」
振り返えりもせず持っていた杖を阿信は背後へひょいと投げた。
「有難うござります」と、礼を云う声がさも嬉しそうに聞えたかと思うと、直ぐに幽かな水音が為《し》た。
阿信は思わず振り返った。
川の上に杖が浮いている。杖の上には女がいる。そうして杖は女と共にスルスルと対岸へ辷って行く……。
阿信は総身ゾッとして其儘其処へ立ち竦んだが、「南無幽霊頓生菩提!」と思わず声に出して唱えたのであった。
翌日彼は江戸へ着いた、其時不思議な噂を聞いた。――
秩父の代官河越三右衛門が、召使の婢《おんな》に濡衣を着せ官に訴えて逆磔《さかさはりつけ》に懸けた所、昨夜婢の亡霊が窓を破って忍び入り、三右衛門を喰い殺したというのである。――
「偖《さて》はそういう幽霊であったか。杖を遺したのが誤りであったが、夫れも止むを得ない因縁なのであろう」
で、五つの位牌の上へ更に二つの位牌を加えて、阿信は菩提を葬った。
稚子法師の名声は江戸に迄も聞えていた。
其稚子法師の本人が此度江戸へ来たというので其評判は著聞《いちじる》しかった。併し阿信は其評判を有難いとも嬉しいとも思わなかった。却って迷惑に思いさえし
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