でございましょう、こんな夜が更けたのに、兄さんがお帰りにならないとは」
こういう娘の声がした。清浄であどけない[#「あどけない」に傍点]その中に、憂いを含んだ声である。
すぐ老人の声がした。
「源三郎にも困ったものだ。悪い友だちが出来たらしい。碌でもない所へ行くらしい」
ここは浅草の蔵前通りの、富豪加賀屋の奥座敷である。
源三郎の父の源右衛門と、源三郎の妹のお品とが、源三郎の身の上を案じ、寝もせず噂をしているのであった。
するとその時足音がして、襖の陰で止まったが、
「大旦那様、大旦那様」
こう呼ぶ不安そうな声がした。
「長吉どんかい、何か用かい」
「心配のことが出来ました」
「入っておいでな、どんな事だい?」
襖を開けて顔を出したのは、長吉という手代であった。
「町役人の方がおいでになり、お目にかかりたいと申しております」
ところが同じこの夜のこと、旅装凜々しい一人の武士が、端艇《はしけ》で海上を親船から、霊岸島まで駛《はし》らせて来た。
「御苦労」と水夫《かこ》へ挨拶をして岸へ上るとその侍は、あたかも人目を忍ぶように、佐賀町河岸までやって来た。
すると家陰から数
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