上がった。と、潜戸がスーと開いて、まず痩せこけた蒼白い手が指先ばかりチラリと見え、それから古ぼけた帷子《かたびら》姿を半身ぼんやりと浮かばせるとツト片足が框《かまち》を跨ぎ続いて後の半身がヨロヨロと土間へはいって来た。
顔は胸まで俯向《うつむ》いている。雪のように白い頭髪《かみのけ》を二房たらりと額際《ひたいぎわ》から垂らし、どうやら髻《もとどり》も千切れているらしく髷《まげ》はガックリと小鬢へ逸《そ》れ歩くにつれて顫えるのである。身長《みたけ》勝《すぐ》れて高くはあるが枯木のように水気がなく動くたびに骨が鳴りそうである。左の肩をトンと落とし腕はだらり[#「だらり」に傍点]と脇に下げ心持ち聳《そび》やかした右の肩を苦しそうな呼吸《いき》の出し入れによって小刻みに波のように動かすのである。所々|剥《は》げた蝋鞘《ろざや》の大小を見栄もなくグッタリと落とし差しにして、長く曳いた裾で踵《かかと》を隠し泳ぐようにスースーと歩いて来る。
ほとんどどこにも生気がない。老武士《おいぶし》その人にないばかりでなくその老武士がはいって来ると共に総《あらゆ》る物が生気を失い陰々たる鬼気に襲われるのであった。店に飾ってある弓や矢や点《とも》されてある行燈《あんどん》までぼっ[#「ぼっ」に傍点]と光を失ってしまう。
老武士は顔を埋ずめたまま店先までスーと寄って来たが余韻のない嗄《しわが》れた低い声で、
「弓弦《ゆづる》を一筋……」と咽《むせ》ぶように云った。
「へーい」
と忠蔵は応じたが何がなしに総身ゾッとして、木箱《はこ》を探る手が顫えたのである。それでも弓弦を差し出すと、また同じ声同じ調子で、
「小中黒の征矢《そや》三筋……」
「…………」今度は忠蔵は言葉もなく云われた矢を取って差し出した。と老武士は小手を振ったがこれは鳥目《ちょうもく》を投げたので、投げたその手で二品を掴むとクルリと老武士は方向《むき》を変え、そのスースーと泳ぐような足で開いたままの潜戸《くぐり》から煙りのように闇夜の戸外《そと》へ消えて行った。
その翌日のことである――
「ほんとかな? それは? その噂は? ふうむ、不思議な老人じゃの……」
誂《あつら》えた弓をわざわざ見に来た旗本の次男|恩地主馬《おんちしゅめ》は声をはずませてこう訊いた。
「ほんとも本当、昨夜《ゆうべ》で十日、きまって参るのでござり
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