蘭《しらん》の花が咲いている。矢車の花が咲いている。九|輪草《りんそう》[#ルビの「りんそう」は底本では「りんさう」]が咲いている。そこへ夕陽が射している。啼いているのは老鶯である。と、駒鳥の啼声もした。
それらの物を蔽うようにして、高々と空に聳えているのは、南蛮寺の塔であった。夕陽を纏っているからであろう、塔の頂が光っている。
「これからどうしたらいいだろう?」ふと民弥は呟いた。「お父様は南蛮寺へお送りした。だからその方の心配はない。でもお父様がおいでなされない以上、誰も稼いでくれ手はない。妾《わたし》のお家は貧乏だ。食べるものにさえ事欠いている。どうしてこれから食べて行こう? 妾が町へ出て行って物乞いしなければならないかしら? でも妾は恥かしい。妾にはそんな事出来はしない。でも稼がなければ食べられない。お裁縫でもしようかしら? でも頼み手があるだろうか? ……南蛮寺の謎を解き明かせた、研究材料さえ目つかれば、安土に居られる信長卿が、高価にお買い取り下さると、右近丸様は仰有《おっしゃ》ったけれど、何時になったら研究材料が目付かるものやら見当がつかない。……これから毎日右近丸様が、お訪ね下さるとはいうけれど、生活《くらし》のことまでご相談は出来ない。ああどうしたらいいだろう?」
民弥はこれからの生活について心を傷めているのであった。
その民弥の苦しい心を、見抜いて現われて出たかのように、窓からヒョッコリ顔を出したのは、古道具買に身を※[#「にんべん+肖」、第4水準2−1−52]《やつ》した、香具師《やし》の親方|猪右衛門《ししえもん》であった。
ジロジロ室《へや》の中を覗いたが、声を張り上げると云ったものである。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」諂《へつら》うように笑ったが「これはこれはお嬢様、綺麗な人形がございますな。お売り下さい買いましょう。小判一枚に青差一本、それで買うことに致しましょう」ここでヒョッコリとお辞儀をしたが、その眼では卓の上の人形を、じっと睨んでいるのであった。
13[#「13」は縦中横]
小判一枚に青差一本! これは実際|民弥《たみや》にとっては、大変もない誘惑であった。それだけの金が今あったら、相当永く生活《くらす》ことが出来る。そこで民弥は考えた。
「この人形を大事にしろ!」こうお父様は仰有ったけれど、どういう
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