銅銭会事変
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)詩人|其角《きかく》の句

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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    女から切り出された別れ話

 天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期《はいたいき》に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託《わいろせいたく》が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈《おごり》に耽った。初鰹《はつがつお》一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住《こつ》、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈《ばっこ》した。
 その悪人の物語。――
 梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞《こうか》に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人|其角《きかく》の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗《とんぼ》を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

 その日|情婦《おんな》から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
 いつも決まって媾曳《あいびき》をする、両国広小路を横へ逸《そ》れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
 女は先刻から待っていた。
 やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
 そうだいつも[#「いつも」に傍点]ならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
 この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく[#「ろくろく」に傍点]物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
 と、女が切り出した。別れてくれと
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