《わか》らない」
 ハッキリ解っていることは、可愛がってくれたお父様が、死んでしまったということであった。一人の父! 一人の娘! 母もなければ兄弟もない。親戚《みより》もなければ知己《しりびと》もない。で、お父様の死んだ今は、民弥は文字通り一人ぼっち[#「ぼっち」に傍点]であった。その上|生活《くらし》は貧しかった。明日の食物さえないのである。
 どうするだろう? 可哀そうな民弥?
「お父様!」と叫ぶと新しく涙、澪すと同時に泣き倒れた。
 どんなに民弥が気丈でも、その程度には限りがある。泣き倒れたのは当然と云えよう。父の冷たい額の上へ、熱で燃えるような額を宛て、民弥はいつ迄もいつ迄も泣く。
 どんどん春の夜は更けていく。咽び泣く民弥の声ばかりが、その春の夜へ糸を引く。泣き死んでしまうのではないだろうか? いつ迄もいつ迄もいつ迄も泣く。
 だがこのとき、庭の方から、厳かに呼びかける声がして、それが悲しめる民弥の心を、一瞬の間に慰めた。
「悲しめる者よ、救われなければならない。……民弥よ民弥よ嘆くには及ばぬ。……父の死骸は南蛮寺へ葬れ!」
 それはこういう声であった。
 窓の向こうに人影がある。月光の中に立っている。輪廓だけが朦朧と見える。痩せてはいるが身長《たけ》高く、黒の法衣を纏っている。日本の僧侶の法衣ではない。吉利支丹《きりしたん》僧侶の法衣である。胸に何物か輝いている。銀の十字架が月光を吸い、キラキラ輝いているらしい。非常な老人と思われる。肩に白髪が渦巻いている。胸に白髯《はくぜん》が戦《そよ》いでいる。
「ああ貴郎《あなた》様はオルガンチノ僧正!」
 その神々しさに打たれたのだろう、民弥は思わず合掌したが、ちょうどこの頃京は八条四ツ塚の辺りの一軒の家で、風変わりの二人の男女によって、こんな会話が交わされていた。



「随分遅いな、猿若は」
 こう云ったのは男である。四十格好、大兵肥満、顔はというにかなり凄い。高い段鼻、二重顎、巨大な出眼、酷薄らしい口、荒い頬髯《ほほひげ》を逆立てている。その上額に向こう傷がある。これが人相を険悪に見せる。広袖《ひろそで》を着、胸を寛《くつろ》げ、頬肘を突いて寝ころんでいる。一見|香具師《やし》の親方である。
「そりゃアお前さん遅いはずさ、あれだけの仕事をするんだからね」
 こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっと
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