の水茶屋養母、その犠牲になる若い娘、その娘の情夫《いろおとこ》。ちゃんと筋立てが出来てらあ、物語の筋にある奴よ。今までは草双紙で読んでいたが、今日身の上にめぐって来たまでさ。泣くな泣くな何を泣きゃあがる」
翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの優男《やさおとこ》。そうして風流才子であった。彼は文学が非常に好きで、わけても万葉の和歌を愛した。で今度の三崎行も西行を気取っての歌行脚《うたあんぎゃ》であった。が、これは表面《おもてむき》で、お色と別れた寂しさを、まぎらそうというのが真相であった。途中で悠々一泊し、その翌日三崎へ着いた。半漁半農の三崎の宿は、人情も厚ければ風景もよかった。小松屋というのへ宿まることにした。海に面した旅籠屋であった。
「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」
その翌日から弓之助は、懐中硯《ふところすずり》と綴《つづ》り紙を持って、四辺《あたり》の風景を猟《あさ》り廻った。
銅銭会茶椀陣
しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちにこだわ[#「こだわ」に傍点]っていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の仕損《しそこな》いから主殿頭に睨まれて役付いていた鍵奉行から、失脚させられたという事が、数ヵ月前にあったからであった。
「側御用人の小身から、将軍家に胡麻《ごま》を磨り老中に上がって七万七千石、それで政治の執り方といえば上をくらまし下を搾取、ろくなことは一つもしない。憎い奴だ悪い奴だ」これが彼の心持ちであった。
「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」
空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。
最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。
ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一|葉《は》茶屋で、弓之助
前へ
次へ
全41ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング