ろう?」
お錦はひどく[#「ひどく」に傍点]吃驚《びっくり》した。
勿論彼女には見覚えはない。初めて会った老人である。
「どうして涙なんか零すんだろう? 妾《わたし》をどう思っているのだろう? 気味の悪い爺さんだよ」
こう思わざるを得なかった。
「トン公」やがて「爺つあん」は云って「ちょっとこの場を外してくれ。ナーニ大丈夫だ、心配しなくてもいい。ただちょっと話すだけだ」
「「爺つあん」のことだ、ああいいとも」
トン公は云いすてて出て行った。
後を見送った「爺つあん」は、その眼を返すとお錦の顔を、またもじっと見守ったが、
「おお紫錦、大きくなったなあ」
不意に優しくこう云った。いかにも親し気な調子であり、慈愛に充ちた調子であった。
お錦にとっては意外であった。何の理由で、何の権利で、紫錦などと呼び捨てにするのだろう? で彼女は不快そうに顔をそむけ[#「そむけ」に傍点]て黙っていた。
「それに、ほんとに、立派になったなあ」
また「爺つあん」はこう云った。感情に充ちた声である。
「いらざるお世話で、莫迦にしているよ」いよいよ慣れ慣れしい相手の様子に、彼女は一層腹を立て、心の中でこう怒鳴《どな》ったが、でもやっぱり黙っていた。
しかし「爺つあん」は態度を変えず、同じ調子で云いつづけた。「聞けばお前は日本橋の伊丹屋さんにいるそうだが、この上もない結構なことだ。辛抱して可愛がられ、嫁になるように心掛けなければならねえ」ここでちょっと言葉を切ったが、「ところでお前は二の腕に、大きな痣があるだろうな?」
「ええ」と初めてお錦は云った。「大きな痣がありますわ。どうしてそんなこと知っているんでしょう?」
「私はな」と「爺つあん」は微笑しながら「そうだ、私はな、お前のことなら、どんなことでも知ってるよ」
確信のあるらしい調子であった。
で、お錦は怪しみながらも改めてつくづくと「爺つあん」を見た。しかしやはりその老人は、彼女にとっては見覚えがなかった。
11[#「11」は縦中横]
「紫錦《しきん》」と「爺《とっ》つあん」は云いつづけた。「俺の命は永かあねえ、胃の腑に腫物《できもの》が出来たんだからな。で俺はじきに死ぬ。また死んでも惜しかあねえ。俺のような悪党は、なるだけ早く死んだ方が、かえって人助けというものだ。それで死ぬのは惜しかあねえが、ここに一つ惜しいものがある。他でもねえこの箱だ」
布団の下から取り出したのは、神代杉《じんだいすぎ》の手箱であった。
「これをお前に遣ることにする。大事にしまっておくがいい。そうして俺が死んだ後で、窃《こっそ》りひらいて見るがいい。お前を幸福《しあわせ》にしようからな」
ここでちょっと憂鬱になったが、
「そうだ、そうしてこの箱をひらくと、お前の本当の素性もわかる。もっともそいつ[#「そいつ」に傍点]はかえってお前を不幸《ふしあわせ》にするかもしれねえがな。……だが[#「だが」に傍点]それも仕方がねえ」
「爺つあん」はしばらく黙り込んだ。
それからソロソロと手を延ばすと、指先を畳目へ差し込んだ。それからじっと[#「じっと」に傍点]聞き耳を澄まし四辺《あたり》の様子をうかがってから、ヒョイと畳目から指を抜いた。
「これを」と「爺つあん」は囁くように云った。「早くお取りこの鍵を!」
見ると「爺つあん」は指先に小さい鍵を摘まんでいた。
「箱も大事だが鍵も大事だ。鍵の方がいっそ[#「いっそ」に傍点]大事だ。だから別々にしまって置くがいい。この鍵でなければこの箱は、どんなことをしても開かないんだからな、……ところで紫錦よ気をおつけ。敵があるからな、敵があるからな。……で、もうこれで用はおえた。気をつけてお帰り、気を付けてな」
そこでお錦は二品を貰い、急いで部屋を抜け出した。
送るというのをことわって[#「ことわって」に傍点]、義哉《よしや》と一緒に帰ることにした。
森然《しん》とふけた夜の町を、二人は並んで歩いて行った。
義哉から見たお錦という女は、どうにも不思議な女であった。華美な身装、濃艶《のうえん》な縹緻、それから推《お》すと良家の娘で、令嬢と云ってもよい程であったが、その大胆な行動や、物に臆《お》じない振舞から見れば素人娘とは受け取れない。
「不思議だな、見当がつかない。……だが実に美しいものだ。しかしこの美には毒がある。触れた男を傷つける美だ」
肩をならべて歩きながらも、警戒せざるを得なかった。
「ところで住居《すまい》はどの辺りかな?」
こらえられずに訊いてみた。
「ハイ、日本橋でございます」
「日本橋はどの辺りかな?」
「あの伊丹屋という酒問屋で」
「はあ、伊丹屋、さようでござるか」
義哉はちょっとびっくりした。伊丹屋といえば大家である。その名は彼にも聞えていた。
「失礼ながら、ご令嬢かな?」
「ハイ、娘でございます」
「さようでござるか、それはそれは」
こうは云ったが愈々益々《いよいよますます》、疑わざるを得なかった。
「それほどの大家の令嬢が、こんな深夜に江戸の町を、あんな片輪者を一人だけ連れて、浅草あたりのあんな家を、どうして訪ねたものだろう? いやいやこれは食わせ物だ。色を売る女であろうもしれぬ」
しかし間もなくその疑いが杞憂であったことが証拠立てられた。
「あの、ここが妾《わたくし》の家で」
こう云いながら指差した家が、紛れもなく伊丹屋であったからである。
「あの……」とお錦は云い難そうにしばらくもじもじ[#「もじもじ」に傍点]していたが「いずれ明日改めて、お礼にお伺い致しますがどうぞその時までこの手箱をお預かり下さることなりますまいか」
こう云いながら差し出したのは「爺つあん」から貰った手箱であった。
「ははあ」と義哉は胸の中で云った。「さては恋文でも入れてあるのだな。あの浅草の古びた家は媾曳《あいびき》の宿であったのかもしれない。大胆な娘の様子から云っても、これは確かにありそうなことだ。とんだ所へ飛び込んだものだ」
苦笑せざるを得なかった。
彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸《くぐりど》があき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。
12[#「12」は縦中横]
「爺つあん」はすっかり疲労《つかれ》てしまった。
ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。
で、布団を胸へかけ、静かに睡《ねむり》へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆《やといばあ》さんが顔を出した。
「もし、親方、お客様ですよ」
「誰だか知らねえが断っておくれ」
「どうしても逢いたいって仰有《おっしゃ》るので」
「ところが俺は逢いたくねえのだ」
「困りましたね、どうしましょう」
婆さんはいかにも困ったらしかった。
「どんな人だね、逢いたいって人は?」
それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、
「「爺つあん」俺だよ」という声がした。
開けられた襖のむこう[#「むこう」に傍点]側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。
「おっ、お前は文じゃねえか!」
「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。
「うん、そうだよ、「釜無《かまな》しの文《ぶん》」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっち[#「あっち」に傍点]へ行っていな、俺《おい》ら「爺つあん」に用があるんだからな」
雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。
「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」
「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」
「おいら[#「おいら」に傍点]夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村《はむら》一座の仕打《しうち》として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」
「目付けてくれずともよかったに」
「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」
「ところで、どうして目付けたな?」
「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」
「ああ成程、トン公をな」
「彼奴《きゃつ》は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」
「そういうことだな、トン公から聞いた」
「ところが今じゃお前の座にいる」
「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」
「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺《おい》ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ[#「そいつあ」に傍点]問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」
「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。
「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換《かえっこ》しようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。
「交換だって? え、何の?」
「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな」
「成程」と云ったが、「爺つあん」は、変に皮肉に微笑した。「その交換なら止めようよ」
「え、厭だって? どうしてだい?」文は明かにびっくり[#「びっくり」に傍点]した。
「もうあの娘には用がねえからさ」
「おかしいな、どうしてだい?」
「俺の心が変ったからさ」
「だって、お前の子じゃあねえか」
「それに」と「爺つあん」は嘲笑うように「噂によるとあの紫錦は、高島以来お前の所から、行衛《ゆくえ》を眩ましたって云うじゃねえか」
「え?」と云ったが釜無しの文は、顔に狼狽を現わした。しかしすぐに声高く笑い「トン公の野郎め、喋舌ったな!」
「手許にもいねえその紫錦を、どうして俺らへ返してくれるな?」
「うん」と云ったが、行き詰ってしまった。
「だがな」と文は盛り返し「いかにも紫錦は手許にはいねえ。だが居場所は解っている。源公が後をつけ[#「つけ」に傍点]て行ったはずだ」
「ふうむ」
と今度は「爺つあん」の方が、苦悶の色を現わした。
「だから紫錦は俺達のものさ」
「ほんとに居場所を知っているのか?」
「知っていなくてさ。大知りだ」
「どこに居るな? 云ってみるがいい」
「じゃ、よこせ、杉の手箱を!」
隙さず文は手を出した。
13[#「13」は縦中横]
「その手箱なら手許にないよ」素気なく「爺つあん」は云い放った。
「嘘を云いねえ、ほんとにするものか」文は憎さげに笑ったが、「ではどうでも厭なのだな。ふん、厭なら止すがいい。その代り紫錦を連れて来て、もう今度は遠慮はいらねえ、何も彼もモミクチャにしてやるから」
これを聞くと「爺つあん」の顔は、不安のために歪んだが、
「文! 紫錦にゃ罪はねえ! そんな事はよしてくれ!」
「じゃ、手箱を渡すがいい」
「ないのだないのだ! 手許には!」
「じゃ一体どこにあるのだ?」
「そいつあ云えねえ。勘弁してくれ」
「云えなけりゃそれまでよ。……そろそろ料理に取りかかるかな」
文は部屋から出ようとした。
「オイ待ってくれ、釜無しの!」と「爺つあん」は周章《あわ》てて呼びとめた。
「何か用かな? え、「爺つあん」?」相手の苦痛を味わうかのように文はゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]とこう云った。
「ほんとに紫錦をいじめる気か?」
「二枚の舌は使わねえよ」
「ほんとに居場所を知ってるのか? え、紫錦の居り場所を?」
「二枚の舌は使わねえよ
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