りへ差しかかった。忽ち小柄が飛んで来た。が、幸い駕籠へ中《あた》った。小柄には毒が塗ってあった。そうして柄には彫刻《ほり》があった。銅銭会と彫られてあった。
 こうして一昨日の夜となった。その夜将軍家は近習も連れず、一人|後苑《こうえん》を彷徨《さまよ》っていた。と、一人の非常な美人が、突然前へ現われた。見たことのない美人であった。大奥の女でないことは、その女の風俗で知れた。町娘風の振り袖姿、髪は島田に取り上げていた。
 女は先に立って歩いて行った。将軍家は後を追った。近習の一人がそれを見付け、すぐ後を追っかけた。御天主台と大奥との間、そこまで行くと二人の姿が――すなわち将軍家と女とが、掻き消すように消えてしまった、爾来消息がないのであった。


    弓之助感慨に耽る

 甲斐守はこう語った。
 弓之助は奇異の思いがした。
「これは陰謀でございますな。狐狸の所業《しわざ》ではありませんな。怪しいのはその女で、何者かの傀儡《かいらい》ではございますまいか?」
「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」
「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会をあやつっ[#「あやつっ」に傍点]ているある大きな人物が……」
「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」
「勢いそうなるではございませんか」
「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から周章《あわ》てていられる」
「さては芝居がお上手と見える」
「いやおれの奉行眼から見ても、殿の周章《あわ》て方は本物だ。そこがおれには腑に落ちないのだ。……さて、よい物が手に入った。銅銭会縁起録、早速これから御殿へまいり、老中方にお眼に掛けよう」
 叔父の家を出た弓之助は、寂然《しん》と更けた深夜の江戸を屋敷の方へ帰って行った。考えざるを得なかった。
「田沼の所業に相違ない。将軍家に疎《うと》んぜられた。そこで将軍家をおび[#「おび」に傍点]き出し、幽囚したか殺したか、どうかしたに相違ない。悪い奴だ、不忠者め! その上俺の情婦《おんな》を取り、うまいことをしやがった。
 公《おおやけ》の讐《あだ》、私の敵《あだ》、どうかしてとっちめ[#「とっちめ」に傍点]てやりたいものだ。だが、どうにも証拠がない。是非とも証拠を握らなければならない。銅銭会とは何物だろう? 支那の結社だとい
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