た。貴人を横取りしたために、宰相田沼殿が周章《あわ》てている。七日の間に某所へ集まり、敵の本陣を突くという意味だ」
甲斐守は沈吟した。
「解ったようで解らない。だがともかくも今度の事件が、銅銭会という秘密結社の、会員どもの所業《しわざ》であることは、どっちみち[#「どっちみち」に傍点]疑がいはなさそうだ」
「叔父様」と弓之助は窺うように、「貴人とおっしゃるのはどなたのことで?」
甲斐守はジロリと見た。
「これはな、天下の一大事だ。本来ならば話すことは出来ぬ。これが世間へ知れようものなら、忽ち謀叛が起こるだろう。が、お前には功がある。特別をもって話して聞かせる。貴人というのは将軍家のことだ」
「えっ!」と弓之助は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「それでは上様が何者かに?」
「一昨日の晩、盗み取られた」
「へえ」といったが弓之助は二の句を継ぐことが出来なかった。
時の将軍家は家治《いはえる》であった。九代将軍家重の長子で、この事件の起こった時には、その年齢五十歳、普通の日本の歴史からいえば、暗愚の将となっている。しかしそうばかりでもなかったらしい。ただ余りに女性的で権臣を取って抑えることが出来ず、権臣のいうままになっていたらしい。少しも下情《かじょう》に通じなかった。権臣がそれを遮《さえぎ》るからであった。で彼は日本の国は、泰平のものと思っていた。彼は性、画を好んだ。そこで権臣は絵師を進め、彼をしてそれにばかり没頭せしめた。
しかるに最近事件が起こった。近習山村彦太郎が、三河風土記を講読した。すると家治は慨嘆した。「俺は今までこんないい本が、世間にあろうとは思わなかった。もっと彦太郎読んでくれ」
そこで彦太郎は陸続《りくぞく》と読んだ。それを怒ったのが権臣であった。すなわち田沼主殿頭であった。すぐ彦太郎を退けてしまった。
しかし将軍家はそれ以来大分心が変わったらしい。やや田沼を疎《うと》むようになった。そうして下情に通じようとした。田沼はそれを遮ろうとした。しかし将軍は子供ではなかった。一旦覚えた智恵の味を忘れることは出来なかった。で将軍家と田沼との間が、どうも円滑に行かなくなった。五日ほど以前《まえ》のことであった。田沼は将軍家をそそのかし[#「そそのかし」に傍点]、上野へ微行で花見に行った、その帰り路のことであった。本郷の通
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