方の涼しい眼が、この瞬間キラキラと光った。
「香具師、そいつは本当かな」宗春は如何にも興ありそうに「本当にそんな夢を見るのかい?」
「何んの偽り申しましょう。極楽の夢、お伽噺の夢、珊瑚の夢、琥珀の夢、はいはい見えるのでございますとも」
「俺も一服喫って見たいものだ」
「では今晩めしあがりませ」お半の方は意味ありそうに云った。

     一六

「ねえ殿様」とお半の方は、溶けるような媚を作り「いろいろ珍らしい機械だの、眠剤などを戴いた上は、何か此方からも香具師殿へ差し上げなければなりますまい」
「うん、いい所へ気が付いた。お前何か欲しいものは無いか」
「はいはい有難う存じます。さあ只今は是と申して……」
「ふうん無いのか、慾の無い奴だな」
「おお殿様、こうなさりませ」お半の方が口を出した。「物慾の無い香具師殿、物を遣っても喜びますまい。それよりご禁制の天主閣の頂上へ上るのをお許しになり」
「これこれお半、それは不可ない」宗春は鳥渡驚いたらしく「家来共が苦情を云おう」
「ホッホッホッホッ」とお半は笑った。「六十五万石のお殿様が、家来にご遠慮遊ばすので」
「莫迦を云え」と厭な顔をした。「何んの家来に遠慮するものか」
「ではお礼として香具師殿を、天主閣へお上《のぼ》せなさりませ」
「香具師、お前は何う思うな?」
「これは結構でございますなあ。あの高いお天主へ上り、名古屋の城下を眺めましたら、さぞ可い気持でございましょう」香具師の眼はギロリと光った。
「うん望みなら上らせてやろう。よし家来共が何を云おうと、一睨みしたら形が付く」
「はいはい左様でございますとも」お半の方はニンヤリと笑った。「香具師殿。お礼でございます」
「お半の方様ありがたいことで」
 こう香具師は嬉しそうに云ったが、腹の中では不思議であった。
「ははあ余っぽど眠剤が、気に入ったものと思われる。成程なあ、あの老人流石に可い事を教えてくれた。こう覿《てき》面にあの薬が、利目があろうとは思わなかった。兎まれ天主閣へ上れるなら、こんな有難え事はねえ。いよいよ大願成就かな」

 大須観音境内は、江戸で云えば浅草であった。
 その附近に若松屋という、二流所の商人宿があった。
 久しい以前から其宿に、江戸の客が二人泊っていた。帳場の主人や番頭は多年の経験から二人の客を、怪しいと睨んでいた。
「どうも商人とは思われないね」
「と云って職人では勿論無し」
「そうして、二人は、友達だと云うが、そんなようにも見えないね」
「あれは主従に相違ありません」
「主人と思われる一人の方は、お大名様のように何となく威厳があるね」
「いや全く恐ろしいような威厳で」
「二人とも立派なお武士《さむらい》さんらしい」
「ひょっとかすると水戸様の、ご微行かなんかじゃあ有りますまいかな。それ一人は光圀様で、もう一人が朝比奈弥太郎」
「莫迦をお云いな、何を云うのだ。水戸黄門光圀様なら、とうの昔にお逝去れだ」
「あっ、成程、時代が違う」
「それは然うと今日はやって来ないね、いつも遣って来る変な老人は」
「そうです今日は来ないようです」
「あれも気味の悪い老人だね」
「年から云えば八十にもなろうか、それでいて酷くピンシャンしています」
「あの人の方が光圀様のようだ」
 これが帳場での噂であった。
 或日元気の可い三十がらみ[#「がらみ」に傍点]の、商人風の男が、ひょこりと店先へ立った。
「鳥渡お訊ね致します」
「へえへえ何んでございますかね」
「お家に江戸のお客様が、お二人泊って居られましょうね?」
「へえ、お泊りでございます」
「私は江戸の小間物屋で、喜助と申す者でございますが、鳥渡お二人様にお目にかかりたいんだ」
「鳥渡お待ちを」
 と云いすてて、番頭は奥の方へ小走って行った。
 と、すぐに引っ返して来た。
「お目にかかるそうでございます」
「ご免下さい」
 と男は上った。
 後を見送った帳場の主人は、首を捻ったものである。
「どうも此奴も小間物屋じゃあねえ」
 そこへ番頭が帰って来た。
「今のお客様を何う思うね?」
「さあ」番頭も首を捻った。「矢っ張り何うもお武士さんのようで」
「私は何んだか気味が悪くなったよ」
 主人は眼尻へ皺を寄せた。

     一七

「私は何んだか気
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