開いた。老武士の姿が吸いこまれた。
「いったい誰の屋敷だろう?」ここまで尾行《つけ》て来た弓之助は、しばらく佇んで眺めやった。少し離れて百姓家があった。そこで弓之助は訊いて見た。
「大岡様のお屋敷でございますよ」
「ああそうか、大岡様のな」
 弓之助は礼をいって足を返した。
「享保年間の名奉行、大岡越前守と来たひには、とても素晴らしい人傑だったが、子孫にはろくな物は出ないようだ。今の時代に大岡様がいたら、もっと市中は平和だろうに。……ナーニ案外駄目かもしれない。名君でなければ名臣を、活用することは出来ないからな。……それはそうと今の老人、大岡家のどういう人だろう? 非常な老年と思われるが、歩き方など若者のようだ。家老や用人ではないらしい。途方もなく威厳があったからな」


    北町奉行曲淵甲斐守

 彼の屋敷は本所にあった。
「お帰り遊ばせ」と若党がいった。
「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を淹《い》れて持って来た。
「お父様は?」と弓之助は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「お兄様は?」と彼は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう? 論語を読んでどうなるんだろう? どこかの世界で役立つかしら? どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら幇間《ほうかん》でも呼んで、追従術《ついしょうじゅつ》を習うんだね。こいつの方がすぐ役立たあ。お菊お前はどう思うな?」
「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。
「ホッホッホッホッそんな事か? なるほど、こいつも処世術だ。語尾を暈《ぼか》して胡麻化《ごまか》してしまう。偉いぞお菊、その呼吸だ。御台所《みだいどころ》に成れるかもしれねえ。俺はお前の弟子になろう、ひとつ俺を仕込んでくれ」
「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。
 弓之助は寝ることにした。
「どぎった[#「どぎった」に傍点]事はないものかしら? ひっくり[#「ひっくり」に傍点]返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな塊《かたまり》が出来ている。ともかくもこいつを吐き出したいものだ。つまり溜飲を下げるのさ」

 
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