声をかけた。どうやらその声には生気がない。それでも自身真っ先に立って同じ潜戸から戸外へ出た。首うな[#「うな」に傍点]垂れた老武士は星月夜の道をスースーと三間ばかり彼方《かなた》を歩いている。主馬と朋輩と三人の武士は穿いている雪駄《せった》の音さえ忍ばせ着かず離れず慕い寄った。
ものの半町も行った頃、その老武士は右へ曲がった。で三人も右へ曲がった。右へ曲がってまた半町老武士はスースーと歩いたが、そこでピタリと足を止めた。と門の開く音がして左側の家並の一所からふと人声が聞こえたかと思うと老武士の姿は見えなくなった。
「…………」
三人は黙って顔見合わせた。それから静かに足を運び老武士の姿の消えた辺まで用心しながら近付いた。
道場構えの一宇の屋敷がそこに広々と立っている。森然《しん》と四辺《あたり》は物寂しくもちろん燈火《ともしび》の影さえもない。三人はしばらく彳《たたず》んだまま余りの不思議さに言葉も出ない。彼ら三人は三人ながらこの辺の地理には慣れている。そしてほとんど毎日のようにこの往来も通っているのである。それにもかかわらずこんな所にこんな立派な道場屋敷の建っているということを一度もこれまで見たことがない。
「どうも不思議だ」とまず主馬が朋輩の一人へ話しかけた。「たしかここには柏屋という染め物店があった筈だのに……」
「さようさ、全く不思議だの」話しかけられた主馬の朋友の南条紋太郎が頷《うなず》きながら、「しかも拙者は今日昼頃たしかにこの前を通った筈じゃ。そしてその時はその柏屋がちゃんと店を開いていたのじゃ。いかに大江戸は素早いと云ってもものの一日と経たないうちに格子造りの染め物店が黒門|厳《いか》めしい武家屋敷となるとはちとどうも受け取れぬ話じゃわい」
「さては狐狸にでもつままれたかの」――もう一人の朋輩荒木内記は呻くような声でこう云った。
「全体どうも本所という土地が化物《ばけもの》には縁の近い土地での。それ本所の七不思議と云って狸囃しにおいてけ[#「おいてけ」に傍点]堀片葉の芦《あし》に天井の毛脛、ええとそれから足洗い屋敷か……どうもここにあるこの屋敷もそのうちの一つではあるまいかの?」
「馬鹿を云わっしゃい、臆病千万」
と主馬は一口に打ち消したが、その実やはり心のうちではそいつ[#「そいつ」に傍点]を考えていたのであった。
「主馬殿、ともかくも帰っ
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