は喉を濡らすことにした。
女が渋茶を持って来た。ふと見ると弓之助の正面に、一人の老武士が腰かけていた。雪白の髪を総髪に結んだ、無髯《むぜん》童顔の威厳のある顔が、まず弓之助の眼を惹いた。左の眉毛の眉尻に、豌豆ほどの黒子《ほくろ》があった。
「はてな?」と弓之助は呟いた。武士の眼使いが変だからであった。顔を正面に向けながら、瞳だけをそっと眼角へ送り、じっと何かを見ているのであった。他人に気取られずに物を見る。――こういう見方で見ているのであった。「これはおかしい」と思いながら、老人の瞳の向いている方へ、弓之助はこっそり[#「こっそり」に傍点]眼をやった。そっちに小座敷が出来ていた。そこに二人の町人がいた。その一人のやっている事が、弓之助の心をちょっとそそ[#「そそ」に傍点]った。茶飲み茶椀と土瓶とで、変な芸当をしているのであった。茶椀の数は十個あった。しかし土瓶は一個しかなかった。その十個の茶飲み茶椀を、ある時はズラリと一列に並べある時はタラタラと二列に並べ、または方形にまたは弧形に、そうかと思うと向かい合わせたりした。そのつど土瓶の位置が変わった。非常に手早くやるのであった。いったい何をしているのだろう? そうやって遊んでいるのだろうか? 座敷の隅で、チビチビ酒を飲んでいた。見ているような見ていないような、不得要領な眼使いを一人の町人はして、茶椀の変化へ眼を付けていた。二人は懇意の仲とも見え、また全くの他人とも見えた。そういう不思議な茶椀の芸当が、しばらくの間繰り返された後、二人の町人は茶屋を出た。ややあって老武士が編笠を冠《かぶ》った。
「銅銭会の茶椀陣」こう老武士は呟くようにいった。それから茶屋を出て行った。
「銅銭会の茶椀陣」老人の言葉をなぞ[#「なぞ」に傍点]って見たが、弓之助には意味がわからなかった。しかし何んとなく心に掛かった。意味を確かめて見たかった。そこで老武士の後を追った。
もうそれは夕暮れであった。花見帰りの人々が、ふざけながら往来を練っていた。老武士はズンズン歩いていった。足は谷中へ向いていた。この時代の谷中辺はただ一面の田畑であった。飛び飛びに藁葺《わらぶ》きの百姓家があった。ぼんやり春の月が出た。と一軒の屋敷があった。大名方の控え屋敷と見え、数寄《すき》の中にも厳《いか》めしい構え、黒板塀がめぐらしてあった。裏門の潜戸《くぐり》がギーと
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