を戴きたいと、小間使いのお花が云い出した。
「ああいいとも、暇を上げよう。親元へでも帰るのかな」
「はい、あの神田の兄の許へ」
「おおその神田の兄さんとやらは、お上のご用を聞いているそうだな」
「はい、さようでございます」
「ゆっくり遊んで来るがよい」
「はい、それでは夕景《ゆうけい》まで」
 小さい風呂敷の包を抱き、小間使のお花は屋敷を出た。
 神田小川町の奥まった露路に、岡引の友蔵の住居があった。荒い格子には春昼《しゅんちゅう》の陽が、鮮《あざやか》に黄色くあたって[#「あたって」に傍点]いた。
「嫂《ねえ》さんこんにちわ[#「こんにちわ」に傍点]」と云いながら、お花は門の格子をあけた。
「おやお花さん、よく来たね」声と一緒にあらわれたのは、友蔵の家内のお巻《まき》であった。三十前後の仇っぽい女で、茶屋上りとは一眼で知れた。
「これはお土産、つまらない物よ」
「よせばよいのに、お気の毒ねえ」
「それはそうと兄さんはいて。妾ちょっと用があるのよ」
「おお、お花か、何だ何だ」
 これは友蔵の声であった。
 友蔵は茶の間の長火鉢の前で、湯呑で昼酒を飲んでいた。四十がらみの大男で、凶悪の人相の持主であった。下っ引の手合も今日はいず、一人いい気持に酔っていた。
 朝風呂丹前長火鉢、これがこの手合の理想である。しかし岡っ引の手あて[#「あて」に傍点]といえば、一月一分か一分二朱であった。それでは小使にも足りなかった。その上岡っ引は部下として、下っ引を使わなければならなかった。その手あて[#「あて」に傍点]はどこからも出ない。自分が出さなければならなかった。そこで勢い岡っ引は他に副業を求めるか、ないしは地道の町人をいたぶり[#「いたぶり」に傍点]、賄賂《わいろ》を取らなければ食って行けなかった。
 ところで友蔵には副業がなかった。そこで町人を嚇《おど》しては、収賄《しゅうわい》をして生活《くらし》ていた。
「兄さん」とお花は茶の間へ入ると、風呂敷包をサラリと解いた。「見て貰いたいものがありますのよ。この手箱なの、どう思って?」
 伊丹屋《いたみや》のお錦が「爺つあん」から貰い、小堀義哉に預けた所の、例の手箱を取り上げた。
「変哲《へんてつ》もねえ杉の箱じゃあねえか、これが一体どうしたんだい?」友蔵は手箱を取り上げた。
「何でもないのよ、見掛けはね。でもちょっと変なのよ」
お花はそこで説明した。
 先夜小堀義哉の家へ、変な泥棒が入ったこと、金も衣類も持って行かずに、この箱ばかり狙ったこと、そこで策略を巡らして、泥棒に贋物を握らせた事、そうして本物は窃《こっそ》りと、自分が隠して置いた事、義哉へ箱を預けたのが、日本橋の大老舗《おおしにせ》、伊丹屋の娘だということなどを、細々《こまごま》と説明したのであった。
「ふうむ、そうかい、なるほどなあ。そう聞くとちょっと不思議だなあ。とんだ手蔓《てづる》にぶつかるかもしれねえ。だが何にしても蓋《ふた》をあけて、中味を拝見しなけりゃあ」
 そこで錠前をコヂ開けようとした。しかし錠は開かなかった。
「こいつアいけねえ、千枚錠だ。どんなことをしても開くものじゃあねえ。千枚錠ときたひにゃあ、合鍵だって役に立たねえ。箱を潰すのはワケはねえが、中味が何だか解《わか》らねえからな、そいつもちょっと手控えだ。……ところで鍵はなかったのかい?」

25[#「25」は縦中横]

「ええ、それがなかったんですよ」
「探したらどこかにあるだろう。帰って窃《こっそ》り探して見な」
「そうねえ、それじゃ探してみよう」
 永い春の日の暮れかかった頃、お花は屋敷へ帰って行った。

 数日経ったある日のこと、駕籠に乗った伊丹屋のお錦《きん》が、義哉《よしや》の屋敷へ訪れて来た。
 その後やはり気分が悪く、今迄寝ていたということであった。
「これでございますの、手箱の鍵は」
 お錦はこう云って鍵を出した。
 義哉はそこで事情を話した。
「おや、マアさようでございましたか」お錦は意には介しなかった。元々気味の悪い老人から、偶然貰った手箱なのである。たいして惜しくも思わないのであった。それより彼女には義哉その人が、このもしく[#「このもしく」に傍点]も愛《いと》しくも思われるのであった。
 二人は尽きず話をした。
 伊丹屋の養女だということや、許嫁《いいなづけ》が生地なしだということや、生活《くらし》が退屈だということや、
 ――お錦はそんなことを問わず語りに話した。
「妾《わたくし》、近々伊丹屋の家を、出てしまうかもしれませんの」
「あなたが伊丹屋のお家を出て、一人住みでもなされたら、江戸中の若い男達は、相場を狂わせるでございましょうよ。……そうして貴女《あなた》は江戸中の女から、妬《そね》まれることでございましょうよ」
「お口の悪い何を仰有《おっしゃ》るやら。……でもきっと貴郎様は、おさげすみなさるでございましょうね。そうしてもうもうお屋敷へなど、お寄せ付けなされはしますまいね」
「どう致しまして私など、こっちから日参いたします」
「まあ嬉しゅうございますこと、嘘にもそう云っていただけると、どんなに心強いことでしょう」
 塀外を金魚売が通って行った。そのふれ[#「ふれ」に傍点]声が聞えてきた。それは初夏の訪れであった。
 後庭《こうてい》には藤が咲きかけてい、池の畔《みぎわ》の燕子花《えんしか》も、紫の蕾を破ろうとしていた。
 すると、その時縁側の方から、微《かすか》な衣擦れの音がした。
「お花か※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と義哉は気不味《きまず》そうに云った。
「はい、お呼びかと存じまして」
「呼びはしない。向うへ行っておいで」
 お花の立去る気勢《けはい》がした。
 鍵を義哉へ預けたまま、お錦も間もなく帰って行った。
 その翌日の夕方であった。
 神田小川町の友蔵の家へ、お花はとつかわ[#「とつかわ」に傍点]と入って行った。
「兄さんこれなのよ[#「兄さんこれなのよ」は底本では「兄さんれこれなのよ」]、手箱の鍵は」こう云ってお花は鍵を出した。
 お錦が義哉へ預けて行った、例の手箱の鍵であった。ちょっとの隙を窺って、それをお花が盗み出したのである。
「どれ」と云うと友蔵はお花の手から鍵を取った。それから立ち上って隣部屋へ行き、地袋《じぶくろ》から手箱を取り出して来た。
 固唾を呑まざるを得なかった。何が箱から出るだろう? 高価な品物であろうかも知れぬ。それとも恐ろしい秘密だろうか?
 友蔵は鍵を錠へかった[#「かった」に傍点]。と、カチリと音がして、箱の蓋がポンと開いた。
 一葉の地図が入れてあって、そうしてその他には何にも無かった。
「地図じゃないの、つまらない」
 お花はガッカリして声を上げた。

26[#「26」は縦中横]

「そうでねえ」と友蔵は云った。彼は岡っ引という商売柄、こういうものには興味があった。そうして恐らくこの地図には、秘密があろうと考えた。
「うむ、こいつあ甲州の地図だ。……ははあ、こいつが釜無川だな。……おおここに記号《しるし》がある」
 釜無川の川岸に朱で二重丸が入れてあった。
 で、友蔵は腕を組み、じっと何かを考え込んだ。

 さてその翌日の早朝であったが、甲州街道を足早に、甲府の方へ下る者があった。他ならぬ岡っ引の友蔵で、厳重に旅の装いをしていた。
 すると、その後から見え隠れに、一人の旅人が尾行《つ》けて行った。それを友蔵は知らないらしい。
 道中三日を費やして、友蔵は甲府の城下へ着いた。
 旅籠へ泊った友蔵は、両掛《りょうがけ》からこっそり[#「こっそり」に傍点]地図を出し、あらためて仔細に調べ出した。
 すると、隣室の間の襖が、あるかなしかに細目に開き、そこから鋭い眼が見覗《みのぞ》いた。様子を窺っているのであった。
 翌日早朝友蔵は、釜無の方へ出かけて行った。忍野郷《しのぶのごう》を出外れるともう釜無の岸であった。土手に腰かけて一吹《いっぷく》した。それから四辺《あたり》を見廻したが、人の居るらしい気勢《けはい》もなかった。用意して来た鍬を提《ひっさ》げ地図を見い見い歩いて行ったのは、川の岸寄りの中洲であった。
 彼は熱心に掘り出した。やがて何か鍬の先に、カチリとあたる[#「あたる」に傍点]音がした。どうやら小石ではないらしい。手を差入れて引き出して見た。土にまみれ[#「まみれ」に傍点]た小さい壺が、その指先につつまれていた[#「つつまれていた」に傍点]。
「なんだえこれは壺じゃアねえか。呆れもしねえ莫迦にしていやがる。小判の箱かと思ったに。天道様も聞こえませぬ。一体どおしてくれるんだい。旅費を使って江戸くんだりから、わざわざ甲府へ来たんじゃアねえか。巫山戯《ふざけ》ているなあ、え、本当に。……だが待てよ、そうも云えねえ。これに秘密があるのかもしれねえ。形は小さい壺ながら、忽然化けて千両箱となる。なあんて奇蹟が行なわれるかもしれねえ。よしよしともかく宿へ帰り、仔細に調べることにしよう」
 で、鍬を川へ投げ捨て、壺に着いている土を払うと、懐中へ納めて歩き出した。
 夕飯を食べ風呂へ入り、床を取らせると女中を退けた。
 それから壺を取り出した。ためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]調べたが、何の変った所もなかった。丈三寸、周囲三寸、掌に載る小壺であった。焼にも変った所がない。ただし厳重に蓋が冠せてあって、取ろうとしてもなかなか取れない。
「つまらねえなあ。虻蜂《あぶはち》とらずだ」
 小言を云いながら振って見たが、中には何にも入っていないと見え、コトリとも音はしなかった。
「一世一代の失敗かな。友蔵親分丸損かな。ほんとにほんとに莫迦にしていやがら」
 しかしどんなに悪口を云っても、それに答えるものさえない。自分自身が悪口を云い、自分自身が聞くばかりであった。
 夜は次第に更けまさり、家の内外ひっそり[#「ひっそり」に傍点]とした。
「考えていたって仕様がねえ。こんな晩は寝た方がいい。明日は早速ご出立だ。お花の畜生め覚えていやがれ。彼奴《あいつ》さえあんな物を持って来なけれりゃあ、こんなへマは見ねえんだ。江戸へ帰ったらあいつ[#「あいつ」に傍点]を呼び付け、みっしり[#「みっしり」に傍点]叱ってやらなけりゃならねえ」
 夜具を冠って寝てしまった。
 いわゆる丑満の時刻になった。
 と、間《あい》の襖《ふすま》が開き、何かチロチロと入って来た。それは一匹の大|鼬《いたち》であって、颯《さっ》と床間《とこのま》へ駈け上ると、壺と地図とを両手で抱え、それから後足で立ち上り、静かに隣部屋へ引返した。
 友蔵は勿論知らなかった。しかし翌日発見した。発見はしたが驚かなかった。「へん、間抜けな泥棒め、盗むものに事をかき、あんなつまらねえ物を盗みやがった」
 それで、却ってサバサバして、江戸をさして引返して行った。

27[#「27」は縦中横]

 ここは深川の木賃宿である。香具師《やし》の親方の「釜無の文」は、手下の銅助を向うに廻し、いい気持に喋舌《しゃべ》っていた。傍に檻が置いてあり、中に大鼬が眠っていた。
 二人の前には壺と地図とが、大切そうに置いてあった。
 窓から夏の陽が射していて、喚気法の悪い部屋の中は、汗ばむ程に熱かった。
「……と、つまり、云うわけさ。ナーニ、ちょろりと横取りしたのさ。へん、えて[#「えて」に傍点]物さえ使ったらどんな宝物だって盗まれるんだからな」
 得意そうに文は話し出した。
「ところで親方、その壺には、何が入っているんですえ?」こう不思議そうに銅助は訊いた。姦悪の相の持主で、文に負けない悪党らしかった。
「そいつア俺にも解らねえ」文は渋面を作ったが、「福の神だということだ。とにかくこいつ[#「こいつ」に傍点]を持っていると、いい目が出るということだ……これはな、伝説による時は、支那から渡ったものだそうな。甲府のお城にあったものさ。元禄《げんろく》時代の将軍家、館林《たてばやし》の綱吉《つなよし》様が、ある時お手に入れられた所、間もなく江戸城お乗込み、将
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