ましてな……」
こう云って忠蔵は居住いを正し、真っ昼間ながら四辺《あたり》を見廻し、
「それで家中《うちじゅう》もうすっかり怖気《おぞけ》を揮《ふる》っておりますので」
「で何かな、その老人は、どこから来るのか解らぬのかな?」
「へい、それがあなた解るくらいなら……」
「そうさな、恐ろしくもないわけだな……でそれでは今日まで後を尾行《つけ》た事もないのだな?」
「そんな事、かりにも出来ますようなら家内一同夜になるとああまでしょげ[#「しょげ」に傍点]返りは致しませぬので……」
本所の七不思議
主馬はちょっと頷《うなず》いてそれから小声で笑ったが、
「忠蔵、安心するがよいわ。それがし今夜朋輩と参って曲者の正体見現わしてくりょうに」
「どうぞお願い致します」忠蔵は喜んで頭を下げた。
「弓の方は期日までに頼んだぞ」
「それはもう承知でございます」
「化物《ばけもの》沙汰に心を奪われ商売の方を疎《おろそ》かにしては商人《あきゅうど》冥利に尽きるというものだ――それでは今夜参ると致そう」
「よろしくお願い致します」
主馬はそのまま立ち去って行ったがはたして夜になると、朋輩二人を連れ、弓師左衛門の家へやって来た。
左衛門夫婦も挨拶に出て雑談に時を費したがいつもの時刻に近付くと怱々《そうそう》夫婦は引き退り後には主馬と朋輩の武士と忠蔵達が五、六人店を通して土間の見える職人部屋に残っていた。
夜はしんしんと更けて来た。何となく物凄く思われるかして主馬を初め集まっている者は、次第に言葉数が少くなった。とその時表戸をトントントントンと叩く音がする。ハッと皆は眼を見合わせむっ[#「むっ」に傍点]と一時に呼吸《いき》を呑んだ。
それでもさすがは武士だけに主馬は躊躇《ちゅうちょ》もせず立ち上がり、がちり[#「がちり」に傍点]と閂《かんぬき》を取り外した。まず細い手があらわれる。それから半身が浮き出して来る。泳ぐような歩き方ではいって来るとその老武士は云うのであった。
「弓弦《ゆづる》を一筋……」と消えるような声で、
「ヘーイ」
と忠蔵は顫えながら云った。
「小中黒の征矢三筋……」
「ヘーイ」
と忠蔵はまた応じた。
くるり[#「くるり」に傍点]と老武士は方向《むき》を変えると吸われるように潜戸《くぐり》の隙から戸外《そと》の夜の闇にまぎれ込んだ。
「方々」と主馬は
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング