」
「それじゃどうも仕方がねえ」じっ[#「じっ」に傍点]と「爺つあん」は考え込んだが、
「云うとしよう、在り場所をな」
「おお云うか、それはそれは」文はニタリと北叟笑《ほくそえ》みをしたが、「どこにあるんだ、え、手箱は」
「その代り手箱を手に入れたら、きっと紫錦からは手を引くだろうな」
「云うにゃ及ぶだ、手を引くとも。元々あの娘を抑えたのは、その手箱が欲しかったからさ。いわば人質に取ったんだからな。……で、手箱はどこにあるな?」
「よく聞きねえよ、その手箱はな……」
「おっと、云っちゃいけねえ!」突然こう云う声がした。
驚く二人の眼の前へ、襖をあけて現われたのは、他でもないトン公であったが、頭を白布で巻いているのは、傷を結《いわ》えたからであろう。
「おお親方、久し振りだね」まず文へ挨拶をした。
「や、手前、トン公じゃねえか!」文は憎さげに怒鳴《どな》り声をあげ「福助の出る幕じゃあねえ、引っ込んでろ!」
「そいつはいけねえ、いけねえとも、お生憎さまだが引っ込めねえ」負けずにトン公はやり返した。
「と云うなあお前さんが、あんまり嘘を云うからさ」
「ナニ嘘を云う? 嘘とはなんだ!」
「嘘じゃねえかよ、ねえ親方、なんのお前さんや源公が、紫錦さんの居場所を知ってるものか。大嘘吐きのコンコンチキさね。こっちはちゃあんと[#「ちゃあんと」に傍点]見透しだあ」トン公は小気味よく喝破してから、「ねえ親方、嘘だと思うなら、荒筋を摘まんで話してもいい。聞きなさるか、え、親方《おやかた》?」
文は返辞をしなかった。
「まずこうだ、しかも今日、お前さんとそうして源公とが、観音堂の横っちょ[#「っちょ」に傍点]で、エテ物を踊らせていたってものだ。するとそこへ遣って来たのが、令嬢姿の紫錦さんよ。で、早速源公が後をつけ[#「つけ」に傍点]たというものだ。そうさ、ここまでは成功だ。だが、後が面白くねえ、そうさ、途中でまかれ[#「まかれ」に傍点]たんだからな。アッハハハ、いい面の皮さ。……だから親方にしろ源公にしろ、紫錦さんの居り場所なんか、知ってるはずはねえじゃあねえか。へん、この通り、見透しだあね」
文は返辞をしなかった。事実は返辞が出来なかった。それというのもトン公の言葉が一々胸にあたるからであった。
「トン公!」ととうとう喚くように云った。「昔の親方の恩を忘れ、襟元へ付こうって云うんだな。覚えていろよ、いい事アねえぞ」
「覚えているとも」とトン公は笑い、「悪いことは云わねえ帰った方がいい。そうだ足下の明るいうちにね」
云い捲くられた釜無しの文は、縹緻《きりょう》を下げて帰ることになった。
足音が門口から消えた時、「爺つあん」は深い溜息をした。
「……すんでに瞞される所だった。トン公、ほんとに有難うよ」
「ナーニ」と云ったがトン公は、頭の繃帯を手でさぐり、「どうもいけねえ、まだ痛えや。……だがね「爺つあん」実の所はね、紫錦さんは浮雲《あぶね》えんだよ」
「え、どうしてだい? どうして浮雲えな?」
「源公の野郎ヤケになって、江戸中探しているらしいんだ。それで今夜もぶつかったって訳さ。この頭の傷だって、つまり何だ、その時の土産《みやげ》さ。……あれいけねえ、まだ痛えや!」怨めしそうな顔をした。
14[#「14」は縦中横]
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]よし足引の山めぐり、四季のながめも面白や、梅が笑えば柳が招く、風のまにまに早蕨《さわらび》の、手を引きそうて弥生《やよい》山……
[#ここで字下げ終わり]
その翌日の午後であったが、小堀義哉《こぼりよしや》は裏座敷で、清元《きよもと》の『山姥《やまうば》』をさら[#「さら」に傍点]っていた。
と、襖がつつましく[#「つつましく」に傍点]開いて、小間使いのお花が顔を出した。
「あの、お客様でございます」
「お客様? どなただな?」
「伊丹屋《いたみや》の娘だと仰有《おっしゃ》いまして、眼の醒《さめ》るようなお美しい方が、駕籠でお見えでございます」
「ああそうか、通すがよい」
間もなく部屋へ現われたのは、盛装をしたお錦であった。
「お錦殿か、よく見えられたな」義哉は愛想よく声を掛けた。
「昨夜はお助け下されまして、お蔭をもちまして危難を遁がれ、何とお礼を申してよいやら」
お錦は手をついて辞儀をしたが、「お礼にあがりましてござります」
其処へ小間使いが現われて、頂戴物の披露をした。
「それはそれはご丁寧に。そんな心配には及ばなかったものを」義哉はかえって気の毒そうにした。
一人は美男の若侍、一人は妖艶な町娘、それに男は武士とは云っても、清元の名手で寧ろ芸人そうして女は其昔は女軽業の太夫である。それが春の日の閑静な部屋に、二人だけで向かい合っているのであった。
二人はしばらく黙っていた。蒸されるような沈黙であった。
「おおそうそう、杉の手箱をお預かりしてあったはず、お持ち帰りになられるかな」やがて義哉はこう云って、ものしずかに立ち上りかけた。
「ハイ」と云ったが、周章《あわ》てて止め、「ご迷惑でないようでございましたら、その手箱はもう少々お預かりなされて下さいますよう」
「ははあ左様か、よろしゅうござる」
この手箱がありさえしたら、これから度々この娘が、訪ねて来ないものではない。何と云っても美しい娘で、美人を見るということは、悪い気持のものではない。……これが義哉の心持だった。それで、承知したのであった。話の口が切れたので、すぐに義哉は追っかけて訊いた。
「由《よし》ありそうな杉の手箱、何が入れてありますかな?」
「さあ何でございましょうか」お錦は一向平気で云った。「戴いたものでございますの」
「ほほう左様で、誰人《どなた》からな?」
「ハイ、見知らぬ老人から」
「見知らぬ老人から? これは不思議」
「ほんとに不思議でございますの。……昨夜あれから参りました、瓦町《かわらまち》の古家で、気味の悪い老人から、戴いたものでございます」
「ふうむ」と云ったが小堀義哉は、にわかに興味に捉えられた。
で、立ち上って隣室へ行き、袋戸棚の戸をあけて、杉の手箱を取り出して来た。それから仔細に調べたが、
「この箱は杉ではない」先づこう云って首を傾げた。
「杉でないと仰有《おっしゃ》いますと?」
「杉材としては持ち重りがする。鐡で作った箱の表皮へ、杉の板を張り付けたもので、しかも日本の細工ではない。支那製か南蛮製だ」
「マアさようでございますか」お錦も興味を感じてきた。
「ひとつ、開けて見ましょうかな。おおここに鍵穴がある。さて鍵だがお持ちかな?」
「ハイ、うち[#「うち」に傍点]にならございます」
「では明日にでも持って来て、ともかくも開けて見ましょうかな」
「そういうことに致しましょう」
ここで話がちょっと切れた。
もう夕暮《ゆうやみ》に近かった。庭の築山では吉野桜が、微風にもつれて[#「もつれて」に傍点]散っていた。パチッ、パチッと音のするのは、泉水で鯉が躍ねるのであった。
何気なくお錦は庭を見た。往来と境の黒板塀にかなり大きな節穴があったが、そこから誰か覗いていると見えてギラギラ光る眼が見えた。
「あれ!」とお錦の叫んだ時には、もうその眼は消えていた。
15[#「15」は縦中横]
やがて夕暮がやって来た。お暇をしなければならなかった。充分の未練を後へ残し、お錦は駕籠で帰って行った。
「よこしまの美であろうとも、美人はやっぱり好ましいものだ」
義哉《よしや》はこんなことを想いながら、部屋に残っている脂粉の香に、うっとりと心をときめかした。
思い出して三味線を取り上げると、さっきの続きを弾き出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]雁がとどけし玉章《たまづさ》は、小萩のたもとかるやかに、へんじ紫苑《しおん》も朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
[#ここで字下げ終わり]
ちょうどここまで引いて来た時、どうしたものか一の絃が、鈍い音を立ててブッツリと切れた。
「これはおかしい」と云いながら三味線の棹を膝へのせ、義哉は小首をかたむけた。
「一の絃の切れるのは、芽出度いことになっているが、どうもそうとは思われない」彼は何となく不安になった。「変ったことでもなければよいが」
帰って行ったお錦のことが、妙に気になってならなかった。で、三味線を掻いて遺ると彼は急いで立ち上った。
「お花お花」と小間使を呼び「ちょっと私は出てくるからね。この手箱をしまっておくれ」
云いすてとつかわ[#「とつかわ」に傍点]家を出ると、愛宕《あたご》下の方へ足を向けた。
暮れそうで暮れない春の日も、愛宕下へ来た頃には、もうすっかり暮れてしまって、人の顔さえさだか[#「さだか」に傍点]でなかった。その時こんもりと繁り合った、林の中から云い争うような男女の声が聞こえてきた。
さてこそ[#「さてこそ」に傍点]! というような気持がして、義哉はそっち[#「そっち」に傍点]へ走って行った。
そこは林のずっと奥で、丘になろうとする傾斜地であったが、香具師《やし》風をした八九人の男が、一人の娘を真中に取り込め、口汚く罵っていた。その娘はお錦であった。それと見て取った小堀義哉は、足音荒く走り寄ったが、
「この破落戸《ならずもの》!」と一喝した。
しかしこれは悪かった。破落戸のうち四五人の者が、急に彼の方へ向かって来た。そうして後の四五人は、お錦を宙へ吊るすようにして、一散に丘の方へ走り出した。ならずもの[#「ならずもの」に傍点]などと声をかけずに、忍び寄って一刀に、彼らの一人を斬ったなら、彼らは恐れて逃げたかもしれない。
義哉へ向かった破落戸達は、いずれも獲物を持っていた。そうして人数も多かった。無手であしらう[#「あしらう」に傍点]のは困難であった。そこで義哉も刀を抜いた。
義哉は芸人ではあったけれど、武術もひととおりは心得ていた。しかし勿論名人ではなかった。とはいえ四五人の破落戸ぐらいに、退《ひ》けを取るような未熟者でもなかった。
しかし彼の心持は、この時ひどく混乱していた。娘を助けなければならないからであった。
彼は平和好きの性質からいえば、人を斬るのは厭であり、峯打ちぐらいで済ましたかったが、しかしそうはいかなかった。破落戸どもの抵抗は、思ったよりも強かった。
「チェッ」と一つ舌うちをすると、真先に進んで来た破落戸の右の手首へ斬り付けた。
侍でない悲しさに、斬り付けられた破落戸は、ワーッと叫ぶと尻もち[#「もち」に傍点]を突いた。踏み込んで行って斬り付けるのは、容易なことではあったけれど、義哉はそうはしなかった。ビューッと刀を振り廻し、
「まだ来る気か!」と威嚇した。
これは非常に有効であった。ワーッと叫ぶと破落戸どもは、手負い[#「手負い」は底本では「手負ひ」]の仲間を捨てたまま、パラパラと四方へ逃げ散った。
その隙に義哉は走り出した。
朧ろの春の月影に、丘の方を透かして見ると、お錦をかどわか[#「かどわか」に傍点]した一団は、今や丘を上りきり、向う側へ下りようとしていた。
で、血刀をさげたまま彼はその後を追っかけた。しかし頂上まで来た時には、彼等の一団は丘を下り、巴町《ともえちょう》の方へ走っていた。
そこで彼も丘を下り、彼らの後を追っかけて行った。
夜の静寂を驚かせ、彼らの走る足音は、家々の戸に反響したが、さてその戸を引き開けて、事件の真相を知ろうというような、冒険好きの者はいなかった。この頃は幕府も末の末で、有司の威令は行なわれず、将軍の威厳さえほとんど傾き、市中は文字通り無警察で、白昼切取強盗さえあった。
そこで、市民は日中さえ、店を開こうとはしないほどであった。
その時、破落戸の一団は、にわかに大通りから横へそれた。で、義哉もその後を追い、狭い露路を左へ曲がった。
曲がって見て彼はアッと云った。露路は浅い袋路なのに、彼らの姿がどこにも見えない。
彼は棒立ちに突立った。それから仔細に辺りを見た。
16[#「16」は縦
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