郎は、注意するように云ったものである。「一式氏はな、鐘巻流の名手、瞬間に四人を討ち取ったほどの、素晴らしい腕を持っておられる。とても敵《かな》いませんよ、一騎討ちではな! そこで一同一つに集まり、半円を作ってヒタヒタ攻め、乱刃の中へ取り込めましょう。抜からぬように、よろしいかな。……一式氏!」と集五郎は、今度は小一郎へ声を掛けた。「さあさあ弾んで飛び込んでござい。真ん中を襲わば拙者お相手、その間に左右両翼が、引っ包んで討って取りましょう。左に向かわば右翼が返り、右に向かわば左翼が返り、同じく引っ包んで討って取る。もしいつまでも岩を背に、縮《すく》んでおいでなさるなら、よろしいよろしい次第に迫り詰め、十二本の白刃一時に、雨のように浴びせてお目にかける。……方々!」とまたもや集五郎は味方の勢《ぜい》を見返ったが、「とりかかりましょうか、人間料理!」
 声に応じて一ツ橋家の武士達、左右に延びて半円を作り、ジリジリジリジリと攻め寄せた。
 一方一式小一郎は、岩を背後に下段八双、構えたままで動かない。とはいえ心では考えていた。
「いかにも集五郎の云う通り、真ん中を襲ったら左右の翼、瞬間に畳んで来るだろう。取り込められては敵わない。と云って右を襲っても、ないしは左を襲っても、取り込められるに相違ない。やっぱりここに構えていよう。引き寄せられるだけ引き寄せてやろう。そこで翻然と飛び出して行き、憎いは南部集五郎、まず真っ先に叩っ切ってやろう。もう[#「もう」に傍点]二、三人仕止めたら、おおかた逃げて行くだろう。……来るわ来るわ、ジリジリと。寄せるわ寄せるわ、ジリジリと。……十二人と一人、ちと手強い。ナーニ大丈夫だ大丈夫だ!」
 いよいよ体を押し沈め、腰から上の上半身を、徐々に前方へ傾げたのは、飛び出して行く用意である。
 間隔《あわい》が次第に縮まって来る。今は双方とも物を云わない。十二本の剣がヌラヌラと、宵闇のような森の中を、一本の剣へ迫って行く。そいつを迎えた一本の剣、鶺鴒《せきれい》の尾のように上下へ揺れ、チカチカチカチカと青光る。
 殺気に充ちた静けさである。その殺気に驚いたか、数十羽の雀が棹をなし、森の一方から一方へ、啼く音も立てずに翔け通った。翼に煽られて散る枯葉、ハラハラ、ハラハラ、ハラハラと、向かい合った剣へ降りかかる。
 だがその時どうしたんだ、麓の方から竹法螺《たけぼら》の音が、ボーッとばかりに鳴り渡った。それに続いて大勢の者が、声を揃えて呼ぶ声が、木精《こだま》を起こして聞こえて来た。
「一式様!」
「小一郎様!」
「オーイ、オーイ!」
「オーイ、オーイ!」
 関宿の侠客英五郎と、その乾児《こぶん》の者百人あまり、娘の君江も中に雑《まじ》った、小一郎さがしの同勢が、大森林を上へ上へと、今や上って来るのであった。
 真っ先に立ったは英五郎で、それに引き添って君江がいる。
「お父様大丈夫でございましょうか?」君江の声は顫えている。
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は解らないよ」英五郎の声は不安そうである。
「魔所だからなあ、この森は。大勢の人間の叫び声がしたり、突然大岩が転がって来たり、にわかに大水が流れて来たり、幾十人かの片輪者ばかりが、手を繋《つな》いで現われたり、そうかと思うと天人のような綺麗な娘が一人きりで、木にもたれてションボリ考えていたり、そうかと思うと神様のような、神々しい老人が虫籠をさげて、木の枝に腰をかけたり、怪しいことばかりがあるのだからなあ……普通《なみ》の人間の分け入るのを、厭《いと》っているのだよ、この森はな。……」

        十二

「だから申したのでございます」顫えた声で君江が云う。「小一郎様、一式様、あの森へはおはいりなさいますな。恐ろしい魔所でございます。はいったが最後、お身の上に、きっと危険がございましょう。いけませんいけません。はいっては。……それだのにあの方|憑《つ》かれたように、スルスルとはいって行かれました。……お父様お父様急ぎましょう! 早く早く目付けましょう! ……どうぞご無事でいられますよう。……妾はこんなに顫えています。……だんだん胸が苦しくなる!」
「そうだそうだ、急がなければならない。早く目付けないと取り返しが付かない。……やいやい野郎ども声を上げろ! お呼びしてみろ、お呼びしてみろ!」
 そこで一同呼び立てた。「小一郎様! 一式様!」
 声々が森に反響する。「小一郎様!」と返って来る。「一式様!」と返って来る。一緒になって君江も呼んだ。君江の声が一番高い。恋人探しの若い娘の、一生懸命の声だからである。
 一人がボーッと竹法螺を吹いた。木精ばかりが、ボーッと返る。
 ドンドン一同押し上る。歩きにくい歩きにくい。
 と、一所森が途切れ、小広い空地が現われた。そこに一座の大岩があった。その前に一人の武士がいた。他ならぬ一式小一郎で、ピッタリ太刀を構えている。それを半円に取り囲み、十二人の武士が構えていた。
 全く意外な光景であった。英五郎も君江も乾児の者も、アッと一時に釘付けになった。
 その時である。小一郎は、一躍前へ飛び出した。キラッと光ったは刀であろう。一声悲鳴が森を縫った。一人の武士がぶっ倒れた。しかしその次の瞬間には、十一人の武士がグルグルと、小一郎を真ん中に引っ包んだ。
「お父様!」
「君江!」
 と親子二人が、思わずヒョロヒョロとよろめいたのは、一式小一郎が、十一人の武士に、討って取られたと思ったからであろう。が、そいつは杞憂であった。数合の太刀音、数声の悲鳴、二人の武士が転がった。と、爾余の武士達が、ムラムラと左右へ崩れ立った。その隙間から毬のように、ポンと飛び出した武士がある。小一郎だ、岩を背負い、軽傷《うすで》も負わぬか、たじろぎ[#「たじろぎ」に傍点]もせず、刀を付けて構え込んだ。
「野郎ども!」と英五郎は、はじめて大音を響かせた。「やっつけてしまえ、背後《うしろ》から! 鏖殺《みなごろし》にしろ! 三ピンを!」
 竹槍、棍棒、道中差し、得物をひっさげた百人あまりの乾児、ワーッとばかり鬨の声を上げた。英五郎を先頭に君江までが、武士達の一団へ切り込んだのである。
 しかしこの時何んという、不思議なことが起ったのだろう!
 森の奥から気味の悪い、妖精じみた叫び声が、はっきり二声聞こえたのである。
「お山を穢《けが》すな! お山を穢すな!」
 それからゴーッという音がした。
 それから大水が流れて来た。河というよりも滝というべきで、石を転ばせ木を倒し、灌木の茂みを根こそぎ[#「こそぎ」に傍点]にし、そうして人間を押し流した。小一郎はどうしたろう? 一ツ橋家の武士達はどうしたろう? 英五郎や君江達はどうしたろう?。

 さてその日から数日経った。
 ここは森林の底である。周囲半里はあるだろうか、大きな池が湛えられている。その岸に点々と家がある。
 ひときわ大きな木造家屋は、全く風変りのものであった。一口に云えば和蘭陀《オランダ》風で、柱にも壁にも扉にも、昆虫の図が刻《ほ》ってある。真昼である、陽があたっている。
 と、玄関の戸をひらき、現われた一人の武士がある。何んと一式小一郎ではないか。
 前庭をブラブラ歩き出した。
「いい景色だな、風変りの景色だ。日本の景色とは思われない」
 こんなことを口の中で呟いている。
「小一郎様」
 と呼ぶ声がして、家の背後《うしろ》から現われたのは、笑みを含んだ桔梗様であった。
「ご気分はいかがでございます」
「お蔭で今日はハッキリしました」小一郎は愉快そうに笑い返した。
「憎い大水でございましたことね」
「かえってお蔭で昆虫館へ参られ、私には本望でございましたよ。その上美しい声の主の、あなたにお目にかかれましたのでな」
「おや」と云うと桔梗様は、花壇の方へ眼をやった。四季咲き薔薇の花の蔭から、誰か覗いていたからである。二人の話を盗み聞くように。

        十三

「どうなされました?」と小一郎は、桔梗様の顔を見守った。
「いいえ何んでもございません」こう云ったは桔梗様で、いくらか不安そうな様子である。
 だが覗いていた眼の主は、すぐに姿を消してしまった。コツンコツンと音がする。松葉杖の音である。覗いていたのは吉次らしい。花壇を巡って立ち去ったらしい。
 そこで小一郎と桔梗様とは、大池の方へ歩き出した。
「あの大水には驚きました。幸いに岩蔭におりましたので、私は流されはしませんでしたが、他の連中は一人残らず、流されたことでございましょう」小一郎は笑止らしく云ったものである。
「しかし私も実際のところ、したたか水を飲ませられ、かなりひどい目には合わされましたよ」
「お気の毒でございましたこと」桔梗様は美しく笑ったが、「ご縁があったのでございましょうよ、何んとなく妾心配になり、平素《いつも》にもなく召使いどもを連れて、あの大岩まで行って見ましたところ、綺麗な若いお侍様が――あなたのことでございますよ――気絶しておいで遊ばすので、すぐお助け致しましたものの、父は不機嫌でございました」
「あなたのお父上昆虫館ご主人、ちと変人でございますな。アッハッハッ」と笑ったが、「学者にあり勝ちの憎人主義者のようで。……それはそうとあの大水、人工だそうでございますな?」
「槓杆《こうかん》一本を動かしさえすれば、大池の水が迸《ほとば》しり、流れ出るのでございます」
「とんでもない悪い槓杆で」小一郎はしかし愉快そうである、「いや俗流を追っ払うには、よい考案でございますよ。承われば、その他にも、いろいろの防備がございますそうで」
「はい」と云ったが桔梗様は、それについて話すのを好まないらしい。ヒョイと話題を変えてしまった。
「厭なお方でございますこと」こんな事を云い出した。
「は?」とちょっとばかり[#「ちょっとばかり」に傍点]面喰らったが「どなたでございますな、厭な奴とは?」
「奴などと申しは致しません」――言葉を慎しめと云いたそうに、桔梗様はちょっと睨んだが、
「厭なお方でございますこと」
「は、どうやら私のことのようで?」
「はいはいさようでございますとも」
「すると」小一郎は故意《わざと》らしく、誇張した悲しそうな表情をしたが、「美しいお声の令嬢に、恋を捧げるということは、あなたにはお気に召さないようで」
「嗜好《このみ》に合いませんとも、妾にはね」
 桔梗様も故意《わざ》と空呆けた。「恋には捧げようがございますよ」
「承わりましょう、捧げようを?」
「跪座《ひざまず》くのでございます」
「ああそれではこんなように」突然小一郎は跪座き、両手を上向けて捧げるようにしたが、「お受けくださいまし、私の恋を!」
「騎士《ナイト》よ」と桔梗様は笑いながら云った。「大岩の蔭や小梅田圃などで、むやみと太刀を揮わないように」
「ああなるほど、そのことで、厭な野郎とおっしゃったのは?」
「厭なお方と申しましたのは」
「心得ました。今後は注意! ――で、令嬢よ、私の恋は?」
「お立ちなさりませ! 妾の騎士《ナイト》!」それから片手をつと延ばした。
 その手を握りしめた小一郎は、立ち上がると今度こそ本当に、歓喜の声を上げたものである。
「あああなたは私のものだ!」それから心で考えた。「こんなに早くこの恋が、成り立とうとは思わなかった」
 だが桔梗様は不安そうに、「伴《ともな》いそうでございますよ。恐ろしい恐ろしい危険がね! ああ何んとなく私達の恋には!」
「お信じください」と小一郎は、自分の胸を指さした。「防いでみせます。この楯で」それから両腕を差し出した。「お信じください、この腕を!」
 二人優艶に抱き合おうとした。
 大池へ通う小径《こみち》である。小径の左右は花壇である。早春の花が咲いている。縞水仙の黄金色の花、迎春花の紫の花、椿、寒紅梅、ガラントウス、ところどころに灌木がある。白梅が枝を突っ張っている。貝のような花をつけている。昼の陽が小径に零《こぼ》れている。敷かれた砂がキラキラと光る。二人の影が落ちている。行手に見えるは
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