大捕物仙人壺
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)伊太郎《いたろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お前|魅《みい》られたぜ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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1
女軽業の大一座が、高島の城下へ小屋掛けをした。
慶応末年の夏の初であった。
別荘の門をフラリと出ると、伊太郎《いたろう》は其方《そっち》へ足を向けた。
「いらはいいらはい! 始まり始まり!」と、木戸番の爺《おやじ》が招いていた。
「面白そうだな。入って見よう」
それで伊太郎は木戸を潜った。
今、舞台では一人の娘が、派手やかな友禅の振袖姿で、一本の綱を渡っていた。手に日傘をかざしていた。
「浮雲《あぶな》い浮雲い」と冷々しながら、伊太郎は娘を見守った。
「綺麗な太夫《たゆう》じゃありませんか」
「それに莫迦に上品ですね」
「あれはね、座頭の娘なんですよ。ええと紫錦《しきん》とか云いましたっけ」
これは見物の噂であった。
小屋を出ると伊太郎は、自分の家へ帰って来た。いつも物憂そうな彼ではあったがこの日は別《わ》けても物憂そうであった。
翌日|復《また》も家を出ると、女軽業の小屋を潜った。そうして紫錦の綱渡りとなると彼は夢中で見守った。
こういうことが五日続くと、楽屋の方でも目を付けた。
「オイ、紫錦さん、お芽出度《めでと》う」源太夫は皮肉に冷かした。「エヘ、お前|魅《みい》られたぜ」
「ヘン、有難い仕合せさ」紫錦の方でも負けてはいない。「だがチョイと好男子《いいおとこ》だね」
「求型《もとめがた》という所さ」
「一体どこの人だろう?」
「お前そいつを知らねえのか。――伊丹屋《いたみや》の若旦那だよ」
「え、伊丹屋? じゃ日本橋の?」
「ああそうだよ、酒問屋《さかどんや》の」
「だって源ちゃん変じゃないか、ここはお前江戸じゃないよ」
「信州諏訪でございます」
「それだのにお前伊丹屋の……」
「ハイ、別荘がございます」
「おやおやお前さん、よく知ってるね」
「ちょっと心配になったから、実はそれとなく探ったやつさ」
「おや相変らずの甚助《じんすけ》かえ」紫錦ははすっぱに笑ったが「苦労性だね、お前さんは」
「何を云いやがるんでえ、箆棒《べらぼう》め、誰のための苦労だと思う」
「アラアラお前さん怒ったの」
面白そうに笑い出した。
「おい紫錦、気を付けろよ、いつも道化じゃいねえからな」
「紋切型さね、珍らしくもない」
紫錦はすっかり嘗めていた。
ところでその晩のことであるが、桔梗屋《ききょうや》という土地の茶屋から、紫錦へお座敷がかかって来た。
「きっとあの人に相違《ちがい》ないよ」こう思いながら行って見ると、果して座敷に伊太郎がいた。
さすがに大家の若旦那だけに、万事|鷹様《おうよう》に出来ていた。
酒を飲んで、世間話をして――いやらしいことなどは一言も云わず、初夜前に別れたのである。
ホロ酔い機嫌で茶屋を出ると、ぱったり源太夫と邂逅《でっくわ》した。待ち伏せをしていたらしい。
「源ちゃんじゃないか、どうしたのさ」
「うん」と彼イライラしそうに「彼奴《あいつ》だったろう? え、客は?」
「言葉が悪いね、気をお付けよ。彼奴だろうは酷《ひど》かろう」紫錦は爪楊枝《つまようじ》を噛みしめた。
「いつお前お姫様になったえ」源太夫も皮肉に出た。
「たった今さ。悪いかえ」
「小屋者からお姫様か」
「そういきたいね、心掛けだけは」
小屋の方へ二人は歩いて行った。
源太夫というのは通名《とおりな》で、彼の実名は熊五郎であった。親方には実の甥で、紫錦とは従兄弟にあたっていた。
その翌晩のことであるが、また同じ桔梗屋から紫錦にお座敷がかかって来た。
「行っちゃ不可《いけ》ねえ、断っちめえ」
熊五郎は止めにかかった。
「いい加減におしよ、芸人じゃないか」
紫錦は衣裳を着換えると、念入りにお化粧をし、熊五郎に構《かま》わず出かけて行った。
気を悪くしたのは熊五郎であった。
「へん、どうするか見やアがれ」
恐ろしい見幕《けんまく》で怒鳴《どな》り声をあげた。
2
同じ一座の道化役、巾着《きんちゃく》頭のトン公《こう》は、夜中にフイと眼を覚ました。
ヒューヒュー、ヒューヒュー、ヒューヒューと、口笛の音が聞こえてきた。
「はアてね、こいつアおかしいぞ」
首を擡《もた》げて聞き澄ましたが、にわかにムックリ起き上った。周囲《まわり》を見ると女太夫共が、昼の劇《はげ》しい労働に疲労《つかれ》、姿態《なりふり》構わぬ有様で、大|鼾《いびき》で睡っていた。
それを跨《また》ぐとトン公は、楽屋|梯子《ばしご》を下へ下りた。
暗い舞台の隅の方から、黄色い灯《ひ》の光がボウと射し、そこから口笛が聞こえてきた。
誰か片手に蝋燭を持ち、檻の前に立っていた。と、檻の戸が開いて、細長い黄色い生物が、颯《さっ》と外へ飛び出して来た。
「おお可《よ》し可し、おお可し可し、ネロちゃんかや、ネロちゃんかや、おお可《い》い子だ、おお可い子だ……」
口笛が止むとあやなす[#「あやなす」に傍点]声が、こう密々《ひそひそ》と聞こえてきた。フッと蝋燭の火が消えた。しばらく森然《しん》と静かであった。と、暗い舞台の上へ蒼白い月光が流れ込んで来た。誰か表戸をあけたらしい。果して、一人の若者が、月光の中へ現われた。肩に何か停《と》まっている。長い太い尾をピンと立てた、非常に気味の悪い獣《けもの》であった。
月光が消え人影が消え、誰か戸外《そと》へ出て行った。
「思召《おぼしめ》しは有難う存じますが……妾《わたし》のような小屋者が……貴郎《あなた》のような御大家様の……」
「構いませんよ。構うもんですか……貴女《あなた》さえ厭でなかったら……」
「なんの貴郎、勿体ない……」
紫錦《しきん》と伊太郎《いたろう》は歩いて行った。
帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨《かりん》畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、そのどよめき[#「どよめき」に傍点]は聞えなかった。
穂麦《ほむぎ》の芳《かんば》しい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火は映《は》えなかった。
「美しい晩、私は幸福《しあわせ》だ」
「妾も楽しうござんすわ」
畦道《あぜみち》は随分狭かった。肩と肩とを食《く》っ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
いつともなしに寄り添っていた。
やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
それで二人は舟へ乗った。
湖上には微風が渡っていた。櫂《かい》で砕《くだ》かれた波の穂が、鉛色に閃《ひら》めいた。水禽《みずどり》が眼ざめて騒ぎ出した。
二人は嬉しく幸福であった。
「さあ来てよ、貴郎のお家《うち》へ」
そこで、二人は舟を出て、石の階段を登って行った。
木戸を開けると裏庭で、柘榴《ざくろ》の花が咲いていた。
「寄っておいで、構やしないよ」
「いいえ不可《いけ》ませんわ、そんなこと」
二人は優しく争った。
やっぱり女は帰ることにした。一人で櫓櫂《ろかい》を繰《あやつ》って紫錦は湖水を引き返した。
どこか、裏庭の辺りから、口笛の音の聞こえてきたのは、それから間もないことであった。
「今時分誰だろう?」
楽しい空想に耽りながら、いつもの寝間の離座敷で、伊太郎は一人|臥《ふせ》っていた。
ヒューヒュー、ヒューヒューとなお聞こえる。
と、コトンと音がした。庭に向いた窓らしい。「はてな?」と思って眼を遣ると、障子へ一筋縞が出来た。細目に開けられた戸の隙から月光が蒼く射したのであろう。
「あ、不可《いけ》ない、泥棒かな」
すると光の縞の中へ、変な形があらわれた。
長い胴体、押し立てた尻尾、短い脚が動いている。と思った隙《ひま》もなくポックリと障子へ穴があいた。
颯《さっ》と部屋の中へ飛び込んで来た。
「鼬《いたち》だ」
と伊太郎は刎起《はねお》きた。「誰か来てくれ、鼬だ鼬だ!」
ぼんやり点《とも》っている行燈《あんどん》の光で、背を波のように蜒《うね》らせながら伊太郎目掛けて飛び掛かって行く巨大な鼬の姿が見えた。
母屋の方から人声がして、母を真先に女中や下男が、この離《はなれ》へやって来た時も、なお鼬は駆け廻っていた。
母のお琴《こと》はそれと見ると、棒のように立ち縮んだ。
「鼬!」と顫え声で先ず云った。「口笛の音? ああ幽霊!」
それからバッタリ仆《たお》れてしまった。
お琴は気絶したのである。
鼬の姿はいつか消え、遠くで吹くらしい口笛の音が、なお幽《かすか》に聞こえていた。
3
「私《わっち》は現在見たんでさあ。嘘も偽わりもあるものですかい。ええええ尾行《つけ》て行きましたとも。するとどうでしょうあの騒動でさ」
楽屋へは朝陽が射し込んでいた。人々はみんな出払っていて、四辺《あたり》はひっそりと静かであった。女太夫の楽屋のことで、開荷《あけに》、衣桁《いこう》、刺繍した衣裳など、紅紫繚乱《こうしりょうらん》美しく、色々の物が取り散らされてあった。
「でも本当とは思われないよ。そんな事をする人かしら?」
「恋は人間を狂人《きちがい》にしまさあ」
「だって妾《わたし》あの人に対して何もこれまで一度だって……それに妾達は従兄妹同志じゃないか」
「従兄妹であろうとハトコであろうと、これには差別はござんせんからね。……私《わっち》はこの眼で見たんでさあ」
「だってそれが本当なら、あの人それこそ人殺しじゃないか」
「だからご注意するんでさあね」
「ただの鼬《いたち》じゃないんだからね」
「喰い付かれたらそれっきりでさあ」
「恐ろしい毒を持っているんだからね」
「私《わっち》は現在見たんでさあ。裸蝋燭を片手に持って、ヒューッ、ヒューッと口笛を吹いて、檻からえて[#「えて」に傍点]物を呼び出すのをね。そいつ[#「そいつ」に傍点]を肩へひょいと載っけて、月夜の往来へ出て行ったものです。こいつおかしいと思ったので、直ぐに後をつけやした。それ私は四尺足らず、三尺八寸という小柄でげしょう。もっとも頭は巾着《きんちゃく》で、平《ひらった》く云やア福助《ふくすけ》でさあ。だから日中《ひのうち》歩こうものなら、町の餓鬼《がき》どもが集《たか》って来て、ワイワイ囃して五月蠅《うるそ》うござんすがね。折柄夜中で人気はなし、家の陰から陰を縫って、尾行て行くには持って来いでさあ。小さいだけに見付かりっこはねえ。で行ったものでございますよ。別荘作りの立派な家、そこまで行くと立ち止まり、ジロリ四辺を見まわしたね、それから木戸を窃《そっ》と開けて、入り込んだものでございますよ。で、しばらく待っていると、そこへお前さんとあの人とが、湖水《うみ》から上って来たものです。そこで鼬を放したというものだ」
「でもマア大騒ぎをしただけで、怪我はなかったということだから、妾は安心をしているのさ」
「ところが、あの人の母者人なるものが、気を失ったということですぜ」
「まあ、よっぽど驚いたんだね」
「おどろき、梨の木、山椒の木だ。が、ままともかくもこの事件は、これで納まったというものだ。そこでこれからどうしなさる?」
「どうするってどうなのだよ?」
「一度こっきり[#「こっきり」に傍点]じゃ済みませんぜ」
「じゃまたあるとでも云うのかい? 源ちゃん、そんなに執念深いかしら?」
「お前さんの遣り方一つでさあ」
「だって妾、これまでだって、随分
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