」
「でも一座の連中で、お前のことを悪く云う者は、それこそ一人だってありゃアしねえよ」
「それは俺らが座主だからだろう」
「ああそれもあるけれどね……」
「うっかり俺の悪口でも云って、そいつを俺に聞かれたが最後、首を切られると思うからさ」
「ああそいつ[#「そいつ」に傍点]もあるけれどね……」
「それより他に何があるものか」
「金を貸すからいい親方だと、こうみんな云っているよ」
「アッハハハ、そうだろう。その辺りがオチというものだ。ところでそういう人間のことだ、俺が金を貸さなくなったら、今度は悪口を云うだろうよ」
「ああそりゃあ云うだろうよ」トン公は直ぐに妥協した。それが「爺つあん」には可笑しかったか面白そうに笑ったが、
「トン公、お前は正直者だな。だから俺はお前が好きだ」
「ううん、何だか解《わか》るものか」それでもトン公は嬉しそうに笑った。
「うんにゃ、俺はお前が好きだ。その剽軽な巾着頭《きんちゃくあたま》、そいつを見ていると好い気持になる」
「何だ俺らを嬲るのけえ」トン公は厭な顔をした。
「怒っちゃいけねえいけねえ。本当のことだ、なんの嬲るものか。それはそうと、なあトン公、お前は随分苦労したらしいな」
8
「ああ随分苦労したよ」トン公はちょっと寂しそうにした。
「俺らの一座へ来る前には、お前《めえ》どこの座にいたな?」
「俺ら軽業の一座にいたよ」
「軽業の一座? ふうん、誰のな?」
「「釜無《かまなし》の文《ぶん》」の一座にだよ」
これを聞くと「爺つあん」は急にその眼を輝かせたが、すぐ気が付いてさり[#「さり」に傍点]気なく、
「ああそうか「釜無の文」か……ところで諏訪ではご難だったそうだな」
「お話にも何にもなりゃあしない」
「それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?」
「幾人もいたよ、綺麗な娘なら」
「それ、文の養女だとか云う?」
「ああそれじゃ紫錦《しきん》さんだ」
「うん、そうそうその紫錦よ、行衛《ゆくえ》が知れないって云うじゃないか」
するとトン公は得意そうにニヤリとばかり一人笑いをしたが「ああ行衛が知れないよ。……だが俺らだけは知っている」
「え?」と、「爺つあん」は眼を丸くした。「お前知っているって? 紫錦の行衛を?」
こう云う「爺つあん」の声の中には恐ろしい情熱が籠っていた。それがトン公を吃驚《びっくり》させた。
「おいトン公」と「爺つあん」は、夜具から体を抜け出させたが「ほんとにお前が知っているなら、どうぞ俺に話してくれ。お願いだ、話してくれ。え、紫錦はどこにいるんだ?」
「だが紫錦さんの在所《ありか》を聞いて「爺つあん」お前はどうする意《つもり》だな」
「どうしてもいい、教えてくれ! え、紫錦はどこにいるな?」
「お気の毒だが教えられねえ」にべもなくトン公は突っ刎ねた。
「教えられねえ? 何故教えられねえ?」
「お前の本心が解《わか》らねえからよ」
「俺の本心だって? え、本心だって?」
「今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福《しあわせ》なのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうも酷《ひど》く破壊《こわれ》やすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここに幸《しあわせ》のことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな」
「だが」と「爺つあん」は遮った。「だが俺はお前の云う、よくねえ奴じゃねえんだからな。だから明かしたっていいじゃねえか」
「どうしてそれが解るものか」
「じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?」
「俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか」
「だが、そいつは昔のことだ」
「ああそうか、昔のことか」
「今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ」
「そうだと思った。そうなくちゃならねえ。だが「爺つあん」それにしてもだ、紫錦さんの居場所を俺らから聞いて一体どうするつもりだな?」
すると「爺つあん」は声を窃《ひそ》め、四辺《あたり》をしばらく見廻してから「人に云っちゃいけねえぜ。え、トン公承知だろうな。……実は俺はその紫錦に大事な物を譲りてえのだ」
「だがお前と紫錦さんとはどんな関係があるんだろう?」
「それは云えねえ。云う必要もねえ」いくらか「爺つあん」はムッとしたらしい。
「とにかく」と「爺つあん」は云いつづけた。「それを譲られると譲られた時から、紫錦は幸福になれるんだよ」
「……」トン公は黙って考え込んだ。どうやら疑っているらしい。しかしとうとうこう云った。
「俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう」
「おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?」
「江戸にいるよ。この江戸にな」
「江戸はどこだ? え、江戸は?」
「日本橋だよ。酒屋にいるんだ」
「日本橋の酒屋だって?」
「伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ」
「ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった」
葉村《はむら》一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。
驚いたのはトン公であった。ポカンと「爺つあん」を眺めやった。
9
チョンチョンチョンと拍子木の音がどこからともなく聞こえてきた。
「おや、どうしたんだろう? あの拍子木の音は?」
お錦は呟いて耳を澄ました。
「トン公の拍子木に相違ないよ」
そこで彼女は部屋を抜け出し裏庭の方へ行って見た。木戸の向うに人影が見えた。下駄を突っかけると飛石伝いに窃《そっ》と其方《そっち》へ小走って行った。燈火《ともしび》の射さない暗い露路に小供が一人立っていたが、しかしそれは小供ではなく思った通りトン公であった。
「トン公じゃないか、どうしたのさ?」
するとトン公は近寄って来、
「よく拍子木が解《わか》ったな」
「お前の打手を忘れるものかよ」
「実は急に逢いたくってな、それで呼び出しをしたやつさ」
「用でもあるの? お話しおしよ」
「ねえ紫錦《しきん》さん、俺らと一緒に、ちょっとそこ迄行ってくれないか」四辺《あたり》を憚ってトン公は云った。
「行ってもいいがね、どこへ行くの?」
「金龍山瓦町《きんりうざんかわらまち》[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]へよ」
「浅草じゃないか、随分遠いね、それにこんなに晩になって」お錦は怪訝そうに云うのであった。
「それがね、至急を要するんだ」
「へえ不思議だね、何の用さ」
「逢いてえって人があるんだよ。是非お前《めえ》に逢い度えって人がな。それが気の毒な病人なんだ」
「誰だろう? 知ってる人?」
「お前の方じゃ知らねえだろうよ。だが確かな人間だ。実は俺らの親方なのさ」
「お前の親方? 玉乗りのかい?」
「ああそうだよ。葉村《はむら》一座のな。俺らその人に頼まれて、お前を迎いに来たってやつよ」
トン公はそこで気が付いたように、
「だがお前は出られめえな、なにせ大家のお嬢さんだし、もう夜も遅いんだからな」
「行くならこのまま行っちまうのさ」
「だが後でやかましいだろう?」
「そりゃあ何か云われるだろうさ」
「困ったな、では止めるか。止めにした方がよさそうだな」
「くずくず云ったら飛び出してやるから、そっちの方は平気だよ。それより妾《わたし》にゃその人の方が気味悪く思われるがね」
「うん、こっちは大丈夫だ。俺らが付いているんだからな」
「では行こうよ。思い切って行こう」
そこで二人は露地を出て、浅草の方へ足を運んだ。
「トン公」とお錦は不意に云った。「今日|彼奴《あいつ》らと邂逅《でっくわ》したよ。源公《げんこう》の奴と親方にね」
「え!」とトン公は怯えたように声を上げたが「ふうんそいつあ悪かったなあ。一体どこで邂逅したんだい?」
「観音様の横手でね」
「それじゃ今日の帰路《かえり》にだな」
「お前と別れてブラブラ来るとね、莚《むしろ》の上で親方がさ、えて[#「えて」に傍点]物を踊らせていたじゃないか」
「ふうんそいつアしまった[#「しまった」に傍点]なあ」
「早速源公が後をつけて来たよ」
「え、そいつアなおいけねえや」
「ナーニ途中で巻いっちゃった[#「巻いっちゃった」はママ]よ」
「そいつアよかった。大出来だった」
話しながら歩いて行った。
こうして上野の山下へ来た。と五六人の人影が家の陰から現われ出た。
「おや」とトン公が云った時、堅い棒で脳天の辺りを厭という程ブン撲られた。「あっ、遣られた、こん畜生め!」こう叫んだがその声は咽喉から外へ出なかった。たちまちにグラグラと眼が廻り、何も彼も意識の外へ逃げた。
お錦は人影に取り巻かれた。
「何をするんだよお前達は!」
気丈な彼女は怒鳴《どな》り付けたが、何の役にも立たなかった。彼女は直ぐに捉えられた。
「構う事アねえ、担いで行け!」
彼等の一人がこう云った。彼女にはその声に聞き覚えがあった。
「あ、畜生、源公だな!」
「やい、紫錦、態《ざま》あ見ろ! よくも仲間を裏切ったな、料《りょう》ってやるから観念しろ!」
源太夫は嘲笑った。
「さあ遣ってくれ、邪魔のねえうちに」
しかし少々遅かった。邪魔が早くも入ったのである。
「これ、待て待て、悪い奴等《やつら》だ!」
こう云って走って来る人影があった。
「あっ、いけねえ、侍だ」
「またにしろ! 逃げたり逃げたり!」
――源太夫の群はお錦を投げ出しどことも知れず逃げてしまった。
10[#「10」は縦中横]
「娘御、お怪我はなかったかな」
「あぶないところをお助け下され、まことに有難う存じます。ハイ幸い、どこも怪我は……」
「おおさようか、それはよかった。……や、ここに仆《たお》れているのは?」
こう云いながら若侍はトン公の方へ寄って行った。
「妾《わたし》の知己《しりあい》でございます。もしや死んだのではございますまいか?」
お錦は不安に耐えないように、トン公の上へ身をかがめた。
若侍は脈を見たが、「大丈夫でござる。活きております。どうやら気絶をしたらしい」
間もなくトン公は正気になった。
「済まねえ済まねえ、眠っちゃった。ナーニもう大丈夫だ。だが畜生頭が痛え」
負け惜しみの強いトン公は、気絶したとは云わなかった。
二人を救った若侍は小堀義哉《こぼりよしや》というもので、五百石の旗本の次男、小さい時から芸事が好き、それで延寿《えんじゅ》の門に入り、五年経たぬ間に名取となり、今では立派な師匠株、従って父親とはソリが合わず、最近家を出て一家を構え、遊芸三昧に日を暮らしている結構な身分の者であったが今日も清元のおさらい[#「おさらい」に傍点]に行き、遅くなっての帰路であった。
「またさっき[#「さっき」に傍点]の悪者どもが盛り返して来ないものでもない、瓦町《かわらまち》まで送りましょう」
義哉は親切にこう云った。
で三人は歩くことにした。
「爺つあん」の住居へ着いたのはそれから間もなくのことであったが、別れようとする若侍をお願いしてお錦は引き止めて置いて、家の内へ入って行った。
ガランとした古びた家であった。
そうして「爺つあん」の寝ている部屋は、その家の一番奥にあった。
「「爺つあん」、紫錦《しきん》さんを連れて来たよ」
トン公はこう云って入って行った。
「トン公、どうも有難う」
こう云いながら「爺つあん」は布団の上へ起き上った。そうしてつつましく[#「つつましく」に傍点]膝をついたお錦の顔をじっと見た。
と、みるみる「爺つあん」の眼から大粒の涙が零れ出た。非常に感動したらしい。
「おかしな爺さんだよ、どうしたんだ
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング