お座敷へは呼ばれたじゃないか」
「それとこれとは異《ちが》いまさあ。それはそれで金取り主義、ご祝儀頂戴の呼吸《いき》だったが、今度はどうやらお前さんの方でも、あの青二才に惚れているようだ」
「何を云うんだよ、トン公め!」

 今から数えて十六年前、酒商《さけしょう》[#ルビの「さけしょう」は底本では「さけしやう」]伊丹屋伊右衛門《いたみやいえもん》は、この城下に住んでいた。
 旧家ではあり資産家《かねもち》ではあり、立派な生活を営んでいた。お染《そめ》という一人娘があった。その時数え年|漸《ようや》く二歳《ふたつ》で、まだ誕生にもならなかったが、ひどく可愛い児柄《こがら》であった。夫婦の寵愛というものは眼へ入っても痛くない程で、あまり二人が子煩悩なので、近所の人が笑うほどであった。
 ところがここにもう一人、藤九郎《とうくろう》という中年者が、ひどくお染を可愛がった。甲州生れの遊人で――本職は大工ではあったけれど、賭博は打つ酒は飲む、いわゆる金箔つきの悪であったが、妙にお染を可愛がった。
 もっともそれには理由《わけ》があるので、お染の産れたその同じ日に――詳細《くわし》く云えば弘化《こうか》元年八月十日のことであるが、藤九郎の女房のお半《はん》というのが、やはり女の児を産んだ。ところがそれが運悪く産れた次の日にコロリと死んだ。それを悲しんで女房のお半も、すぐ引き続いて死んでしまった。さすが悪の藤九郎も、これには酷《ひど》く落胆して、一時素行も修まった程であった。
 ところでこのころ藤九郎は、伊丹屋の借家に棲んでいたので、よく伊丹屋へは出入りした。自然お染と顔を合わせる。子を失った親の愛が、同じ日に産れた家主の子へ、注がれるというのは当然であろう。



 しかるにここに困ったことが出来た。
 月日が経つに従って、お染の顔が父親へは似ずに、藤九郎の顔に似るのであった。
「藤九郎め、好男子《いいおとこ》だからな」
「そういえば、伊丹屋のお神《かみ》さんは、莫迦に藤九郎めを贔屓にしたっけ」
「誰の種だか解《わか》りゃしねえ」
 世間の人達はこう云い合った。
 しかし真面目な伊丹屋の内儀が、博奕風情の藤九郎などを問題にするはずがない。それは伊右衛門《いえもん》も信じていた。で幸いこの事については何の事件も起こらなかった。
 しかし事件はその翌年、すわなちお染の二歳の時に、別の方面から起こってきた。
 それは実に嘉永《かえい》元年夏の初めのことであったが、母のお琴《こと》はお染を抱きながら、裏庭の縁で涼んでいた。すると最初口笛が聞こえ、次に鼬《いたち》が現われた。アッと驚く隙《ひま》もなく鼬はお染へ噛みついた。幸い手当が速かったので、腕へ歯形が印《つ》いただけで、生命《いのち》には何の別状もなかった。ところが何と奇怪なことには、その翌晩にも口笛が聞こえ、同じ鼬が現われたではないか。そうして鼬はお染を追って、庭の植込の方へ行ったかと思うと、お染の姿が消えてしまった。
 ちょうどこの頃城下|外《はず》れに女軽業の大一座が小屋掛けをして景気《けいき》を呼んでいた。女太夫の美しいのも勿論評判ではあったけれど、四尺に余る大鼬が、口笛に連れて躍るというのがとりわけ人気を博していた。
 それで、自然疑いがその一座へかかって行った。官《かん》からも役人が出張し、厳重に小屋を吟味した。しかしお染はいなかった。誘拐したという証拠もない。どうすることも出来なかった。
 伊丹屋夫婦の悲嘆にも増して、藤九郎の悲嘆は大きかった。
「彼奴《あいつ》は有名な悪党なんですよ。ええ、あの一座の親方って奴はね。ちょっと私とも知己《しりあい》なんで。釜無《かまなし》の文《ぶん》というんでさ。……ああ本当に飛んだことをした。みんな私が悪かったんで、つい迂闊《うっか》り口を走《すべ》らしたんでね」
 彼はこう云って口惜《くや》しがった。
 その後伊丹屋では親類から、伊太郎という養子を迎え、間もなく江戸へ移り住んだが、お染のことは今日が日まで忘れたことはないのであった。
「……こういう事情があるのだもの、妾《わたし》が鼬を恐がったり、女軽業を憎むのは、ちっとも無理ではないじゃないかえ」
 母のお琴は辛そうに云った。
「だからさ、お前もその意《つもり》で、そんな小屋者の紫錦《しきん》なんて女を、近付けないようにしておくれよ。どうぞどうぞお願いですからね」
「だってお母さん不可《いけ》ませんよ」伊太郎はやっぱり反対した。「私は紫錦が好きなんですもの。それにその女は見た所、悪い女じゃありませんよ」
「きっと悪い女ですよ」
「第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ」
「鼬を使うとお云いじゃないか」
「それだって別の鼬ですよ」
「いいえ同じ鼬です。妾《わたし》見たから知っています」
 お琴は飽く迄も云うのであった。

 紫錦はこれ迄は源太夫《げんだゆう》を別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。
「甚助《じんすけ》め! 飛んでもねえ奴だ!」
 そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。
 その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱の質《たち》であった。朋輩|交際《つきあい》で芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]惚れ込んだのであった。
 こういう男女の落ち行く先は、古来往来《ここんおうらい》同一《ひとつ》である。夫婦になれなければ心中である。
 驚いたのはお琴であった。
 彼女は窃《こっそ》り訴え出た。「娘を誘拐《かどわか》した同じ一座が、今度は息子を誑《たぶら》かそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。
 勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。
 この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。
 鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判が可《よ》かった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻《さかねじ》を喰らう。
 で疾風迅雷的に、やっつけよう[#「やっつけよう」に傍点]と云うことになった。

 その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。
 湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんより[#「どんより」に傍点]と曇り、今にも降ってきそうであった。
 伊太郎を家《うち》へ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐が颯《さっ》と吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々|漁舟《いさりぶね》を覆えした。
「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。
 次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂《ろかい》が役に立たなくなった。
「どうしよう」
 と紫錦は周章《あわ》てながらなおしばらくは櫓を漕いだ。
 しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆《よこた》えた。
「どうともなれ。勝手にしやアがれ」
 そこは小屋者の猛烈性で、こんな事を思いながら、案外|暢気《のんき》に寝そべっていた。
「ご大家様のお坊ちゃん、今こそ妾《わたし》に夢中になって、夫婦になろうの駆落しようのと、血道をあげているけれど、その中《うち》きっと厭になるよ。そうしたら捨てるに違いない。捨てられたら元々通り小屋者の身分へ帰らなけりゃならない。いつ迄も小屋者でいるくらいなら、死んだ方が増じゃないか」
 雨と泡沫《しぶき》で彼女の体は、漬けたように濡れてしまった。
「おや」
 と彼女は顔を上げた。空が俄かに赤くなったからで、見れば遙か町の一点が、焔を上げて燃えていた。
「おやおやこんな晩に火事を出したんだよ。何て間抜けな人足だろう。アラ、驚いた、小屋じゃないか!」

 正《まさ》しく火事を出したのは、女軽業の掛小屋であった。
 役人達が遣って来て、立退きを命ずると、急に彼等は周章《あわ》て出した。そうして役人に反抗し、突然小屋へ火を掛けた。これには役人達も驚いたが、しかし事情はすぐ解《わか》った。この時代の小屋者の常で、彼等は反面、賊でもあった。で盗み蓄めた品物が、小屋に隠されてあったのである。
 つまり贓物《ぞうぶつ》[#「贓物」は底本では「臓物」]を焼き払い、証拠を湮滅させようため、わざと小屋へ火を掛けたのであった。
 それと感付くと役人達は、がぜん態度を一変させ、彼等を捕縛《とら》えようと犇《ひし》めいた。
 彼等は男女取り雑《ま》ぜて三十人余りの人数であった。それに馬が二頭いた。それから白という猛犬がいた。それから例の鼬がいた。これらのものが一斉に、役人達に敵対した。彼等は武器を持っていた。商売用の刀や匕首《あいくち》や、竹槍などを持っていた。
 どんなに彼等が凶暴でも、三十人こっきり[#「こっきり」に傍点]であったなら、捕縛えるに苦労はしなかったろう。しかるにここに困ったことには味方する者が現われた。
 当時諏訪藩は佐幕党として、勤王派に睨まれていた。で安政《あんせい》年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉《たかくら》三位と宣《なの》る公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵《さがらそうぞう》が浪士を率《ひき》い、下諏訪の地に陣取って乱暴したのもこの頃であった。
 それで、この事件の起こった時でも、勤王派の浪士達が、様々の者に姿を窶《やつ》し、城下の諸方に入り込んでいたが、これが小屋者の味方となって、役人方に斬り込んだ。
 それに城下の町人達の中にも、味方する者が出来てきて、石礫を投げ出した。
 事態重大と見て取って、城下からは兵が出た。
 内乱と云えばそうも云え、市街戦と云えばそうも云える。思いも由《よ》らない大事件が、計らず勃発したのであった。
 城兵かそれとも浪士達か、鉄砲を打ち出したものがあった。
 と、火事が飛火した。女の悲鳴、子供の泣声、避難する人々の喚《わめ》き声が、山に湖面に反響した。

 この時一人の若者が、逃げ惑う人々を押し退けて、小屋の方へ走って行った。
 他でもない伊太郎で、恋人の安否を気遣って、家を抜け出して来たのであった。
 小屋は大半焼け落ちていて、焔の柱、煙の渦巻……その中で戦いが行なわれていた。
 役人の一人を殺し、血だらけの竹槍を振りかざしながら、荒れ廻っていた小屋掛があったが、伊太郎の姿に眼を付けると、
「野郎!」
 と叫んで飛び掛かって行った。余人ならぬ源太夫であった。
「紫錦さんは※[#感嘆符二つ、1−8−75] 紫錦さんは※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「何を吠《ほざ》く! 死《くたば》ってしまえ!」
 源太夫は伊太郎の襟上を掴むと、ズルズルと火の中へ引き込もうとした。
 と、焔に狂気しながら、馬が一頭走り出して来た。
「嬲殺しだ! 思い知れ!」
 伊太郎は馬の背へ括り付けられた。
「ヤッ」と叫ぶと源太夫は竹槍で馬の尻を突いた。
 馬は驀地《まっしぐら》に狂奔し、湖水の中へ飛び込んだ。
 ワッワッと云う鬨声《ときのこえ》。火事は四方へ飛火した。



 湖水は猛烈に荒れていた。火事は益々燃え拡がった。物凄くもあれば美しくもあった。
 紫錦は小舟に取り付いたまま浪の荒れるに委せていた。火事の光が水に映り四辺《あたり》が茫《ぼっ》と明るかった。
 その時何物か浪を分けて彼女の方へ来るものがあった。
「おや、馬だよ。馬が泳いで来る」
 いかにもそれは馬であった。
「おや。黒《あお》だよ、黒来い来い!」
 紫錦《しきん》は喜んで声を上げた。
 馬は馴染の黒であった。つまり彼女が芸当をする時、時々乗った馬であった。近付くままによく見ると誰やら馬の背にくくり[#「くくり」に傍点]付けられていた。それが恋人の伊太郎であると火
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